第十四話:タクシーでバスを……
>>新太郎
ひと山大きな仕事を、たった今し方終わらせた。
ギルドからの要請で、同じ団体に所属している新谷という個人タクシー事業者をアシストする事になり、客を乗せた30人乗りのマイクロバスに随行するという形で団体の旅程に1週間以上付き合っていた。
要するにバスの前後を場の空気を読みながら付いて行き、擦れ違いが困難な山道に行けば先導して対向車に協力をお願いし、後ろから追従している時に万が一バスが事故を起こしたり転覆したりして立ち往生すれば、直ぐ様最寄りのギルドの営業所へ引き返して救助と応援を請う。つまりちょっとした警備役の空車を走らせるのに担ぎだされたのだ。
いやあ、やけに駄賃が多いから訝しんだものの、付いて行くだけか、と思って軽い気持ちで快諾したらえらい目に遭った!
初奈島中央駅の観光バス用のバスターミナルで集合したと思ったら高速道路を走らされて、仙谷より500km程北部にある北海州という大きな島の南西部まで連れて行かれるし、バス旅行の筈なのに『大型車走行不可』の狭小路へ平気で入って行くし……。挙句の果てが、
「おいおい、いくらいすゞのジャーニーQだからって、この道を行くのは無茶でしょう!道幅3mジャストしか無いですよ。すぐ傍に崖もあるし……。対向車が来たらどうするんです?」
と制止したにも関わらず、
「大丈夫、大丈夫。初めて通る訳でもないから。」
「いや、あなた、この経路で30人以上の中型運転するの、今回が初めてだって言っていませんでした?」
「そうだけど……。多分大丈夫でしょ。」
「いやいや……。」
「それに、対向してきても、それを説得して退けさせるのが君の仕事でしょ?じゃ、頼むよ――。」
と強引に突っ込んで左前輪を山側の側溝に脱輪し、二進も三進も行かなくなって辟易した。
丁度その時運転していた14系マジェスタのリアバンパーのフックにワイヤーロープを掛け、綱の反対側をフロントバンパーの鈎に引っ掛けたバスを牽引してみたが、3Lの2JZエンジンをボルトオンでツインターボ化した高出力車の力をもってしても、此方のバンパーカバーが外れそうになるばかりでうんともすんとも言わなかった。
だから仕方なく俺だけそのまま山道を進んで2時間も掛けて山を降り、最も近所に在った『連盟』の営業所へ助けを求めに行った。凄く恥ずかしかった。
結局、そこの事務所にいた親切な人にロードサービスを呼んで貰い、軽トラを改造した牽引車で駆けつけて来てくれたサービス会社の人と共に事故現場へ引き返した。
そして脱輪脱出用のアルミ板を側溝に引っ掛かった前輪に添え、今までの苦労が嘘のように難なく路上へ復帰して事無きを得たのだが、俺はその時に交わしたロードサービスのお兄さんとの会話を恐らく一生忘れない。
「ありゃりゃ、こりゃあ……。またどうしてこんな大きな車でこんな所に入ろうと思ったのよ?」
「さあ……。」
これだけで済めば、今回の旅の苦労も笑い話で終わらせる事が出来たかも知れないが、その後もサービスエリアや道の駅での客の置き忘れが計10回!その度に忘れられたお客様を自分の車に乗せてバスを追い掛けてパッシングで合図し、無理やり路肩で停車させて合流させた。
「ちゃんと全員いるかどうか、きちんと確認してから発車して下さいよ!何回繰り返せば気が済むんですか?」
その度に抗議したけれど、新谷は薄目の頭髪に覆われた頭をボリボリと掻きながら、
「いやあ、ごめん、ごめん。気を付ける。」
とニヤニヤと笑うばかりで、暫くするとまた同じ事をしでかすのだ。
そもそも毎度置いてけぼりを食らっていた土井という客の、その団体さんの中での異常な程の影の薄さにも問題があったのだろうが、普通トイレ休憩が終わった後に発車する時は、客がちゃんと全員揃っているか座席を回って確認するだろう。
だが、運転席に座ったまま、
「皆さんいますか――――?」
「いま――――す!!」
「じゃあ、出発しま――――す!」
なんて笊な事をやっていたら、そりゃあ漏れる奴の一人や二人も出てくる筈だ。
ギルドの方もこうした事態を予見していたのだろう。5日目の晩の定時報告の時に、初奈島支部の支部長へ、いくら何でも不祥事が多すぎる!と愚痴をこぼしたら、出来の悪い子の子守だと思って暫くの間は堪忍してくれ、といけしゃあしゃあと突き放された。どうやら新谷という奴は手癖が悪い事で有名な奴らしく、支部がバスへ同行させる車を手配しようにも皆に断られて右往左往し、最終的に何も知らずに承諾した俺に白羽の矢を立てたらしい。
新谷を外そうにも、いくら大きなタクシーギルドといえど中型免許を持っている上に実際にバスを運行している組員は数えるほどしか居ないので、彼に頼まぬ訳にもいかない。しかも今度の旅程では、一箇所だけ最急傾斜度48度という馬鹿みたいに急で長い坂を登降しなければならないので、バスを前から牽引して登坂や制動を支援する450PS以上の高出力車が必須だった。エクステリアには手を加えていても、メカニクスにも手を加えて大馬力が出るように改造している事業者は少ないから、此方の方も声を掛けられる人数が限られる。
だからギルドを責めるのは酷だろう。知らなかったとは云え、二つ返事で引き受けたのは他ならぬ俺だ。
でも代わりに楽しい体験をする事も出来た。色々な状況で走って来たけれど、他の車を引っ張って坂道を登るなんてそうそう滅多にある事ではない。
行く手を遮る壁のようにせり立つ坂へ入る手前の休憩所で、互いの前後のバンパー下のフックに白い旗を付けた長さ5mの太くて黒いステンレス製のワイヤーロープの両端を結び、無線で交信して間合いを図りながら発進する。
そして、140km/hまで両車のスピードが達した瞬間、クルーズコントロール(車のアクセルを踏んで調節しなくても、コンピューターが勝手に判断して設定した速度を維持してくれる装置、かつてはカーナビやエアバックと共に代表的な高級車の装備だった。)と衝突回避システムを作動させる。
こうする事で、牽引車と被牽引車は接触する事は無く、一定間隔を保ったまま同じスピードで崖かと思う山道を駆け上がっていく。初めは平坦な道のりをゆっくりと、そして徐々にスピードを上げて段々とせり上がっていく坂道を麓から大体千m弱の高さまで全力で攀じ登るのだ。
周りを見渡せば、2重連接した大型コンテナ車を引っ張る青い日産ビッグサムのトレーラーヘッドの前に、同じ色のボルボ、そして先頭にマックのボンネットトラックのヘッドを無理やり連結させた超大型トレイントレーラーや、トレーラーヘッドに牽引された大型トラックやバス等が駆け抜けて行く。普通の道なら絶対に見られない光景だ。
斜度が半端なく、麓で勢いをつけてから挑まなければ途中で力尽きてしまう所為か、道法上は一般道扱いなのに法定最低速度が130km/hなので、最高速度が120km/h未満程度の軽自動車やミニカーはこの道を走る事が許されない。勿論最高速が60km/hもない原動機付き自転車や小型特殊自動車は元より、危険だという事で歩行者の立ち入りも禁止され、実質自動車専用道路、もとい高速道路のようになっている。
急坂の頂上を越えると大きなPAがあり、すぐに大分緩くなっているもののそれなりに傾斜があり、大きくバンクが付けられて右へ、その後左へ急旋回する下り坂と共に青い山稜の広がる風光明媚な景色を眼下に見下ろす事が出来た。
PAの駐車場でバスの前部バンパーとクラウンの後部バンパーのそれぞれの牽引フックからワイヤーを外すと、俺は用済みになったそれをラゲッジスペースに放り込んでトランクリッドを静かに閉めた。
初奈島中央駅の駅前ロータリーの一角に駐車したマジェスタの傍で、黄昏の中飲みかけの缶コーヒーを手に呆然と佇んでいると、30m程先にある観光バス専用のバス停の一つにバスを停め、三々五々に退散していく旅行客を見送っていた新谷が右手を頭上に挙げて大きく振りながらゆっくりと此方に向かって歩いて来た。散々トラブルに巻き込んでおきながら、その顔は爽やかだと感じる程に笑顔である。脳天気にも程度と云う物があるだろう。俺は少しムッとし、思わず顔を顰めてしまった。
そんな事に気付いているのかいないのか……、奴は快活に話し掛けてきた。
「やあ、御苦労様でした!」
どうしてこんなに上から目線なのだろう?確かにヘルプとして入ったが、あくまで依頼主は目の前のこいつではなくギルドの初奈島支部である。『お疲れ様でした』が妥当だろう、常識的に考えて。
まあ、恐らく悪気はないだろう。こんな些細な事で目くじらを立てて気まずい思いをする事は俺だって避けたい。俺は新谷の方へ顔を向けると精一杯作り笑いをした。
「ええ、お疲れ様でした。」
「ほんと……、無事に終わって良かったよ。」
「やっと肩の荷が下りますね。」
俺が口を噤んで会話が途切れた途端、周りを走る車のエンジン音や帰宅を急ぐ人並みからざわざわと漏れ出る雑踏の物音が耳へ流れ込んでくる。ワイシャツの不自然に膨らんだ胸ポケットから白い紙煙草のケースを抜き出し、その中にある1本を口に咥えて箱だけ元の場所にしまうと、新谷はスラックスの右ポケットから出したジッポを使い、右手だけで器用に口元のそれに火を点け、如何にも美味くて満足そうな表情をし、辺りにニコチン特有の鼻につく匂いをした白い靄のような副煙流を撒き散らしながら、スパスパと吸い始めた。嫌煙家で煙草の臭いが何よりも苦手な俺は、彼の様子を見て苦々しく思ったものの、煙を吸わないように息を止めて我慢し、やり過ごすことにした。
「は~~っ、美味い。…………ところで……。」
一服すると、また新谷が俺に声を掛けた。
眼前で喫煙されて息を止める事すら辛いのに、声を出して有害な煙を吸引するなんて正直真っ平御免だったが、無視する訳にもいかぬので俺は返事をした。
「はい?」
「高津君は、この後予定とかあるの?」
「いえ、特には……。」
実際、仕事の予定なんて無かった。というより、一秒でも早く帰宅したかった。仕事で溜まった諸々の疲労を床で休む事で解消したいという事は無論だったが、それ以上に一週間も留守にしていた家の様子が気に掛かったからだ。
「じゃあさ、これからどう?コレ!」
新谷はそう口にすると、口の端を緩めたまま右手を顔の高さまで上げ、親指と他の4本の指でCの字を作るが如く軽く握る……まるでグラスを持って掲げるような仕草をした。
「今からですか?」
と、キョトンとしながら訊き返すと、彼は平然とこう言い放った。
「うん今から。車、ここに置いておいてさ。いい店知っているから。ね、行こうよ!」
俺は酒の席へ誘おうとしている新谷の神経が信じられず、思わず目を丸くした。二人とも車で来ているのに、こいつは飲んだ後どうする心算なのだろうか?代行でも頼む気か?俺は普通のセダンだからそれでも問題ないが、奴は小さい方とは云え中型免許が必須なバスに乗っている。果たして中・大型車の運転にも精通している運転代行業者がこの街にいるのだろうか?
じゃあ、車を放置してタクシーで御帰還なさる気か?それでも駅のロータリーにバスをほったらかすなんて迷惑行為に違いない。素直に家へ帰るように仕向けるのが適当であろう。
「すみません。お気持ちは嬉しいのですが、やはり遠慮しておきます。ウチで家内が首を長くして私の帰りを待っているでしょうから……。」
俺が頭を下げて断るや否や、新谷の顔がぎゅっと険しくなった。血が上っているのか、心なしか顔も赤くなっているように思われる。逆鱗に触れてしまったか?
相当機嫌を損ねたのだろうか、
「たっく……、つまんねえな!折角誘ってやったのによ!!」
と、突如逆上して乱暴に吐き捨てると、
「勝手にしろ!」
と言い残して新谷は彼のバスの方へ引き返していった。別に俺は一言たりとも飲酒をしたいとは言っていないのだが……。内心唖然としながら、両手をズボンのポケットに突っ込んで肩を揺らして偉そうに歩くチンピラのような彼の後ろ姿を俺は見送った。
まだ若干残っていた缶コーヒーを一気に飲み干す。ゴミ箱は何処だろうか、とキョロキョロと辺りへ視線を向けると、丁度正面口に隣接するように駅舎内に設けられたコンビニの入り口の前に、ケースの白い色が茶色くくすんでしまった薄汚いゴミ箱が複数置かれているのが目に付いた。
直線距離で20mばかし離れていたそこへゴミを捨てて車に乗り込むと、まるでそのタイミングを見計らったかのように左手首の機械がバイブの振動と共に電話が着信した事を示す電子音を奏で始めた。
「はい!此方、個人、高津タクシーです。」
と電話にでる。
「もしもし、舞原オートセンターです。」
受話器の向こうの相手は源さんだった。
「あ、いつもお世話になっています。どうかしましたか?ひょっとして……?」
俺は、内心わくわくとした期待を込めて尋ねてみた。実は出張前、思わぬ大金が転がり込んで来たからと、その頃欲しいと思っていた新型のBMWの5シリーズを思い切って誂える事にしたのである。
予想通り、源さんの要件は車が完成した事を伝える物だった。俺は彼に礼を述べると、車のエンジンを点火し、新車を受け取る為に舞原オートセンターへ向かって一路走りだした。
およそ20分後、舞原オートセンターの前に着いた俺は、左ウインカーを焚いてハンドルを切った状態で一時停止し、歩行者が居ない事を確認してからじわりとアクセルを踏み込んで歩道の上に乗り上げると、ゆっくりと工場の敷地の中に入り、社屋の前で車を停めた。
そしてエンジンを切って降車し、施錠した後眼前の建物の方へゆっくりと足を踏み出した。
「どうよ?これ。」
「おお!これは凄い!」
目の前に披露された銀色に輝く新しい自動車を見て、俺は不覚にもかなりの声量で感嘆の声を上げてしまった。残念ながら写真や映像ばかりで実車を直に拝んだ事は皆無だが、それでも源さんの仕事らしく細部まで丁寧に仕上げてあるのがよく分かる、非常に良い逸品だった。
勿論その場で即決し、購入して代金を精算すると、マジェスタから取り外した行灯やタクシーメーターをすぐに新しいF10の535iの方へ移植した。マジェスタは、かつてのプリウスのように瞬く間に掻き消すと、ガレージの方へ自動的に転送されてしまった。
受け取った車に乗り込んでエンジンを掛ける。流石天下のBMW。相変わらず3L直6直噴ターボの吹き上がりは天下一品である。否、これも源さんや龍さんの神掛かった調製の結果とも思えるが、兎に角素晴らしい出来だった。
舞原オートセンターを後にした俺は、帰宅する為に中央バイパスに向かって片側一車線の細い二車線道を南下していた。
既に日は地平線下へ沈み、薄暗い夜空の下、名残惜しく橙色に輝く夕焼けの色と混ざり合って周囲は鈍い紫色に染まっている。
住宅が立ち並んでいる割には街灯が疎らにしかなく、余計に闇影を感じる道の上を白い光のヘッドライトと青白く眩くフォグランプで照らしながら走行する。すると突如、何も無いと思われた2ブロック程先の路地との交差点の左奥、距離にして2、30mかそこらかどうか……、手狭な歩道の上に建っていた電柱の裏側に突如、まるで人がそこに佇んでいるかのように黒々とした影が浮かび上がったのが俺の目に飛び込んできた。
「…………?」
何だ……?と見つけた刹那、ぞっと背筋が震えるというか、不穏な気配を心の奥の方でチクリと感じたが、俺は足をアクセルからブレーキに移し、ハザードランプのスイッチを入れるとグッとペダルを踏み込んだ。何となくだが、それが左腕を高く挙げ、宛もタクシーを呼び止めるような仕草をしたように感じたからだ。
車を電柱の傍で止め、其方の方へ振り向く。凄く暗かった所為で顔がよく見えなかったが、シルエットとほのかに降り注ぐ月明かりから、腰まで伸びたストレートの髪がよく目立つ、白いフレンチコートを羽織った年若い女性である事は判別できた。
俺は自動ドアを操作して後部左側のドアをそっと開けた。だが不思議な事に、『DOOR』の位置にルームランプのスイッチを調節していたのにも関わらず、依然として車内は闇に包まれたままだった。
まさか故障か?冗談だろ……?
不測の事態に少々動転していた俺を余所に、その女は音もなしに後部座席の左側へ滑り込んできた。
「すみません。四月一日町の……、西尋坊まで行って頂けませんか?」
機械で変声させたのかと疑う程抑揚のないか細い、しかし忘れようにも忘れる事ができない位聞き覚えがある声で女が俺に向かってぼそぼそと呟くように行き先を告げる。間違いない、あの女幽霊だ。この間は普通のワンピース姿だったような気がするが、色々と服装パターンを持ち合わせているらしい。
背筋が凍りついたが、その一方で、同じ手には二度と乗らない!という妙な対抗心が俺の中で芽生え始めていた。
「350G程頂きますが、持ち合わせは御座居ますか?」
「……はい?」
まだ目的地へ向かって動き出さない内から運転手におよその代金を告げられ、その上そいつが半身を回して振り返ったと思ったら、さも料金を請求するが如く掌を上に向けてパラパラと振りつつ右手を伸ばしてきたからだろう。女は目を丸くしているのか、戸惑ったようなキョトンとした声を上げた。
そんな女の奇妙な反応を窺って、俺は無謀にも幽霊に向かって大きな態度で挑んだ。
「はい?じゃないですよ。お金持っているの?持ってないの?」
「え……?え……?」
「え?……じゃ判らないですよ。お金があるとするなら、今ここで350G払って頂ければ西尋坊の方へ連れていきます。が、もしも持ち合わせが無いのでしたら今すぐに降りて他の車に当たってくれ。それだけの話しです。……それで、どうなんです?」
「え?ええ?」
青白い月明かりによって女の顔が白く照らし出される。相当緊張しているのか、どうやらその表情は怯えているようだった。俺はもう少しだけ強く出てみる事にした。
「あのね……、あなた、覚えてないかもしれないけれど……。この前、私の車に乗った時に料金踏み倒したでしょう?私はよく記憶していますよ。」
俺はダッシュボード上の運行記録簿を手に取ると、運転席側の読書灯を点け、これみよがしにファイルのクリップに挟んだA4の紙の束をペラペラと捲った。
「ここ一月の間に何十人もお客さんを運びましたけど、その中で西尋坊へ行ったのはあなた一人だけ!序でに、今まで乗せた客の中で無賃乗車をやらかしたのもお前ただ一人!」
「嘘つかないで!そんな筈無いわ!同じ車には乗らないように気を付けているもの!」
「此方は一人で複数台を、日替わりで運用しているんですよ。で、今日は新車を卸したばかりなんです。」
「そんな……。」
「取り敢えず、払えるなら今ここで350Gきっかり払って下さい。さもなくばすぐに下車して下さい。流石に二度も踏み倒されるのは御免だ!」
「……………。」
女は黙りこんだのか、急に車内が静寂に包まれた。
と思いきや、不意に左肩を掴まれた感触がした刹那、俺は強大な力で上半身を左後方の方へ押し倒されてしまった。お陰でセンターコンソール上の、運転席と助手席の間の肘置きの角で左の肩甲骨をしこたまぶつけて痛い思いをする羽目になってしまった。
女は俺を引き倒すだけでは飽きたらなかったのか、更に盛大に力を掛けて両手で俺の首を締め上げてきた。
「つべこべ言わず…………行け!!」
先程までの女の様子からは微塵も想像できない、まるで屈強の男のそれのような、低くて野太い、それはもう恐ろしい大声だった。
死への畏怖とこの世にあらぬ者への恐怖から思わず失禁しかけたものの、脅しという最低な手段を用いた女への抗議と、胸の奥から沸々と湧き上がる怒りから、
「巫山戯んな!!!!」
と、俺は腹の底から絶叫した。
「幽霊だから無賃で行け?だって。冗談じゃない。こっちは商売でタクシーを運転しているんだ。金を払う客ならいざ知らず、代金を踏み倒すような奴なんて死者でも生者でも金輪際お断りだ!そんなに金を出したくなければ、タクシーを拾うのではなく、その辺の車でもヒッチハイクでもしやがれ!此方は今、家に帰る途中なんだよ。何が楽しくて無賃乗車する奴の為にUターンしなくちゃならないんだ?」
「…………。」
いつの間にか幽霊は俺の体から手を引いていたので、俺は彼女に向かって乱暴に言葉を浴びせながら起き上がった。
「大体さ。四月一日町の方へ向かうなら、彼方の方へ向かうで、どうして此方側で車を停めようとするのかなあ?一々こんな狭い所で転回させられる此方の身にもなってよ。どう考えたって反対側で捕まえた方が、Uターンせずに済む分お互いに都合がいいんじゃないの?」
「……だって、……だって…………。」
「…………?」
「だって、向こう側で待っていても1台も空車のタクシーが通らないんだもの!」
「あ――――……。」
まあ、そうだろうなあ。この道を北上するタクシーなんて、修理工場や整備工場へ修理や整備に出す車か、車検を受けに行く車か、さもなくばそちら方面へ向かう乗客を偶然乗せた車位だろう。余程の好事家でも無い限り、この辺りで流し営業をしようと思う者は皆無だろう。ここいらでタクシーと云えば、道路の上で拾う物ではなく、電話を使って門前まで呼び出す物であると言われる程だ。女幽霊の言い分も尤もな事に思われた。
しかしそれは、俺には関係のない、あくまで彼女の『都合』という奴だ。
どの位時間が経過しただろうか……。唐突に幽霊が沈黙を破った。
「分かったわ……。払えばいいんでしょう?払えば……。」
女幽霊が差し出してきた左腕の手首に括られていた腕時計のような黒い機械は、どういう訳かぐっしょりと濡れており、辺りに湿気と磯のような塩気の濃い香りを微かに漂わせていた。
「それでは移動料金350Gと、併せて只今の待ち時間料金64G、計414Gを頂きます。」
俺がリーダーを手にしつつメーターに414と手動で入力した途端、しおらしくしていた女幽霊の雰囲気が激しく一変した。
「待ち時間料金ですって?!そんな物まで取られるの?」
彼女は逆上したあまり火病までも併発し始めた。
「信じられない!ありえないわ!」
「まあ、商売ですから。毟り取れるなら小金だろうと毟り取りますよ。嫌なら他の車へどうぞ。」
素っ気無く言い返すと、
「もういいわ!」
と言って女は肩を震わせて立腹し、更に何か喚きながら風に流された靄のように掻き消えて行った。
帰宅して部屋の中に上がり込むと、たった独りで卓袱台の上に食事が盛られた皿を並べて食事の用意をする玉緒のしゃがんだ背中が目に入った。俺が入って来た事を物音か気配で気が付いたのだろう、彼女は徐に俺の方へ振り返り、すっと立ち上がると、スタスタと近寄って来た。
「おかえりなさい、あなた。」
「ああ、ただいま……。」
「御飯にします?お風呂にします?それとも……。」
そう言って火照ったように頬を赤らめると、玉緒は俺の体にそっと寄り掛かった。が、不幸にも俺はそんな彼女に構ってやる余裕も無い程疲れきっていた。はっきり言って食事を摂るのも風呂に入るのも面倒臭く感じる。眠い……。
「少しだけ休ませてくれないか?疲れた……。」
背中から飛び込むようにベッドの上へ倒れようとした瞬間、玉緒に引き留められた。
曰く、
「じゃあ、先にお風呂にお入りになるのが宜しいですわ。温かいお湯に浸かれば、疲れも吹っ飛ぶでしょうから。」
だそうだ。
一見夫に対して気を遣った良妻の台詞のように思えなくもないが、恐らく本音では、碌に洗濯もしなかった汚い格好のままで布団の上で横になるな、という事だろう。
「わかった。」
と言うと、俺は最後の気力を振り絞るように脱衣所へ向けて歩き出した。