第十三話:納車!
>>新太郎
祭りの日程が全て終了し、そのままレパードに皆で乗り込んで帰路に着いた夕方、俺は至極上機嫌でハンドルを握っていた。
車のオーディオのFMラジオから流れる音楽に合わせてハミングし、ステアリングホイールの表面、ホーンボタンや日産自動車のエンブレムが彫り込まれた辺りを軽快にタップする。
ミラー越しに後ろを見ると、ヨネさんと香澄が不審そうに俺の方を窺い、隣にちらりと目を遣ると、ウンザリした顔をした玉緒が深く溜息を吐く。それでも俺のテンションは高まったまま、近日訪れる筈の納車の日を今から心待ちにしてした。
ウキウキとしていると、自ずとそれが運転にも反映されるのか、レパードはハイビームとフォグランプを灯し、ツインターボエンジンのブーストを吹かしながら片道3車線の高速道路のど真ん中を快調にぶっ飛ばしていた。
左車線に大きな銀色のコンテナを引っ張る、比較的新しい赤いマックのボンネットトラックの15t×2の重連トレーラーと現行型の濃緑色のボルボのFHの15tの大型トレーラーが150km程度の速度を出して並んで走行している見える。追い抜こう!自然とアクセルを踏み込む足に力が入る。
ガンッ!グオオオオオオオオオオオオオオオオン……。ヘッドライトを下向きへ落としてアクセルぺダリを限界まで押し込んだ途端、トルコンのギアが2段下がり、雄叫びの如くエンジンが低く唸るように歓声を上げる。
誰かがリクエストしたのだろうか?ラジオから流れる曲が杏里の『思いきりアメリカン』に変わった。テンポの早い軽妙な曲が、ドアに付けられているスピーカーから車内へ響き渡る。俺は左手を伸ばしてオーディオの音量を少し上げた。
そして、ボルボのトレーラーの前へ出ると、アクセルを緩め、前照灯を上向きへ戻した。
急な上り坂だから左車線を走る先の2台のトレーラーや、前方を往く白いダイムラー製の大型バス、水色のK13マーチが悲鳴のようなエンジン音を轟かせる中、レパードは少し踏み加減を増やしてやるだけで、坂道をすいすいと登って行く。
オレンジ色の中に濃い紫色が溶け合った夕暮れの空の下、次々と赤い光が灯り、幻想的な光のせせらぎを造り出す。
不意に左側から、赤いテールランプと白いヘッドライトを点け、橙色のウインカーを点滅させて黒い160系アリストの後期がスピードを上げつつ本線へ合流してきたので、俺は右ウインカーを焚いて追越車線へ車線変更し、再びヘッドライトをハイからローへ切り替える。
ところが、予想以上にアリストが速かったので、俺はすぐに元の車線に戻ってこの黒い車の後ろへ回った。
だが、このアリスト、どうしてこんなに急いでいるのだろう?80km/h付近から160km/h代まで10秒足らずで加速した挙句、今の速度が250km/h程度である。
その時だった。
ウ――――――――――……ファンファンファン……。
何やら賑やかなけたたましい音が後ろから聞こえてくるなと思った瞬間。250km/h以上で走っている俺の車の両側を、現行カプリスとC35ローレルの後期、そして現行W204のCクラスの白黒パトカーと黒いランエボⅨの覆面パトカーが颯爽と追い越していった。
そうしてどういう訳か、アリスト対パトカー4台によるカーチェイスが俺の目の前で展開された。5台の自動車が高速道路を蛇行と妨害運転を繰り返しながら追い掛けっこをしている。
俺はランエボの真後ろにぴったりと追従すると、ワクワクしながら逃走犯と警察の追跡劇の顛末を面白半分に見物しよう、……と思う訳がなく、追い抜く機会を窺いつつ、先刻とは一変してイライラとしながらシフトノブの上に添えていた左手をステアリングホイールの頂上部に置き、右の肘をドアの上縁に置いて頬杖を突いた。
パトカーの隙間を縫って前の方へ進む内に、いつの間にか俺の車は黒い車と警察車両に四方を包囲されていた。
他の多くの車が減速しつつ左によって緊急車両へ道を空けて敬遠する中、まさかタクシーが突っ込んで来るとは思わなかったのだろう。
「『初奈島 301 あ 1324』の日産車のタクシー、危ないから下がりなさい!繰り返し警告する!今すぐに下がりなさい!」
そんなパトカーからの警告など馬耳東風に聞き流すと、俺はふらふらとスラロームするアリストとの距離を後方1m未満まで接近し、右手でウインカーレバーを思い切り手前に何度も引き、同時に左手の親指でハンドルを捌きながら掌でホーンボタンを押した。
ビ――――――――――――!ビビビビ――――――!!!!ピカッピカッピカッ……。パッシングをして前照灯が下から上向きへ変わる度に、アリストの車体が大きく光りに照らされ、後ろのガラスと車内にあるルームミラーにヘッドライトの真っ白な光が眩しいほどに反射する。
微妙にアクセルの踏み方を変えつつ、傷が付かない、だけれども確実に当たっているとはっきり解る、その位絶妙にレパードの鼻先をアリストのけつに擦り付け、海豹か何かを遊びながら嬲り殺す鯱の幼子の様に、前車を執拗に強引に前へ追いやる。
ただでさえ警察から逃げる為にスピードを出していっぱいいっぱいなのに、後方からグイグイと押されるのだから、アリストの運転手はさぞ肝を冷やした事だろう。動揺し過ぎてハンドル操作を誤ったのだろうか、アリストは前輪を左へ目一杯に切り、大きく体勢を崩して横転しつつ吹っ飛ぶと、そのままガードレールや防御壁を飛び越えて高架下へ消えていった。
ああ、落ちていったな……。そんな感想を心の中で漏らし、闇の中へ消えていった赤い尾灯の光を横目で窺うと、俺は車を真ん中の車線へ車線変更させ、ギアをセカンドに入れてエンジンブレーキを効かしながら緩やかに200km/hまで速度を落としって行った。
前方に車やバイクのテールランプの灯りを確認する事は出来ない、50m程までしか照らせないロービームとフォグランプに照らされて白く輝く目の前のアスファルトの路面以外は、ただひたすら鬱屈とした闇が続くのみである。
今更のようにハイビームに切り替えると、そうは云っても精々100mそこらだが、眼前の景色がこれでもかとライトで照らされ、開けたようにパアッと明るくなった。
だからだろうか、沈黙だけが支配していた重苦しい雰囲気の車内の中、息も絶え絶えに香澄が口を開いた。
「社長……、さっきの車……。」
「気にするな!」
俺は前を向いたまま、だけど自分でも内心驚く程大きな声で怒鳴った。
「でも……。」
「心配するな、あの程度で人が死ぬような車じゃない……。忘れろ。」
香澄は、いや他の二名も納得がいかないような顔で俺を凝視していたが、何も言わなくなった。
あの高架は平地の田畑の上を走っていて7m程度の高さしかない筈だから、上手く落ちれば下の柔らかい腐葉土がクッションになり、大怪我をする事はあっても命を落とすまでは行かないだろう。陰鬱とした空気の中、俺は自分に向かってそう念じ続けた。
燃料補給と休憩の為に立ち寄ったSAの駐車場で、スペースへ入れた車の前に回り込み、たまたま持ち合わせていた小型のペンライトでフロントバンパーの辺りを照らしてみる。
ひょっとして色を塗り替えた盗難車だったのだろうか、バンパーカバーの真ん中、エアロの取り込み口の上の部分、丁度裏側にバンパーが取付けてある部分に、うっすらと細く真一文字に黒い塗料が付着していたので、俺は後ろに回ってトランクから洗車用の廃タオルを持って来ると、丁寧にそれを拭った。
夜が明け、昼も大きく回った頃、レパードは漸く初奈島の集合住宅の前に停車した。
その直前に玉緒の奴が、近くにあるスーパーへ買物に行きたいと曰ったので、アパートの玄関前で彼女等の荷物と共にヨネさんと香澄を下ろすと、俺は車をUターンさせた。
集合団地から下がった所にある住宅地の中の、片道1車線の細い道沿いにある、普段から玉緒が買い物で利用しているという中位の規模のスーパーマーケットの前の路肩に停車する。スーパーの前にも横列駐車のスペースが10台程用意されていたが、時間帯の所為か、満車になっていた。
俺は、スーパーを5m程過ぎた所の歩道の辺りを指さすと、
「じゃあ、俺、あの辺で止まって待っているから!」
と、車から降りて助手席側のドアの窓硝子を摘みながら此方の中を覗いていた玉緒に向かって叫んだ。そして、ドアを閉めた彼女がスーパーの中へ吸い込まれて行ったのを確認すると、少しだけ車を前に出し、ハザードを出してそのまま停車した。
30分程経った頃だろうか……。突然助手席のドアが開けられたので、咄嗟に左の方へ顔を向けると、俺は両手に食品などでパンパンに膨れたスーパーの白い買い物袋を2つ持った玉緒と目が合った。
「おかえり。」
「ただいま戻りました。」
玉緒は助手席に座ってドアを閉めると、締めて10kgはあるのではないかと思われる二つの大きな白い塊をしんどそうに膝の上に抱えた。その様子を横から眺めていた俺は、あまりの分量に唖然とした。
「凄いな……。どうしたんだ?その量。」
「お米と野菜が安かったものですから……。」
「そうか……。でも、それ重いだろ?トランクに入れようか?」
「いえ、トランクの中は暑いでしょうし、傷むと困りますから。」
「じゃあ、後ろの座席にでも置くか?」
「卵が入っているから、落ちてしまったら大変ですわ。」
「う――――ん、だがシートベルトを掛ければ、まあ大丈夫なんじゃ……。」
「自分で持っている方が安心できますから……。」
俺の話を堰き止めるように、しんみりと笑う玉緒の顔を見て、俺は敢えて無理強いする気にはなれず、
「そうか。……じゃあ、帰るか!」
と言って、静かに車を発進させた。
9月1日。
昼頃、俺は舞原オートの工場内へ納車されたばかりの新車を停め、源さんと龍さんと共に、残暑の厳しい日差しを反射してキラキラと煌めいた車を囲み、商談という名の雑談をしていた。
「へえ……。これが……、新しいチャージャーか……。」
「えらく雰囲気が変わったな……。で、新ちゃん、これをそのまま高津タクシー仕様にすればいいの?」
「ええ。でも龍さん。いつもの事ですけれど、リアウィングを着ける時に、トランクリッドのハイマウントランプの電源を落として、そのままリアウィングの方へ繋げる処置をして下さいね。近い所にブレーキランプが2つ以上点いていると何かみっともないですから。」
「分かっている。……後、他には何か工事をする必要があるかな?」
「そうですね……。ホイールを20インチの鋳造アルミに変えるのと、後はいつものようにお願いします。」
今朝、待ち焦がれていた11年物のダッジ・チャージャーが小型のキャリアトラックに積載されてアパートまで陸送されて来た。
何度も経験してきた筈なのに、欲しい車が実際に手元にやって来た瞬間はテンションが最高潮に上がる。お陰で車のキーを受け取るや否や、俺はチャージャーに乗り込むとエンジンを始動させ、そのまま町内を一周してきてしまった。
そうして今その足で、この車をもっと俺好みに改装する為に、俺は舞原オートセンターへやって来たのだ。
当然、新しく手持ちの工場のコンピューター制御で拵えた車とは勝手が違い、既に出来た他の工場が製造した車に後付で部品を取り付ける場合、一応同じ工業規格で造られている物とは云え、些細な所で不具合や違和感が出てしまうようで、足回りやダッシュボードの中の配線を確かめる為に、一時的に車を簡単にばらす必要があるらしい。だからその分いつもより何倍も時間が掛かるらしい。
だが、俺も暇じゃないし、仕事をしなければいけないので、家に帰ってガレージから車を出すまでの間の足として、源さん達から代車としてオンボロの紺色のインペリアルのル・バロンの72年型(右ハンドル)を借りる事にした。
6mを超えるようなピラーレスハードトップのフルサイズセダンである。クライスラーが昔設けていた最上級のブランド、インペリアルの代表的な一台であり、特にフロント側の両脇に並んだ2つの車幅灯の間にあるフロントグリルの一部が、コンシールドライト(機械式格納ライトの一種、作動部も含めて車体内部へ完全に格納するリトラクタブルライトとは違い、普通の車の普通のヘッドライトを、不点灯時のみ任意でカバーを掛けて覆い隠せるようにしたもの。ライトを点灯させると自動的にカバーが跳ね上がって裏側へ仕舞い込まれ、消した状態でもスイッチ一つでパカパカとカバーを出し入れできる。)のカバーになっている、目が隠れている分悪ぶれた面構えをしている車である。
小さい頃、この手のアメリカ車を映画などで見た時は凄まじい衝撃を受けた。まず、普通のリトラクタブルと違って本当にヘッドライトが付いていないように見えるから、夜中とかトンネルに入った時とかどうするのかと不安になる。しかもその後グリルの裏からヘッドライトがこんばんはと現れた瞬間を目撃して凄まじい衝撃を受ける。
他にも、子供の頃の俺を混乱させたのが、アメ車のテールランプだった。
今なら色んな車を見て目を肥やしてきたから、アメ車の中には現地の車両法によって、テールランプとウインカーが同じ赤いレンズカバーを共用出来ると云う事を知っていて、別々の電球を光らせる事でブレーキランプを光らせたりウインカーを点滅させたりしている場面を簡単に想像する事が可能だが、その頃の俺は、そういう車を見る度に、一体この車のブレーキランプとハザードランプを点灯させたらどうなるのか?と凄く奇妙に思った。もっと正確に云えば、ブレーキライトは一見して点灯パターンを把握できたが、ウインカーの点滅パターンがどうなっているのか全く思い至る事が叶わなかった。兎に角俺にとってアメ車は、その多くの奇抜なデザインも相まって、欧州車や日本車、そして他のどの車とも一線を画した、大きくて特別な趣をした摩訶不思議な魅力を抱かせる、そんな車なのである。欧州車と違って上記のような特徴が有った為に、日本の車両法に適合するように特別な改造を重ねたり、燃費が悪いとか取り回しがし難いとかネガティブなイメージが刷り込まれていたりで、殆ど日本に入って来ず、馴染みが無かった事もその一因かもしれない。
ドアを開けて運転席に座ってみる。
狭い、見掛けによらず狭過ぎる。年代物だからとかそんなレベルではない。外観が凄く大きく見えるのと、フロントウインドウが今時の車よりも立っていて近い分予想以上に窮屈に感じた。
変速機は極普通の3速AT、そして往年のアメ車らしいふかふかしたベンチシートにコラムシフトである。
ドアやインパネの造形は、如何にも70年代初頭を彷彿とさせる、ドアの上端部に革紐のヒンジ、下部の方に手回し式の硝子開閉装置が付いた飾り気がない薄いドアに、崖のように垂直に切り立った木目調の平べったいインパネという、昨今の高級車の装備や質感と比較すると酷く殺風景な物である。
原動機は7.2LのV8OHVエンジン。まさに古き良きアメ車の伝統的なエンジンだ。ただ時代が古い所為か、実働218PS程と、搭載しているエンジンの割にはえらく少ないような気がしないでもない。まあそれは、現在俺達を取り巻いている自動車達が、当時と比べてそれだけ発達したという事だろう。
よくこういう代車で最悪な思いをしたという話をよく見聞きする事が多いが、この車もその例に埋もれずかなりガタが来ている代物のようだった。
先ず、エンジンが掛からない。一応スターターのモーターが作動している音はしているのだが、点火プラグが異常をきたしているのか、それともシリンダーが何本か逝っているのか、中々回ろうとしなかった。
漸く動いたと思ったら、これまた音が凄い。
プス…………プス……プスプスプス……ブ・ロ・ブロロロ……と、まるで今すぐにもお亡くなりになりそうな位に青息吐息している。
アクセルを踏み込んだら踏み込んだで、どう考えても煽った分よりも加速や吹き上がりが鈍い。というか、全くと云ってスピードが上がらない。そうかと思えば、ある一定以上の踏みしろに達すると、いきなりとんでもなく急加速するので、俺は本気でビビって反射的に急ブレーキを踏んでしまった。どうやらアクセルペダルの油圧系スロットルの一部が狂っているらしい。
とどの詰まりが、この車、ウインカーやハザードが点滅してねえええ!!カチッて音がしたら後はボンヤリと電球が灯っているだけである。この時代はまだ、炬燵のサーモスタットとかでも使われる、異種金属を2枚貼り合わせたバイメタル方式を使っている筈なのだから、電流が流れているのに点滅しないなんて事は物理的に不可能だと思うのだが、もしかしてバッテリーの容量不足によって電流が弱くなり、バイメタルが上手く作動出来ない状態になっているのかもしれない。
どっちにしろこれじゃ使いものにならない。俺はウインカーを使う事を諦め、窓を開けると腕を伸ばし、手信号で周りに自分の意志を伝える事にした。
そして家に戻り、ガレージに一旦インペリアルを入庫させると、すぐにツインターボ化した3LV6のVQDETTエンジンを搭載した自家用仕様のY31セドリック・セダンのブロアムVIPに乗車し、メーターと行灯を取り付けると、そのまま俺はいつもの仕事へ向かった。
夕刻、一仕事を終え、Y31から再びインペリアルに乗り換えると、ボロ車を返却するために舞原オートセンターを訪れた。
「おお!お疲れ!出来たよ!」
と、笑顔で手を上げた龍さんに導かれ、俺は工場内の作業場へ入って行く。
そこには、改造と整備を終えて静かに佇むチャージャーがあった。
「いえ、此方も。ありがとうございました。」
10万Gばかりの改造費を精算し、解錠してチャージャーに乗車する。
まあ、何だ。比較する事自体が酷だということは重々承知しているが、やはり同じクライスラーの車(ダッジはかつてのインペリアルと同じクライスラーのブランドの一つ。)だと、新しい方が断然良い。最近のアメ車はダウンサイジングが進んで、デザインも昔と違って面白味がないから古い方が良いと言う人も居るが、俺は取り回しがし易く、大きさ的にも日本車や欧州車に近い最近の北米車の方がずっと好ましいと思った。
手首の機械を操作して、早速チャージャーに行灯とメーターを取り付けて舞原オートセンターを後にする。公道へ合流しようと思い、歩道の手前で右ウインカーを点けて停止すると、左右を確認してから俺は発進しながらハンドルを大きく右へ切った。
帰路に着く道すがら、寄り道をしていこうと思い、初奈島中央駅へ出る為に中央バイパスに向かって白い破線が引かれた2車線の裏道をゆっくりと走っていると、白い実線と白い破線で仕切られた路肩の歩行者帯の、道沿いに並んだ陰影の美しい電信柱の内の1本の陰から、清潔感のあるノースリーブの白いワンピースを着た、黒髪の長くて色白の儚気な印象がする若い女が俺に向かって手を上げたのが、ヘッドライトの真っ白な光の輪の中に写りこんだ。
時刻は既に19時近くなり、日が高い夏場といえど夕日も大分傾き、オレンジ色に輝いていた空にもかなりの割合で濃い紫色が滲むように混ざり合い、うっすらとした暗がりが辺りを覆っている。このまま南東の方へ向かえば中央バイパスの西端へ、北西の方へ進めば舞原オートセンター等の自動車関連工場が並ぶ地区へ出る事が出来る。が、どちらにしろ昼間でもこんなうら若き乙女が徒歩で彷徨いているような所でもないし、この辺は山までとは言わないが、高台になっていて人家も殆ど無いような場所である。
時間も時間であるため、少々気味が悪く思いながらも、俺はハザードを点滅させて路肩に車を寄せ、静かに女の傍へ停車した。
自動ドアを開き、女が車内へ乗り込んだ瞬間、キャビンの内部の温度が2度ばかり低下したような、鳥肌が立つくらいの寒さを感じて、俺は反射的にエアコンの操作部に手を伸ばし、設定温度を26度から28度まで上げた。
「扉を閉めます。お手元にご注意下さい。」
そう、後部座席左側に座った女に声を掛けたが、彼女はその長い前髪で顔を隠すように俯いたまま、一言も発さなかった。
「お客さん、聞こえますか?閉めますよ!」
「…………。」
今度も無言のままだったが、彼女はコクリと微かに頷いたように俺には見えた。
俺は黙ってレバーに手を掛けて勢い良く閉扉すると、その不気味なオーラをビンビンに発する女の方へ振り向いた。
「お客さん、どちらまで?」
「…………。」
依然女は沈黙を守っている。聞こえていないのだろうか?今度は、俺は大きな声で叫んだ。
「何処まで行くんですか?お客さん!何か云って貰わないと困ります。」
その時、彼女が口をか細く開け、ぼそぼそと凄く小さな低い声で何かを呟いたような気がした。
「はあ?」
と、聞き返しつつグッと身を乗り出し、左耳を女の口元に近付けてよく耳を澄ますと、俺はやっと彼女が何を言っているのかを理解した。
「四月一日町の……、西尋坊……。西尋坊まで行って下さい。」
女の行き先を聞きとった刹那、俺はぞっとして背筋が凍りついた。
四月一日町は、自動車関連の店が集まった第13地区車蒲谷町から更に西の方にある、初奈島最北西端に存在する、切り立った海崖に面した集落の名前であり、西尋坊はその崖の中でも一際高く険しく、まるで現実世界の福井県にある東尋坊を思い出させるような物だった。
その所為だろうか、この世界に取り込まれたまま順応する事が叶わず、職に就く事も出来ず、身内さえ居ない言い知れない孤立感を抱いて鬱屈した人間が、人知れずその上から暗く荒涼とした海面に向かって飛び込んでいくという『事故』が一月程前から多くなり、地元民がそうした遺骸が浮遊しているのを発見する度に、西尋坊の近くに造られた無縁仏の墓所に、寂しい程飾り気のない卒塔婆や十字架といった慰霊塔がその数を増やしていくという、そんな曰くがある土地であった。
昼間だって勘弁して欲しい場所なのに、これから夜を迎える時にそんな所へ好き好んで行かなくても、と思いつつもこれも仕事だと割り切った俺は、右ウインカーを出して車を発進させると、10m程先にあった路地との交差点を越えた後一時停止し、ハザードを出しながら一度左側の路地の方へバックで入り、その後ハザードを切ってまた右ウインカーを出し、そのまま前進しつつステアリングを切ってUターンをした。
一本道を海辺の方に向かって直走る。その間、俺はハイビームで照らされる路面の先を見つめてハンドルを操作しながらも、時々目線をルームミラーの方に向け、後方を視認する序にリアシートに座る女の様子をそっと窺っていた。
車内が真っ暗である事と、未だに顔を下に向けているのとで、女が何をしているのか全然判らなかったが、辛うじてどうやら左のドアに身体ごと凭れ、ボーっと車窓を眺めているようだ。その、ただそこで佇んでいる様子が、一層彼女の悍ましさに拍車を掛けている。
俺は、もう彼女と目を合わさないように、ずっと前を見つめ、運転の方に集中した。
高台降りて街中を抜け、海まで至る、殆ど一車線の幅しか無く、ヘアピンカーブの外側等、所々にしかすれ違う為の待避所が設けられていない、霧がうっすらと滞る小高い岬の細い市道を恐る恐る進んで行く。時たま、墨汁のように真っ黒に染まった不穏な雰囲気を纏う海が暗い木立から顔を覗かせる上に、ガードレールが無い崖っぷちである事も手伝って、冷や汗を全身に掻きながら俺は車のシフトノブをマニュアルモードに入れてギアをセカンドに固定し、ゆっくりと慎重にハンドルを切っていった。
やがて、チャージャーは四月一日町へ差し掛かった。
まるで崖と岬の間の狭い土地に何軒かの家屋が身を寄せ合ってへばり付いているような、何とも云えぬ閉塞感に支配された、閉鎖的な田舎の漁師町である。というより、こうして走っていても本当に町民がいるのかどうかさえ怪しく思えてくる、寂れた寒村である。
町の中で唯一、頑張れば普通車同士ならどうにか離合できそうな道幅がある舗装道路である市道を進み、町のどん詰まり、西尋坊の手前に設けられた白線の引かれていない駐車場のような、30m四方の広さのあるアスファルトで舗装された広場のような所のど真ん中で俺は車を止め、停車措置を施した。
「お客さん、着きましたよ。350G頂きます。」
呼んでみたものの、やっぱり返事がない。しかし、何故か今度はさっきまで感じていた薄気味悪い気配すら忽然と消えてしまっていた。
「お客さん?!」
驚き慌てて後ろを振り返ると、後部座席の上には何もなく、リアウインドウのデフォッガーの合間から差し込む薄暗くて青白い月の明かりが、シートの上をぼんやりと照らしているだけだった。
無論、ドアは開いていない。自動ドアが開く感触は無かったし、反対の右側の後部ドアもチャイルドロックがしてあるから内側から開けるのは不可能。前後スルー出来ないフロアシフトFR車だから、助手席に移動するなんて芸当も難しい。第一、ドアが開けば自動で室内灯が点灯して車内が明るくなるから嫌でも俺が気付いてしまう。
窓を開けて脱出するとしても、セダンなどの場合、後部席のウインドウは硝子がリアフェンダーに干渉するので、上手くリアフェンダーを避けて硝子が下りるような一部の車を除けば、基本的に全開にする事は不可能な構造になっている。いくら細身の女でも、走行中の車から脱出するのは難事だろう。しかも道中信号は車蒲谷町内にあった2箇所のみで、その双方共に此方側が青信号で通行出来た。つまり、俺の車は目的地まで一度も止まらなかったのである。逃げ出せる隙など無かった筈だ。
というか、実際開いた窓から逃亡可能だったと仮定して、ドアも開けずにどうやってその窓を全閉したのだろうか?運転席側の集中ウインドウコントローラーには、強く押したり引いたりする事で、一発で窓を全開全閉出来る機構が組み込まれているが、ここのドアに付いているウインドウスイッチにはそういう機能は備わってはいない。全閉するにはスイッチを引き続ける必要がある訳だが、ドアを閉じた状態でそんな芸当をすれば、冗談抜で腕が千切れる事は必死だ(パワーウインドウの殺傷力は想像以上に強い。)。尤も、この車には事故防止センサーが付いているから、そもそも腕を感知した時点でそれ以上硝子が上がる事はまず無い。
ところが、実際にはどの窓も隙間なく閉まっている状態だった。なら、密室の車内からそれこそ煙のように消失したと云う事か?そんな馬鹿な……。
釈然としないし、料金をむざむざと踏み倒された挙句虚仮にされたような気がして非常に腹立たしかったが、それ以上に理由もなく無性に空恐ろしくなった俺は、運行記録に無銭乗車の件を簡単に記述すると、急いで転回して踵を返した。
夕刻から夜半にかけて、西尋坊から初奈島中央バイパス守矢口インター交差点まで至る初奈島市市道67号鎌谷線、鎌谷ヶ丘から守矢口付近を走行していると、白いワンピースの女に西尋坊へ向かえと言われ、到着すると女の姿が忽然と消えているという、怪談じみた都市伝説の噂を、俺が同業者の寄り合いで耳にしたのはずっと後の事だった。