第十八話:高速を降りると、山道だった……
>>新太郎
玉緒が助手席に乗り込んでドアを閉めたのを確認してから、インスパイアのエンジンを掛け、フロントフォグランプとポジションランプを灯す。
ブレーキを踏んでシフトレンジをPからDに変え、サイドブレーキを解除して左ウインカーを点滅させる。そうしてブレーキを緩めると、俺はステアリングホイールを左へ回しながら駐車スペースから車を滑り出した。
駐車場の出入り口、歩道の手前で一時停止して右ウインカーを焚き、上半身を大きく前へ乗り出して左右の車の流れを注視する。
中央に分離帯がある4車線の道路は此方を内側に大きく湾曲し、右手方向にグンと下がっていく急坂となっている。
左手の方が高いものの、中央分離帯の茂みの所為でこれから入る方の車線の車の流れが判り辛い。しかも道が急な円弧を描いている上にその円の中心の方に居るので、そもそも車が来ているのかどうかさえ見え難くさから判断出来ない。周囲の物音によく注意しながら少しずつ車を出していくしか無い。
これで滅多に車が通らない道ならば別に構わないのだが、高速道路同士を結ぶ地方の基幹国道の一つだから、上下線共にバスやトラック等の大型車が100/km以上の速度でバンバンと通り過ぎて行く。
入る時はまだ、対向していた此方側の車線の車の流れだけに気を付けておけばそれでよかったが、出る時は両方の車線の交通に注意しなければならない。更に言えば、中央分離帯の幅が狭いから、分離帯の所で一旦停まって待って様子見をするという芸当が不可能である。行くと一旦決めたら、双方向の車線を横断して一気に素早く右折しなければ、左カーブを登ってきた追越車線を走る自動車に突っ込まれかねない。
左から来たスバルブルーのBH型レガシィ・ツーリングワゴンが右ウインカーを出しながら分離帯の切れ目で停車し、右から来た赤いXC30型のパッソが目の前を通り過ぎたので、俺は一気にアクセルを踏むと、レガシィへ向けて右手を上げつつ左手を内掛け(内掛けハンドル。同名の相撲の決まり手から由来するという、片手ハンドル・送りハンドルと並ぶ禁止手の一種。曲がる方向と逆の腕の内側を自分に向け、その手を逆手にしてハンドルの頂上を握り、内側から手を掛けるようにして力任せに振り下ろして回す方法。添い手をせずに片手だけで回そうとすると途中で止まらない、戻せない等危機回避の操作に非常な困難を要する上に、エアバックが開いた時に確実に複雑骨折する大変危険な方法である。そもそも、古くはパワーステアリング等の補助操舵機構がまだ一般的で無かった時代に、ハンドルをより楽に回す為に仕方なく編み出された技であって、パワステが普及しきった現在に於いては極一部の重ステの車を運転するでも無い限り、デメリットこそあれ、メリットなど皆無な技術である。)にして力任せに右へステアリングを切った。
そのまま右へカーブする下り坂を下りながらどんどん速度を上げていく。
前方、目下に戸賀の街を一面に見下ろせる所まで来ると、徐々に左右に茂っていた木々が開け、ポツポツと人が暮らす家や建物の数の方が増えていった。それに従って信号のある交差点の数や車の交通量も増加する。
雑居ビルが点々と立ち並ぶ繁華街を突っ切る、沢山並ぶキャットアイを挟む感じで平行に2本引かれた中央線で区切られた片道2車線の道路を進む。道を往来する自動車の数がグッと増えた為、制限速度と同じ60km/h位のスピードで車が流れている。
路地や主要市道との信号付きの交差点が100mかそこら毎に設けられているが、二桁国道である故に時折運悪く赤信号で一時停止を余儀なくされる事以外は高速のICへ向かって順調に進んでいた。
ふと、気付くと、右側の追越車線で俺の車と並走する白いSK82型のマツダ・ボンゴの運転席で、少年漫画ばかり集めた鈍器にも成り得る分厚い週刊漫画雑誌を、若い男がハンドルの上に乗せて読みながら運転しているのが目に入った。
ふらふらして危ないな、と自分も幕の内弁当を箸で突きながら運転していた事があるのを棚に上げて、俺はなるべくその車から距離を取るようにしていた。だが、何かの拍子か、いつの間にかその車は俺の車の真後ろを追走していた。勿論、相変わらず漫画を読みながらの脇見運転を続行した状態で、である。
別に運転しながら漫画をちょくちょく見るのなら別に構わない。それもどうかと思うがな!問題は、こいつみたいに漫画を読む合間に運転をしているような馬鹿の場合、前を先行する此方は絶対に急ブレーキを踏めないという点だ。常に2~3台前の状況を把握して運転しているドライバーなら、前車が急制動してもその危険を事前に察知して適切に対処してくれるが、こういう奴は周りの事は一切感知していないから、あたふたした挙句ノーブレーキで突っ込んで来るのが相場と決まっている。
幸い今、目の前の交差点の信号機の電灯が、青から黄へ切り替わった。普段なら十分止まれる距離なので迷わずブレーキを踏むが、脇見運転の車にこれ以上後ろを取られるのは癪だったので、俺は思い切りアクセルを踏み込んだ。
お陰で赤信号に変わった瞬間に交差点に進入してしまったが、仕方がない。でもまあ、これで一安心と思ってブレーキに足を掛けながらルームミラーへ目を遣ると、不思議な事にあのボンゴが俺の車の後ろで停車しようとしているのが見えた。どう考えても信号無視です。本当にありがとうございました。
うわあ、マジかよ。……と意気消沈していると、後ろの方でウ―――――ッ!と大音響で轟く覆面パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「はい、緊急車両が通ります。緊急車両が通ります。……そこの白いワンボックスのドライバーさん。『仁科401 そ ・・・8』のマツダ・ボンゴのドライバーさん。信号無視と脇見運転の現行で検挙します。路肩に停止して下さい。繰り返す。そこの『仁科401 そ ・・・8』のワンボックスのドライバー。信号無視と脇見運転の現行違反で検挙する。今すぐ路肩に車を寄せなさい。」
ボンゴの後ろから、鉄チンホイールにフルスモーク、その他見るからに覆面の特徴を具現化した反転式パトライトの、制服警官が2人乗車した白い18系クラウン・ロイヤルサルーンの後期型の覆面パトカーがハザードランプと赤色回転灯を灯しながらのっそりと現れた。
自業自得だが、ご愁傷様と思った。
空賀ICから中央高速に入る。『帝都』方向の加速車線に進入して本線へと合流する。初奈島から見ると、南へ行って東へ回ってから北に向うという、丁度平仮名の『つ』の字を描くようにUターンをする形だ。
だったら初めから陸南自動車道を南下せずに北上し、帝都高速を経由して大陸の北へ向う北中央高速に入り、そこから幻想郷八岐草薙自動車道にも接続する常番自動車道へ抜ければ一番手っ取り早いような気がする。だが、そのルートを辿ると帝都高速から北中央高速の間で大渋滞に巻き込まれるのは火を見るより明らかだ。
だからこそ俺は遠回りをしてでも渋滞を避ける為に、一旦空賀まで向かってから中央高速に乗り、帝都ICで帝都高速1号線に直結する直前にある日向三次JCTというハーフJCT(上り車線からしか入れず且つ下り車線にしか出られない、もしくは逆等、特定方向の出入りしか出来ない不完全な造りのJCT。)から常央湾岸バイパス(フリーハイウェイ)に乗り換え、そこから北中央高速を飛ばして直に常番自動車道へ入る、というルートを選択したのだ。
フルスロットルで加速し、中央高速に合流する。
片道6車線の左から3本目のレーンをキープする。何故なら、一番左にある2車線は、高速道路を上下線で挟むようにしてすぐ傍を走る側道の片道2車線のR1号との相互ランプの分合流を円滑にする専用レーンとして、所々で消滅して上下線合わせて8車線になる区間が断続的に続く箇所が幾つか存在するからである。
混み合っている所為で100km/hそこらしか出せないが、それでも一般道の車の流れよりはずっと速い。左側に見える道路を走る自動車の群をどんどん牛蒡抜きする感覚は爽快だ。
やがて、R1と併走区間が終わると、左端の2車線はR1への出口として分離し、料金所を出た所でR1に吸収されて帝都市街へ向う。そして中央高速は片道4車線の高速道路になる。
不可思議な事にこの中央高速、帝都の中心部へ向うに連れてどんどん車線の本数が減って行く。今片道4車線あるこの道も、日向三次JCTで現在走っている左端の車線が分流車線として本線から分離すると3車線になってしまう。そしてそのまま帝都高速1号線へ接続するのだ。
日向三次で中央高速と分かれた途端、1車線が2車線に増え、中央高速を越えて向こう側に渡る為、高架になっている急坂を駆け登って行く。
そして道路を跨いで下り坂を駆け降りると、右側に対向車線が見え、やがて目の前に料金所が見えてくる。常央湾岸日向三次TBである。この先から常番自動車道へ入る水面JCTの手前の常央湾岸水面TBまで、60km近くも無料区間である。初奈島バイパスと同じ特殊高規格道路なので制限速度は100km/h、最低速度は設定されていない(この世界では都市高速で50km。高速道で80kmの最低速度が課せられている。)。
無料のようだから交通量も多くてよさそうなものだが、元々湾岸部を経由して帝都高速を避けて北中央高速や常番道と中央高速を繋ぐ為だけの役割を担う道路だから、大部分は吊り橋と高架で海の上、料金所と料金所の間に一個もランプが無く、本当に南北を抜ける車以外は利用しないから、何時通ってもガラガラである。
因みにこの道、警察車両がパトロールしておらず(隠れられる場所がない)、オービス(ネズミ捕り用のスピードカメラの事)も存在していない(理由不詳)ので、誰も制限速度なんて守っていない。高速道路と直結しているので、皆高速並に飛ばしている。無論、俺も例外ではなく、速度計の針が210km付近を指している。
後ろから左手、そして前方にかけて帝都とその付近の湾岸工業地帯を、右手に紺碧に輝く海とVの字に広がる緑の大陸を臨みながら、大きな橋を駆け渡る。
やがて対岸に到達し、帝都高速5号湾岸線を越えると終着点の常央湾岸水面TB(ここで高速からきた車には料金徴収、バイパスから高速へ向う車に対しては発券が行われる。)が見えてくる。この先から水面JCTまで数キロあるが、有料区間である。その証拠に、路肩にこんな標識が立っている。
『注意!無料区間ここまで、この先有料区間』
水面JCTで、北中央高速・美郷JCT方面ではなく、常番道・筑藍IC方面へ進入して常番自動車道の下り線と合流し、海沿いを東へ進みながら北上して行く。
筑藍ICを越え、200km程走ると道は海沿いから西の方の山間部へと緩やかに逸れて、丁度その付近に八岐という街があり、そこから大きな山脈を南東から北西へ縦断する形で草薙市という街まで新しい高速道路が通っている。幻想郷八岐草薙自動車道である。
右カーブに入る入口の部分に新道へ分岐する八岐JCTの分流車線がある。普通の大きな高速同士とのジャンクションと違い、分かれた道が2車線になる事はない。
左ウインカーを焚きながら減速し、分岐の方へ進入する。急な坂道を上ると、頂上の所で道が大きく左の方へ急カーブし、反対車線から来た車線と合流して一瞬だけ片道2車線道になった。だが、すぐに右側の対向車線から来た車線の上に、左へ寄る事を指示する矢印が現れ、路肩に片道一車線の対面通行になる事を教える、『対面通行』の黄色い警戒標識が立っている。
そしていつの間にか右車線をオレンジ色の実線で仕切られた白いゼブラ模様の安全地帯が塗り潰し、上下線を仕切っていた中央分離帯のガードレールが消失、代わりに強化プラスチックで造られた頼りない緑色のポールが、オレンジ色の2本の実線の中央線の間に点々と規則正しく並んでいる。
この簡易ポール、車が当たってもボディーが傷つかないように、強化プラスチックや合成ゴムの中でも特に柔らかい素材で出来ている。それどころかこんな普通車でも飛ばそうと思えば簡単に弾き飛ばす事が出来る。対向車の飛び出しによる正面衝突事故を全く防げない点で、何の為にあるのかと理解に苦しむ物体である。車体に傷がついても構わないから、せめて防御性能の高い鋼鉄製等の物質に変える事は出来ないのだろうか?といつも思う。
幻想郷八岐草薙自動車道。高速自動車専用国道だが、対面通行の暫定2車線道路の為、暫時的に100km/hの制限速度が設けられている。オービスなどのカメラが設置しているかどうかは判らない。でもまあNシステム位はあるだろう。
暫くは田んぼに囲まれた平らな盛土の上の2車線道を、120km/hの速度でのんびりと山の方へ進み、やがて険しい山岳地帯を、高度を稼ぎながらグイグイと登って行く。
しかしまあ、これまた結構凄い道だな……、と俺は思った。普通は暫定2車線でも所々で4車線化したり追越車線や登坂車線を設けたりして後続車が前車を追い越せるようにする設備が一箇所でも設けているものだが、この道路には一切そういう場所がない。ずっと片道1車線の道程が何処までも続くだけである。
しかも、この道路、此方側の車線は俺以外の車が1台も走っていない!いくら未開通部分の開通日が明日だからって過疎り過ぎだろう。寂しいなんてものじゃない。
あれ、この道路って明日から開通する道路じゃないの?何で走っているの?と疑問に思う諸氏もいるかもしれない。実は、今走行している八岐側30kmと、草薙側25kmの両端部は、八岐道路、草薙道路として先月の内に先行開通している。間の80kmが未開通の部分で、明朝の開通式の後、取り敢えず形だけ全通する事になる予定なのだ。
矢木ICというインターチェンジで高速を降りて精算する。このICから先はまだ未開通区間という事になっているので、どの道ここで降ろされる事になる。
一車線の曲がりくねった山間の通路を進み、ゲートが上下線に各々1つずつしかない、小さな小さなICのETCゲートを通過した所で、俺は自分の目が信じられなくなり、思わず眼前に飛び込んで来た景色をまじまじと二度見、三度見した。
普通、いくら山奥にある小規模なICと言った所で、SAやPAにおまけのように付いているスマートICならいざ知らず、一応その地域の基幹道路である国道や地方道にその出口を接続させるものだが、俺の目の前に広がっていたのは、深い緑に覆われた崖にへばり付いていて1車線程の広さしかない、どす黒い土と薄緑の雑草で塗れた未舗装路の林道のような道だった。そして西側が深く垂直に切り立った崖となっていて南北に伸びるその道路に、南東からYの字を形成するように、山から降りてきたICの出入り口の片道1車線の舗装路が接続している。本線よりも支線の方がずっと立派という奇妙な光景だ。
何よりも驚いたのは、こんなお世辞にも立派とはとても言えない山岳路の癖に崖の斜面に埃で煤汚れている『国道1126』と書かれたおにぎり(青い国道標識の事。角の取れた逆三角形をしているから。)が立っている事だ。道路インフラが酷いとは聞いて覚悟していたが、これはいくら何でも酷過ぎるだろう。というか、4桁の国道標識なんて初めて見たぞ。
国道だから交通量もそれなりにあるのだろうか?道の上に彫り込まれた2本の轍はまだ新しい。どう見ても糞田舎の林道なのに、立派な青看板(行き先標識)が掲げられている。
山稜に鬱蒼と生えている木々の殆どは楠や椎等の常緑広葉樹の照葉樹林だが、チラチラと赤や黄色に見事に紅葉した楓や銀杏の木々が垣間見え、見事な彩りを添えている。しかし、道路の直ぐ左側が底の窺い知れない程の谷底になっているのに、白い反射板は有ってもガードレールが無いから、見とれる余裕なんてない。
しかも、やけに標識でしつこく『右側走行』を指示している。多分車同士で擦れ違う時により崖の縁ぎりぎりの所まで車を寄せられるようにという有り難い配慮だろう。どこのデスロードだよ、全く!
車同士の離合可能な待避所が、カーブの外側やたまに見掛ける山側の崖の窪み等、数百mから1km毎にしか設けられていない。だから対向車が来る度に待避所でやり過ごすか、近くのそこまで決死の思いで後退しなければいけない。その対向車にした所で、田舎らしく軽トラとか、自分と同じ位の普通車か精々ランクル位のSUVならまだマシだが、15tの白いメルセデスのアクトロスの後期型のセミトレーラーのタンクローリーを皮切りに、日本車や欧米車等の4tから15tまで選り取り見取りな大型トラックや大型バスが対向してきたり死と隣り合わせの擦れ違いをしたりしている。こんな山深い場所だとはいえ、人が住んでいる以上、店舗に商品を卸す為に行商人や運輸業者のトラックが、人を運ぶ為にバス会社が命を懸けてもこの道を使わざるを得ないのだろうが、此方にとってはいい迷惑だ。
せめてもの救いは、右側走行で崖側に車を寄せずに済むと言う事くらいか、いくらフルサイズのセダンでも、大きなバスやトラックに弾き飛ばされたら一溜まりもない。呆気無く谷底へ転落して車と共に心中するのが目に見えている。
右側通行規制が解除され、道が少し広くなると、地面がアスファルトで舗装されている区間に出てきた。いつの間にか、真新しい真っ白なガードレールも着いた片道1車線の立派な道路を走っていた。国道標識は依然として、R1126である。所々路肩に赤いパイロンやスコップやドリル等が散見している事から、どうやら現在急ピッチでこの辺りの道路幅を拡張しているらしい。
前方を見渡せば、民家らしい屋根や濛々と青白い湯気を天高く上げる大きな黒い煙突がチラホラと見える。どうやら目指す温泉郷に辿り着いたらしい。長かった……。
左手に見えてきた谷川を、趣向が凝らされた造りのコンクリート橋を渡って集落の中に入る。
山の中にぱあっと開かれた小さな盆地の様な所に、南北に貫く国道を中心にして左右の山の斜面に温泉宿やホテルの建物が立ち並んでいる。
久々にお目に掛かる白熱電球の馬鹿でかい信号機、しかも黄色点滅。そして半端ない軽自動車率。さっきから地元ナンバー車の3台に1台の割合で遭遇する。田舎の山村だから車自体の台数が限られるとしても相当な数である。
地図とカーナビの画面を照らしあわせつつ、T字路の手前で左ウインカーを点滅し左折し、適当な所で国道から坂道の路地へ逸れる。恐らくこの普通車がぎりぎり擦れ違えそうな程細い道の上の方に目指す温泉旅館がある筈なのだが……。すぐに上方前と右前の2方向から、下方は今通っている物の3本の道路が交わる場所に出た。
目の前の2本の内の何方かを登ればいいのだが、いかんせんカーナビの画面の解像度が悪い上に、手持ちの地図は広域版なので大まかに描かれており、細かい道の機微は判断し難い。
すると前方の坂道を、白い6代目サンバーを運転する男性が下って来るのが見えたので、俺は運転席の窓を開けて右腕を出して振り、止まってくれるよう合図した。そして軽トラの窓が開いて青い野球帽を被った若い男性が此方に顔を向けたのを確かめてから、俺は彼に話し掛けた。
「すみません。」
「はい?どうかしましたか?」
「銀嶺旅館さんに行くにはどっちの道を行けばいいのでしょうか?この辺りは初めてで、道が分からなくて……。」
「ああ、銀嶺旅館さんなら、その道を真っ直ぐ上がって行けば宜しいですよ。」
軽トラの人は、俺から見て右方向にある急坂を指さした。
「ああ、そうですか。ありがとうございます。助かりました。」
軽トラが下の国道へ向けて走りだした後、右ウインカーを点けると俺はハンドルを切ってアクセルをグッと踏み込んだ。
坂道を上り、集落の中心部から少し離れた山の中に入って行くと、『八雲温泉郷銀嶺旅館』という看板が掲げられた、とても大きくて規模は立派なもののお世辞にも綺麗で立派だとは言い難い古ぼけて煤汚れた和風建築の屋敷が、向かってすぐ右に細い沢がある1車線の山道の左手に沿った開けた所にぽつねんと現れた。建物こそベンガラが黒く変色する位年月の経った物だったが、辺りに散り積もった赤や黄色や茶色の沢山の落ち葉と相まって、中々風情がある佇まいだと俺には思えた。
だが建物の前は、その部分だけ道幅が3m弱から5mちょっとへと広げられている。建物の玄関部分を正面の思い切り左側に寄せている癖に、柱だけを残して外壁を取っ払い、此方から見て手前の方にある間口から向こうの端まで横に長い吹き抜けのように大きくて広い土間が設えている。そして、その何本も立ち並ぶ柱と柱の間に一台ずつ突っ込んだかの如く、外の方へお尻を向けて何台か車が駐車されている。
大きな土間がある個人の家屋だと、たまにこういう部分をガレージとして有効活用しているのを見掛ける事があるが、仮にも風営法の上で営業されている旅館でこういう事をやってもいいのだろうか?まあ、よく分からない従業員に愛車の命運を託す事を思えば此方の方がずっといいのかしら?
一旦停車措置を取ると、エンジンを掛けて玉緒を車内に残したまま、俺は車を置いて旅館の玄関の引き戸をガラガラと開けた。敷居を跨いで中に入ると、少し広い土間、そして正面に一段と高くなった白い檜板の上がり框と、更にもう一段段差を登った所に同じ檜の板張りの廊下と左側にカウンターの様な物が見える。右側は灰色の壁紙が張られた普通の壁だった。
「御免下さい。」
カウンターの中へ向かって声を掛けたが、運悪く中は今無人のようで誰も出て来なかった。
「御免下さい!」
今度は大きく息を吸い込み、電気を点けずに薄暗くなっている廊下の闇の奥へ向かって俺は声を張り上げた。しかし相変わらず誰かが出てくる気配は感じない。
仕方がない、他の客には迷惑だろうが……。そう深慮しつつもイライラが高じていた俺は、出せるだけの大声で絶叫した。
「すみません!!」
「あ――、はいはい!」
やっと奥の方から、自分より少々年長者かと思しき、白いYシャツと菫掛かった灰色のスラックスの上に、旅館名が白地で黒い襟地に書かれた藍染めの法被を羽織った男が間延びした声と共にのっそりと現れた。明るい所まで出て来た所で初めて気付いたが、角刈りに馬みたいな面長という、何とも言いようのない剽軽な顔立ちの男である。
『(有)八雲温泉郷銀嶺旅館・番頭:碇 啓介』と書かれた名札を首から下げている事から、恐らくここの従業員を纏める立場の男だろう。
「御免下さい。私、今日2名1泊で予約した高津という者なのですが……。」
改めて番頭に声を掛けると、
「あ――はいはい。少々お待ち下さいね。」
とカウンターの中に入り、帳簿らしきファイルに留めた書面を開いて捲った。
「え――っと……。あった、あった!高津 新太郎様でございますね?」
「はい。」
俺が頷くと、番頭は玄関先へ出て来て、
「おーい、お客様がいらっしゃったぞ!」
と怒鳴ると、一転してにこやかに笑いつつ俺に話し掛けた。
「お待たせしました。すぐにお部屋へお通し致しますので、さあぞうぞ。」
ぞうぞ、と言われても表に女房を乗せたままの車を放置してしまっているのだが……、と内心困惑していると、その様子を不審に思ったのか、はたまた俺一人しか居ない事に今頃気が付いたのか、番頭はキョロキョロと辺りを怪訝そうに見渡した。
「はて……?お連れの方は何方に……?」
「ああ、家内は外に停めた車に待たせているのですよ。……ところで……。」
そう言って俺は右手の親指で右側の壁を指差した。
「そっちの壁の向こうってここの駐車場?予約を入れたとは云え勝手に停めて良いものか、よく判らなかったのだけれど……。」
「あ――、どうぞ、どうぞ。御利用下さい。何なら御案内致しましょうか?」
男はカウンターの横、土間の端に備え付けたらしい茶色い木製のシンプルな下駄箱から色がくすんだ翡翠色のサンダルを出して履くと、玄関の引き戸を開けて出て行った。
「じゃあ、すみません。ここにお車を前から入れて下さい。」
やたら、『前から』という語句を強調すると、番頭は玄関口から数えて6番目、反対側から数えて3番目の、左隣に白いフォード・エクスプローラーの3代目前期型が停まったスペースの奥に入って振り返り、インスパイアの運転席に乗り込んだ俺に向かって腕を振り上げた。玉緒は、荷物と共に降ろし、既に旅館の中へ入っている。
「それでは、どうぞ。お――らい!お――らい!」
俺はブレーキを緩めて徐に車を駐車スペースに近付けると、ステアリングを限界まで左に回し、アクセルを少し踏み込んでエンジンを吹かした。丁度9尺ある柱と柱の間を通り抜け、敷居という3cm程の段差を跨いで前輪が土間の土を踏んだのを感じると、すぐにブレーキを踏み込んで減速する。
敷居から土間の奥までは6m強はあるみたいだが、土壁の部分に杉の一枚板を横にして並べただけの簡易な棚を造り付けている上に、番頭が立っているからきちんと車を収められるかどうか定かではない。でも、
「お――らい!まだ行けますよ。」
と彼が手招きを繰り返しているから、恐らく大丈夫なのだろう。たぶん……。
「はい、ストップ!ストップ!」
と番頭が制止した瞬間にブレーキを強く踏み込み、俺は車に停車措置を施して降車し、そして車を施錠した。
「はい、長旅お疲れ様でした。さあ、お部屋にどうぞ。」
番頭と共に旅館の中に入ると、どちらかと言うと痩せ気味だと思うのに、何故か狸を彷彿とさせるあやめ色のシンプルな小袖を着た若い女将に出迎えられ、俺と玉緒はやっと部屋に通される事になった。
本日の走行距離、約700km。確かに疲れた……。ああ、早く横になって休みたい。そう俺は切に思った。