第十七話:道路情報ラジオは1620KHz!
>>新太郎
とある木曜日の夕方、玉緒と香澄、そしてヨネさんと共に夕食を摂りつつ何気なくテレビを視ていると、こんなロングCM、というより特番が流れてきた。
『祝!幻想郷八岐草薙自動車道がいよいよ開通!』
というタイトルコールで始まったその番組は、道路公団が新規に施工した高速道路を広く認知させる為に製作したもので、どうやら今度の日曜日、片側暫定2車線(本当は分離帯付き片道2車線の4車線で完成する予定なのに、建設費と維持費をケチる為に半分の片側の2車線だけを造って対面交通式として先行で供用させ、残りの半分は様子を見ながら漸次着工するという吝嗇な方法。何故か日本の地方の高速道で非常によく見られる。少し太くした中央線の上にプラスチックゴム製の柔らかいポールを並べて仕切っただけなので、高速で対向する車同士が正面衝突する大惨事が起こる可能性が高く、実際そのような悲劇が頻繁に見られる危険な方式でもある。)で開通するその道路の開通式と周辺の観光施設の宣伝も兼ねてイベントを催すらしい。
黒々とした真新しいアスファルトが映える、深々とした山間部の高速道路の路上で、リポーターの若い女性とスーツを着て粧した公団のお偉いさんと地元の行政部のトップらしきおっさん達が並んでテレビに映っている。そして彼らの話によると、どうやらこの道路が通る周辺の市町村には温泉郷とか秘湯とかかが結構あるらしい。今まで国道とは名ばかりの1~2車線の林道のような、冬季閉鎖も当たり前の道路しか通ってなくて陸の孤島になっていたとかで、
「交通の利便性や集客力の向上の面から、地元住民は高速道路の完成に歓喜している、これから全土に向かって自分達の村の魅力をどんどん発信したい!」
と、相当期待を込めているのか力強い言葉で言い切っていた。
食事を終え、ヨネさんと香澄が帰った後、卓袱台の上にラップトップPCを置き、ゲーム内インターネットで新しく出来た道路の詳しいルートを調べる序でに幻想郷周辺の情報についても検索してみる。
確かに高く険しい山々を縫うように走る九十九折の細い国道と、その一般道の上や下を糞長いトンネルと高さが半端ない高架を使って緩やかなループを描く高速道路の周辺には温泉や温泉宿街が多く点在しているようだった。湯治客のレビューに目を通す限り、何処もかなり評判も良いらしい。
ただ、この地方は標高が高い上に豪雪地帯なので、夏場から今位の時期には濃霧が、冬から春に掛けては猛吹雪が辺り一面を席巻し、年がら年中数m先すら見通せない危険な視界不良の状況が続くのだという。だから走行する際は十分注意するように、と道路公団の道路周辺案内に注意書きが、霧で真っ白になった山間の2車線道路の緩やかな右カーブをテールライト共に真っ赤に煌くリアフォグランプを灯して疾駆する白い3代目エスティマの後ろ姿の写真と共に添えられていた。
普通なら敬遠して然るべきなのだろうが、俺はついこの間未装着車に後付けのリアフォグを付け、リアフォグランプ全車標準装備化を達成したばかり(EUの法規定で定められているメルセデスやBMW等の欧州車は当然として、キャデラックやレガシィ等、ヨーロッパへも輸出している極一部のアメ車や日本車にも純正でリアフォグを標準装備として搭載している車がある。そういう車では、高津タクシー仕様に改装した後もリアフォグを残し、以前から視界不良の時は少しでも後続車からの被視認性を上げる為に使っていた。)だったので、新しく設置したバックフォグライトの効果を確かめたい、と思ってますます行ってみたくなった。
台所で食事の後片付けをしている玉緒の背中に向かって、
「たまには息抜きも兼ねて温泉へ行かないか?」
と提案すると、二つ返事で承諾したので、俺は次の週末に彼女を連れて出掛ける事にした。
その週の土曜日の朝。3.5Li-VTECエンジンに換装してスーパーチャージャーを装着し、高津タクシー仕様にしたUA5型インスパイアの助手席に玉緒を乗せた俺は、薄っすらと白い日差しが雲の隙間から差すものの鈍い鼠色をした曇天の下、ポツポツと小雨が降る中を車幅灯とフロントフォグライトを点灯した状態で、アパートの駐車場から外へ向かって走りだした。
遠出をするには生憎な天気だが、時間が経てば晴れる可能性も無くはないし、走行自体に支障をきたす程でもない。俺は気にせず、時々ワイパーを動かして窓に付いた水滴を拭いながらR107バイパスへ向かって走り続けた。
市道から交差点を左折して側道のR107へ入り、そのまま加速車線から初奈島中央バイパス本線へ合流する。気の所為か、空が俄に暗くなってますます雨の勢いが増してきたようだ。昨日の天気予報では降水確率30%の曇だと報じていたのだが……。
「なんか、一雨来そうだな。すぐに止むかと思ったのにな……。」
追越車線を走り続ける白い現行のRB4型オデッセイを20m程後ろから100km/hを少し超過する速度で追走しながら、俺は隣に居る玉緒に話し掛けた。
「段々と雨脚が強くなっているような気がしますけれど……。あなた、大丈夫ですか?」
「大丈夫、これしきの雨位、どうって事はないさ。」
あれよあれよという間に降りが酷くなり、ボタッ……ボタッ……と大粒の雨粒がフロントウインドウに叩きつけられて円盤状に圧壊し、素早く2本の黒いワイパーに吹き飛ばされていく様を見つめつつ不安気に気遣った女房に、俺に任せろ!といったような気概を含ませて、俺は敢えて笑顔で応えた。
その後も天気予報は物の見事に大外れし、六郷JCTを本初高速の上りから陸南自動車道の下りへと合流した頃には、大盥をいっぱいに満たした水を頭のすぐ上からぶち撒けたかと思う程の大量の雨水が、滝のように雲から地面へ叩きつけるように降り注いでいた。
ただでさえ土砂降りと激しく目の前を往復するワイパーでよく見えないのに、猛スピードで走る自動車、特に大型のトラックやバスが勢い良く跳ね上げた盛大な水飛沫によって、すぐ50m程先にいる筈の車のテールランプの明かりさえ判らないようになってしまっている。俺はロービームを点けると、後続車に自分の車の存在を教える為にリアフォグランプの点灯スイッチを入れた。
押しボタン式の縦長の長方形のスイッチを押すと、白く光るリアフォグのマークのすぐ上に、赤いLED光の細い横長の四角いパイロットランプが点灯する。もともと自分の視野を確保ではなく、純粋に他車に自車への注意喚起をさせる為の灯火なので効果の程は不明だが、無いよりはマシだろう。
それより、こんな天気だからハイドロプレーニング現象(ウェットでもタイヤの摩擦力を維持する為の溝の排水能力に対して、路面の水溜まりの水量が大きくなった時に起こるスリップ現象。表面張力でタイヤが地面から完全に離れて水に浮いた状態なので、加減速や舵輪、一切の操作が不能に陥る。もしも雨の日にタイヤがスリップした時は、諦めてアクセルから足を離し、自然に速度が落ちてタイヤが地面に接触するまでそのまま真っ直ぐ滑り続けるしか対応策が無い。)が起きかねないので、普段エンジンの限界までガンガン回す俺ですら100km/hを超えないように気を付けているのに(一般的なタイヤの場合、ハイプロ現象が起きる確率は100km/hを超えるとグッと上昇する。)、150km/h以上の速度で突っ走っている奴らは何を考えているのだろう?死にたいのか?赤く輝くリアフォグを白い飛沫の奥から瞬かせつつ抜き去って行くBMWやRV車を見て、俺はそんな事を思った。
そうこうしている内に、前方を90km/h程のスピードで走る、尾灯を赤く灯した15t位の大型のコンテナ車のトレーラーの灰色の大きな影が徐々に近付いてきた。
俺はドアミラーと後方目視で追越車線に車が走っていない事を確かめると、タイヤと相談しつつ、空転を起こさない範囲で緩急をつけて徐にアクセルを踏み込んでいく。目と鼻の先では、トレーラーのタイヤが巻き上げた雨水が1m以上の高さの大きな白い水の壁となって、まるで通せんぼをする子供のように此方の視界を塞いでいる。トレーラーから先がどうなっているのか全然見通せない。あれに飛び込まなくてはいけないのか?そう考えるだけで、正直俺は気が滅入った。
タイヤと呼ばれる物には、晴天時専用のガチレース仕様ののっぺらぼうな物を除けば、表面張力の強い水の力によるタイヤの摩擦力の消失を防ぐという目的で、サイピングと呼ばれる排水用の溝が掘ってある。
普通はそのへんで走っている乗用車のように、波打ちとか阿弥陀籤のようなパターンで細い溝をタイヤに対して縦方向に何本も平行に沢山引いてある、というのが定石だ。が、トラックなどの大型車のタイヤに関していえば、単純にタイヤに普通車のようなスリットを入れると摩擦力の減衰による動力性能の低下が無視出来なくなる為、雨水を掻き出しつつも地面を蹴り上げて進む為に、タイヤの側面から中心線に向けて、まるでブロックでも切り出したのかと見間違う程の幅が広くて深い溝が等間隔で左右互い違いに彫り込まれている。
これが、猛スピードで走るトラックが、やたらと水を跳ね上げる原因である。大きなゴム製の水車が鬼回転しているような物だから、水飛沫が上がるのはある意味当然な事なのだ。
トレーラーを追い抜く為意を決し、迸る水柱の内部へと突入する。
ゴオオオオオオオオ……ブシャアアアアアアア……。
物凄く多量の水が、車体の左側から吹き掛かり、ボンネットやフロントウインドウ、車の左側面に叩きつけられる。全く前が見えない。精々トレーラーの側面に付けられた青い標識灯が認識できる程度である。もしも、これを抜けたすぐ先に車がいたら……。そんな事を想像して、恐怖から俺は冷や汗を流し、ハンドルをぎゅっと力を込めて掴んだ。
急に水飛沫が止み、明るい視界が開いた。トレーラーの前に出たのだ。俺は左ドアミラーに今し方追い抜いた青色の二代目日野・プロフィアの白いヘッドライトとフォグランプが映っているのに目を留めると、左ウインカーを出してすぐに第二通行帯へ車線変更した。追越車線を走り続ける事は違法行為だし、それに何時までも一番右側のレーンに居続けて、猛スピードで水柱の中に突っ込んで来た奴にお釜を掘られるのは真っ平御免だ。
走行車線へ完全に車が収まった刹那、後ろのプロフィアが撒き上げる水飛沫の中から無灯火の銀色の初代アテンザのセダンが勢い良く飛び出し、そのまま140km/h近いで速度で追い抜いって行った。リアフォグを点灯しているとはいえ、後5秒だけでも退避が遅れれば確実に玉突き衝突していた筈だ。
道中を進む内に、雨は降やむどころかますますその勢いを増していた。道路に引かれた白線さえも判り難くなる位、路上には水が溜まってちょっとした川のようになっている。車の後ろの方からバシャバシャとタイヤが水を跳ね上げる音が車内まで響き、ドアミラーや後ろのドアの窓から、立ち上がった白い水柱が続々と顔を覗かせては吹き飛ばされていく。
『大雨注意!ただ今100km/h制限実施中。スピード落とせ!』
『灯火規制中。ヘッドライトや補助前照灯をせよ!』
と云う表示を繰り返し、電光掲示板が黄色い警告灯を明滅させていた。
一時はどうなるかと危惧した程酷かった土砂降りも、段々と収束する兆しを見せ始め、陸南道からR25経由で中央高速へ乗り換える為に戸賀ICで高速を降りた頃には、全天を灰掛かった厚い雲が覆うもののすっかり雨脚は遠のいていた。ただでさえ難所である忍忍ロードを最悪のコンディションで挑まずに済んで、ワイパーのスイッチを切りつつ俺は心底ホッとした。
深い山の中を通って行く道路なので、崖側に鬱蒼と覆い茂る木々によって昼間でも薄暗いが、ヘッドライトを点けて前方を照らしていれば走行に支障はない。
大きく深い杉の木立の間から、突然白い鉄柱に固定された、『1620KHz・道路情報ラジオここから』と書かれた案内標識が視界に入って来たので、俺はカーオーディオに手を伸ばし、『)))』な模様が描かれたボタンをポチッと押した。
『……ます。……こちらは、国土交通省です。12時35分現在、R25、R321、R1、R229及びその近辺を走行中のドライバーの方へ道路情報をお知らせします……。』
ドア下にあるスピーカーから女性の合成音声が聞こえてくる。
『R1を走行中のドライバーの方に、交通集中による渋滞のお知らせです。帝都方面上り車線、空賀忍び里第3交差点空賀IC方面口を先頭に約3kmの自然渋滞が発生しています。巴里方面下り線、大型ダンプカーと軽自動車が玉突き衝突して3名の死傷者が出る交通事故が発生しました。この影響により小金井坂交差点北およそ1km付近を先頭に5km弱の渋滞が発生しています。R1下りを走行中の方は十分ご注意下さい。』
今のところ、有益な情報は無いな。
『次に、R299を走行中のドライバーの方にお知らせします。現在、R299及びその近郊の道路において、交通事故または渋滞の情報は入っておりません。引き続き安全運転を励行して下さいますようお願いします。』
これも全然関係ないな。
『最後に、R25、及びR321を走行中のドライバーの方にお知らせです。12時37分現在、大雨の為設定されていたR25R321重複区間、戸空道路の一時通行制限は、上下線共に解除されています……。』
お、そうだったのか?ラッキーだったな……。
『ただ今、戸空道路の一部区間に於いて、更なる安全な交通を実現する為、現在改修工事を行なっています。その影響で皆様に御迷惑を掛けしますが、該当区間で第二通行帯を通行禁止にし、車線規制を行なっています。前方によく注意して運転して下さい。皆様の御理解と御協力をお願い致します。』
そうなのか、気を付けよう。そう思った俺は無意識に道路の先を注視した。
『ドライバーの皆さん。長時間の運転で疲れが溜まっていませんか?適度な休憩は安全運転にとってとても重要です。急いでいるからと無理をせず、サービスエリアや道の駅、道路沿いのコンビニエンスストアやファミリーレストラン等で適宜休憩を取りましょう。……以上、国土交通省が道路情報をお知らせしました。……このラジオは、道路情報ラジオ空賀がお送りしています。……こちら……。』
一通り放送を聞いたので、俺はラジオを切った。どうせこれ以上聞いたところで、さっきの放送がループで流れるだけである。
しかし、まあ……。休憩か……。そろそろ初奈島の自宅を出発して2時間近くになるし、トイレが近くなりつつある気もする。昼飯を兼ねて暫しの休息を取るのも良いだろう。そう言えば、この先の麓にそこそこ美味の蕎麦屋がある、という噂を聞いた事がある。寄ってみるか……。
「なあ、お前。」
俺は、目線だけは上り坂の左カーブの先を睨みつつも、玉緒に声を掛けた。
「何ですか?あなた……。」
「そろそろ昼飯にしないか?」
「あら、もうこんな時間ですのね。」
カーナビの画面の隅に表示された時計は、既に『12:42分』という時刻を表示していた。
「蕎麦でもいいか?この峠を越えた所に蕎麦屋があるんだが、結構美味しいらしい。」
「良いですわね。」
ハンドルを握って車を走らせながら夫婦で他愛もない事を談笑する。なんかこういうのも良いなあ、と思っていると、後ろからかなりのスピードで黒いキャデラックの初代CTSが接近してきた。どういう訳か、俺の車に向かってパッシングしている。
何だろう?と怪訝に思いつつ運転席側のドアミラーに目を遣ると、キャデラックはクラクションをプッ!と軽く鳴らすと追い越しを仕掛けてきた。
他人をおちょくっているのか?と思って思わず右側に並走する黒い車を睨み付けると、その車の運転手が俺の方を向き、後ろ!後ろ!とでも言うかのように、仕切りに車の後方を指さすジェスチャーを繰り返している姿が目に入った。
そして、キャデラックは完全に俺の車の前に出ると、ナンバープレートの両側にバックランプと共に装着されたリアフォグを2回明滅させた。
まさか……。嫌な予感がしてふと手元のリアフォグのスイッチへ視線を移すと、しっかりと赤いパイロットランプが煌々と点灯していた。
やばい!リアフォグを消すのを失念していた。視界不良の時には大活躍する安全装備も、見通しの良い時には眩し過ぎて後続車のドライバーを幻惑させる厄介物となってしまう。俺はすぐにリアフォグを切ると、1回パッシングして、教えてくれてありがとう!と、走り去って行くキャデラックに向かって礼をした。
峠の道の頂上を越え、九十九折の急な高速カーブが連続する長い下り坂に差し掛かると、俺は車のエンジンブレーキを効かせる為にギアをセカンドレンジに入れた。
暫く連続するなだらかなS字カーブを鼻歌交じりに攻略していると、左側の路肩に突然、
『この先工事中!左車線に移れ!』
『徐行』
とそれぞれ書かれた工事用の簡易な警告表示看板が2枚置かれているのが目に入った。どうやら先程ラジオで周知していた道路工事区間に差し掛かりつつあるらしい。右側の申し訳程度の路肩に赤い霧灯を点けた朱色のパイロンが追越車線を斜めに横断する形で等間隔で並び、その前に左車線へのレーン変更を指示する矢印表示が複数個置かれていた。
中央を走る白い破線のすぐ右側に綺麗に整列した、何処までも続く赤いパイロンの列を脇目に見ながら走って行くと、パイロンの内側に10tのダンプカーやショベルカー、ミキサー車やロードローラーにクレーン車、その他それを操ったり掘ったり交通整理をしたりする黄色いヘルメットに青い作業着を来た大勢の作業員が懸命に働いているのが次々と目に入る。
どうやら崖の斜面につっかえ棒のように垂直な鉄柱を立て、崖側へ張り出すように道路を拡幅し、路側帯のスペースを設ける事で頑丈なガードレールを敷設する算段のようだ。これで少しは走り易くなればいいのだが……。俺は少しだけそんな期待をした。
麓近くまで降りて、生垣が造られた中央分離帯を挟んで対向車線を走行する車と顔を合わせる事が出来るようになった頃、件の蕎麦屋が行く手の右側に見えてきた。青い瓦葺きの寄棟造りの日本家屋のような店舗で、『蕎麦食事処・尾張屋』と書かれた白い大きな看板と紫色の暖簾を掲げている。
丁度中央分離帯が切れている所から敷地内に設けられた駐車場へ出入り可能なようになっていたので、右ウインカーを焚いて車の鼻先を中央分離帯の裂け目に突っ込むと、対向車が途切れるのを待ってから俺は対向車線を横断してそこへ入場した。
歩道に乗り上げて駐車場に入ってから気が付いたのだが、入り口の所にこんな立看板が立てられていた。
『5ナンバー車推奨駐車場!大型車の駐車は遠慮させて頂いております。悪しからず。店主』
だが、辺りを見回してみると、プリウスとかオーリスとかのようなコンパクトからマジェスタとかシーマのようなセダン、果てはエルグランドやアルファードのような大型サイズのミニバンに至るまで、結構……というかほぼ3ナンバー車しか停まっていない。どうやら普通の駐車場より若干だけ一車当たりのスペースを狭くしてより多く駐車できるようにした駐車場のようだった。
だから、少々狭いなとは思ったが、特にドアミラーを折り畳まないでもぎりぎりインスパイアを駐車する事が出来た。リアバンパーを灰色のブロック塀に接触するまで後退したにも関わらず、やけにノーズが飛び出しているような気がしないでもないが、多分差し支える事は無かろう。
ベンガラが塗布された細やかな細い木枠に硝子が填った、日本家屋によくあるタイプの、古めかしく見せかけた引き戸をガラガラと開けて、俺と玉緒は店内に足を踏み入れた。
表の窓から差し込む光以外は裸電球の間接照明の明かりだけなので薄暗いが、5人位が座れるカウンターと、そのすぐ向かいに4人がけの四角いテーブル席が3つ、奥にこれまた4~6人程入れそうな、爽やかな青さが目に染みる琉球畳が敷かれた4畳の座敷席が1つあるだけの小さな店である。カウンターは明るい白色の檜の一枚板、テーブルは黒檀、座敷の鴨居や天井の梁には年月を経て炭の如く黒く変色した杉の木を使い、壁は濃い黒色の土塀、床は黒い大理石のタイル貼りである。中々に雰囲気の良い店だ。店主の趣味趣向が窺えるというものである。
店内にはカウンターの内側で蕎麦を手打つ、襟が藍色の白い甚兵衛タイプの七分袖の調理着に和帽子を被った、輪郭の角張った角刈りがよく似合うまだ若い亭主と、客の注文を取る、ポニーテールがよく似合う、黄色いセーターと裾の長い青いジーンズのパンツの上から薄桃色のエプロンを着けた、物腰の柔らかそうな可愛らしい女将の他に、家族連れやカップルも含めて6組、都合12人の客しか居なかった。まあ、15台しか停められないとはいえ、俺の車も含めて8台しか駐車場に駐車していない時点で予想は出来ていたが……。
「いらっしゃいませ。」
此方に気が付いたのか、主人と女房が同時に俺達に声を掛けてきた。
女房の方が続け様に口を開ける。
「何名様でしょうか?」
「2名です。」
ピースサインのように握り拳の上から人差し指と中指を立てて俺が答えると、女将さんは困ったような表情で背後に顔を向け、店内の中を見渡した。既にテーブル席は、手前の方から順に赤ん坊を連れた夫婦、子無しの夫婦、恐らく出会って間もないであろう何処か余所余所しいカップルが腰を掛け、カウンター席は男の独り客で奥の3席が埋まっている。
テーブル席で他の夫婦やカップルと相席と云うのは気不味くて嫌だし、人の出入りがある度に寒風が当たりそうなレジ近くのカウンター席で食べるのも気が引けた。風が当たらぬように玉緒を奥に座らせれば彼女を他の男の隣に座らせる事になるし、だからと言って俺が奥に行けば彼女に寒い思いをさせてしまう事になる。まさにジレンマだ。
さて、どうしたものか……、と考え倦ねていると、
「なら、お座敷の方はどうですか?」
と女将が提案してきた。
異論は無いのでそのまま奥の間に通される。
土間から一段と高くなっている横長の長方形の4畳間に合わせるように、ベンガラと漆を塗って黒く染めた楠の大きな四角い卓袱台が鎮座し、入り口の障子と反対側に2枚ずつ、残りの辺に1枚ずつ、計6枚紫色の座布団が敷いてある。カウンター側から見て向かって右側奥に造られたちょっとした床の間には、杉の一本丸太に華麗に彫刻を施した立派な床柱と、レプリカか贋物か定かではないが、真っ白な紙に滲みや染みを付けてそれらしくした雪舟の山水の水墨画の掛け軸が掛けられている。床の間の傍に取り付けられた家庭用の白いビーバーエアコンのやや場違いな感が否めないが、概ね雰囲気の良い座敷である。
玉緒と二人、靴を脱いで座敷に上がって上着を脱ぐ。俺が床の間、玉緒を反対側に腰を下ろしたものの、用を足したくなったのでジャケットだけ置いて俺は立ち上がった。
靴を履きながら女将に声を掛ける。
「すみません、お手洗いは何処にありますか?」
「トイレならそこに御座いますよ。」
女将が指し示した方、丁度カウンターと反対側へ目を向けると、カップルが蕎麦を啜るテーブル席と座敷の間に、人一人分位の奥まったスペースがあり、すぐ突き当たった壁に木のドアが立て掛けられているのが見える。ドアには『お手洗い』と書かれた白いプラスチックのプレートが螺子留めされていた。
さっさと小便を済まして手を洗い、ハンカチで手を拭きつつ座敷へと引き返すと、入れ違うように今度は、
「ごめんなさい、あなた。わたしもちょっと……、おトイレに……。」
と玉緒が立ち上がった。
「ああ、行って来い。そこにトイレあるから。」
「はい、わかりました。」
玉緒がトイレへ発って少しすると、女将がメニューを渡しに来た。
「あら、奥様は?」
「ああ、すみません。今丁度、手洗いに行っていて……。」
「ああ、そうですか。では、此方、当店の御品書きで御座います。どうぞ、ごゆっくり……。」
そう言い残して女将は去って行った。
玉緒が戻って来るまでの間、2冊渡された『お品書き』と称する青色のコクヨの小さな大学ノートのページをパラパラと捲り、軽く目を通す。
笊蕎麦や盛り蕎麦といった冷たい蕎麦やかけ蕎麦のような暖かい蕎麦まで、それぞれ数種類のラインナップがあるのは当然として、天そばやきつね蕎麦等の繋がりから天丼のような丼物も幾つか出し、更に味噌汁とかちょっとした副菜まで付属したセットもあるらしい。見かけによらず、飲み物の種類もかなり豊富に取り揃えているようだ。
ふと顔を戸口の方へ向け、他の客が食事をする様子を失礼も承知で観察すれば、皆旨そうに蕎麦を啜る様が見て取れる。美味いという評判自体は本物だと思われた。
玉緒がトイレから戻ってきて、それぞれメニューを読み、互いに何を頼むか決めた頃、まるで頃合いを見計らったかのように女将さんが注文を取りに来た。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「私の方に盛り蕎麦の並を1つ、家内の方に山菜蕎麦の暖かいのを1つ、お願いします。」
「は?」
「え?えーっと、……盛り蕎麦とかけ蕎麦の山菜を1つずつ……。」
まるで意味が解らないとでも言うかと思う表情で女将に訊き返され、もしや上手く伝わって居なかったのか?と焦った俺は、思わず自分が注文を復唱してしまった。
ところが、女将は別に俺の発言を聞き漏らした訳ではないらしい。
「盛り蕎麦と暖かい山菜蕎麦ですか?本当にそれで宜しいのですか?」
「…………?え、ええ……。」
「実は、ウチは月見蕎麦がお勧めなんですよ。月見蕎麦になさいませんか?」
「はあ、そうなのですか?でも、私は暖かい蕎麦は苦手なので、やはり冷たい盛り蕎麦を……。」
「いえいえ、ウチの月見蕎麦は、暖かいお蕎麦が苦手な方でも美味しく召し上がって頂ける位、絶品、ですから。」
「…………。」
『絶品』と、その言葉だけやけに力を込めて月見蕎麦を勧めてくる女将を呆然と見上げて、俺と玉緒は揃って絶句していた。よく周りを見渡せば、カウンターの一番奥の席で主人と雑談しつつきつね蕎麦を食べている常連らしい男性を除いて、店内にいる他の客は皆月見蕎麦を摂っている。どうやらこの蕎麦屋は相当通った馴染みの客という例外を除けば、須らく全ての客に月見蕎麦を提供するべきだ、という信条を掲げている何とも傍迷惑な店らしい。
チェーンでない個人経営の飯屋でこういう、自信作を注文する事を強要してくる店がある事を聞いた事はあるが、まさか自分がそういう物に遭遇するとは思わなかった。
まあ、ここは無用のトラブルを防ぐ為にも、女将さんの勧めに従っておく方が無難だろうか……。
結局、俺と玉緒は二人共月見蕎麦の暖かいのを注文した。
蕎麦は噂通り、いやそれ以上に美味しかったし、味と分量の割に値段もお手頃だったから満足したが、腹は膨れても腑に落ちない、何とも言えぬ気分になりながら俺達は蕎麦屋を後にした。