第十話:長距離を走れば事故の一件位は目撃出来る
>>新太郎
夜の帳が上がる。
夜と朝の狭間の時間帯に特有な鈍い灰色掛かった藍色に染まった景色をヘッドライトの光で切り裂きながら、並走する沢山の大型トラックの間を縫うように走り続ける。
山脈と山地の間に挟まれたように眼前に広がる壮大な台地のど真ん中を突っ切るように片道6車線の幅の広い高速道路が通り、それを囲むように近代的な工場やコンビナートやコンテナセンターが建ち並んだ工業地帯や工業団地といった施設群が犇めき合っている。そして、24時間引っ切り無しに稼働するそれらの建造物から物資や商品を各地へ搬出したり、逆に搬入したりする大型トラックやトレーラーが出入りし、高速道路を通って目的地までの長い旅路を疾駆していた。
当然ながら日が昇って辺りが明るくなり、街中が活発に活動を始めるに連れてその数は増していき、更には企業の営業車や一般車の交通量も増えるので、6車線ある広い道路も見渡す限り色とりどりの自動車で覆いつくされ、上下線とも大渋滞を形成していた。
俺はハザードを焚きながら、同じ様にハザードとブレーキランプを点けてのろのろと動いていた白い2代目ランサーバンの営業車の後ろに、後続の青い最終型の三菱ふそうのザ・グレートの10tの無蓋車と挟まれる形で停車した。
左から4本目のレーン。右を見れば深緑色のY32セドグロのグランツーリスモと小型の焦げ茶色のコンテナを2つ載せた車を牽引している灰色の日野・プロフィアの15tのトレーラーが、左側には白いプロボックスとツラウチ(車高調でフェンダーのタイヤハウスとホイールのスリッド面が接触する限度いっぱいまで車高を落とした状態。八の字を作る位ネガティブキャンバーになる事が多いので、度が過ぎた状態を『鬼キャン』と蔑称する事もある)にしたどきつい黄緑色の2代目シボレー・カプリスのワゴンが同じ様にブレーキランプを点灯している状態で停止していた。
俺はハザードを切ってギアをNレンジに入れ、サイドブレーキを掛けてシートベルトを緩めると、ステアリングホイールの頭頂部を両手で抱き抱えるように持ち、顎を置くようにハンドルに寄り掛かった。
「ああ、これは……。当分動きそうもないな。」
「困りましたね。あなた……。」
「困るどころか、俺からしたら寧ろ歓迎なシチュエーションではあるけどな……。」
「え――――?!どうしてですか?社長。」
「どうしても何も、単純に休めるからな。これで微妙に動きつづけてブレーキを踏みっ放しでいなければいけない中途半端な渋滞なら最高にイライラするかも知れないが、今は完全に止まっているからなあ……。」
一時的なものだとは云え、実際に運転から解放されて手足の関節を伸ばしてリラックスしていた俺は玉緒と香澄に向かって呟いた。
ただ心配事があるとすれば、バッテリー上がりとオーバーヒートの危険があると云う事位だろうか。全く動けない状態でクリープ制動を越えてエンジンを回せない為にバッテリーへ電力を供給する発動機の能力が一気にダウンし、カーナビゲーションシステムやそれを包括して動かしているマルチオーディオシステム、そして夏真っ盛りで高温になった車内を快適な温度までガンガンに冷やしているエアコン、動き出して止まる度に点灯する制動灯や常時点いているフォグランプやテールライトと、電気をこれでもかと食いまくる電装品がフル稼働している現状では、あまりに長い時間渋滞に嵌っているとバッテリーが上がる可能性が少なからずあった。
何より危惧しなければならないのはオーバーヒートである。高速走行中の車のように常に前から後ろへと風が流れてラジエーターが放熱した熱が拡散している時とは打って変わって、今はエンジンルーム内にどんどん熱が篭っている真っ最中である。センターコンソールに設置した電気式3連メーターの水温計を見ると、100℃を少し超える値を示していた。(メーターパネルの中にもタコメーターの右側に共に簡単な水温計が付いている事は勿論知っているが、メーカー純正の簡易水温計は、ドライバーを不安にさせないという理由でオーバーヒートを引き起こすギリギリの、本当に危険な状態に陥るまで針が真ん中から動かない所為で、俺は大抵後付けした方の計器を確認するようにしている。)インタークーラー(エンジンへ送る空気を冷却する為の奪熱装置、主に排気ガス圧で吸気を圧縮するターボチャージャー装着車に取り付けられている。圧縮されて熱を持った空気を走行風で冷ます事で圧縮空気の充填率を稼いでパワーアップを目指す。)をガンガンに作動さている状態とは云え、電動ファンが回っているのにこんな高温(普通は80℃~90℃、120℃を超えたらアウト。)では少し先が思いやられた。まあ、3連メーターの油温計(潤滑油の温度を管理する為の計器)や油圧計(潤滑油の圧力を測る計器)の針は依然として正常値を指し示していたから、動き出せれば何とでもなるだろう、と心配しつつも実の所俺はかなり事態を楽観視していた。
時たま車の脇を、車列の隙間を縫うように、見ている此方が暑苦しく感じる位の重厚なフル装備をしたライダーが駆る後部の荷台にロープで括られた大量の荷物を積んだ川崎やスズキ等の大型オートバイが2気筒エンジンを軽快に唸らせてすり抜けて行く。所謂積載厨と呼ばれる長距離ツーリング愛好家達か何かだろう。
急に電源が落ちて立往生する事もボンネットから突然白煙が上がる事もなく、渋滞が解消すると共にレパードは少しずつだが動き出し、俺はシートベルトを締めてシートに座り直すと徐々に速度を上げて行った。
整然と周辺を埋め尽くしていた工場やビルがまばらになっていき、交差する自動車専用道とのJCTを通過して郊外の住宅地へ入って行くに連れ、高速道路の車線数が片道6本から4本と減少し、到頭片道3車線の道路がなだらかにカーブとトンネルを連ねながら峠越えをする区間へやって来た。
必死に車体を前後に揺らつつ前を走る白色のHB23S型キャロルの5ドアに追い着いたので、俺は右ウインカーを出してミラーと目視で右後方を視認すると、真ん中のレーンから追越車線へと車線変更した。そして、アクセルを踏み込みながらふとキャロルの黄色いナンバープレートをチラ見した。
『仙谷 530 け 12・0』
仙谷?3000km近い距離を、大部分で高速道路を使わなければいけないような道程をこんなちっぽけで非力な、どんなに頑張って出しても120km付近で頭打ちになるような軽自動車で移動してきたのか?何というか、御苦労様です、と俺はキャロルの運転手を労いたくなった。
そして白い軽自動車を左のドアミラー越しに見ながら50m前を走る白いノーマルの後期型の100系マークⅡの後に続いて走っていると、後ろの方から勇ましい轟音をがなり立てつつ此方を追走する、黒いレンズのレイバンのサングラスを掛けた柄の悪そうな兄ちゃんの運転する黒いフルスモークの白いKA9レジェンドの前期が、何発もパッシングしながら凄い勢いで迫ってくるのがルームミラーに映ったので、俺は左ウインカーを焚くとそそくさと真ん中の走行車線へ避難し、軽くブレーキを掛けて直ぐ目の前を走るラベンダーメタリックのパサートCCの速度に合わせた。
哀れ。俺と同じ様に左ウインカーを点滅して走行車線へ逃げようとしたものの、直ぐ左隣を並走していたパサートに行く手を阻まれたマークⅡは、バンパーが接触する位まで非常識な接近をしてきたレジェンドに、10発以上もピカピカとパッシングされるわ、15秒以上もあるような長いホーンを3度も鳴らされるわ、これでもかと云う程執拗な煽り行為を受けていた。左後のドアの窓硝子からチラリと見えているだけであるとは云えど、四角いレンズの眼鏡を掛けた人の良さそうな顔立ちをしたマークⅡのドライバーの男性が鬼気迫る形相で必死にアクセルを踏み、冷や汗を掻いている様がよく分かる。他人事ながらも俺は心底気の毒に思った。
しかしここは高速道路。たとえそれが400km/hに迫るような気違いじみた速度であったにせよ、速い奴が優先。常に360度前後左右に気を配って自らの進路を確保しつつ、後方から自分よりスピードを出している車が来れば速やかに譲らなければならない。それがかつてのアウトバーンの如く全線速度無制限のこの世界の高速道路における一種の鉄の掟として暗黙の了解の元に日常的に高速を利用する職業ドライバー達の間で共有されている。だからマークⅡの運転手に個人的には同情を禁じ得なかったが、同じドライバーとして見ると、焦ってまで自分のペースを固持せずに急加速してさっさとワーゲンの前へ出てしまえば直ぐに解決するのに阿保だなあ、とやや蔑みに似た感情を抱いて俺は冷ややかな視線を送っていた。
だが、何故か似合っても居ないのにトランクリッドに黒いカーボン繊維製の馬鹿でかいGTウィングを装着したレジェンドにも俺は一言咎めたかった。別に煽るなとまでは言わないが、それならそうと守るべき手順があるだろう。いきなり前車に向かってハイビームを点滅させるとは何事だろうか。マナー違反にも程があるだろう。
先ず、追越車線または片道一車線の道路を走行する前の車を追い越す時には、自分が追い越すという意思表示をした上で相手に譲ってくれるように丁寧に頼まなければならない。即ちセンターライン方向へ(左通行なら右、右が通行なら逆)にウインカーを焚いて、
『すみませんが追い越したいので路肩の方へ退いて貰えませんか。』
と合図を送らなければならない。そうして前車が走行車線へ戻る、または路肩に向かってウインカーを出しながら路肩に寄った時(左側通行なら左、右側通行なら右。接近してきた後続車両に対して、『安全なので、どうぞこのまま私を追い越して行って下さい。』という意味がある。)に初めて追い越しを仕掛けなければいけない。勿論進路を譲って貰ったからにはハザードランプでお礼やお詫びの意思を提示しなければいけない。いきなりパッシングとクラクションの連打で煽りまくった挙句、追い抜いた後は何のリアクションも無く走り去って行くなんて言語道断にも程がある。相手が相手ならそのまま追い掛けられた挙句面倒な争いの火種にもなりかねん。こんなドライバー同士のコミュニケーションの中で培われた不文律なルールなど、交通教本や道交法には一切記述されていないが、だからといって公道を走行している以上知らなかったでは決して済まされない。
こうして改めて考えると、車の運転って門戸が広いようで案外閉鎖的な世界かも知れない。ただ単に動かす事以上に、全世界はもとより、例えば『名古屋走り』や『伊予の早曲がり』や『松本ルール』といった、地域毎の違法性の高いローカルルールや俺ルール等も含めると知って於かなければならない、各ドライバー同士の阿吽の呼吸を前提としたルールが多過ぎる。しかもそれに加えて危険予知もしなければならない。
そう言えば、現実世界で免許を取る為に教習所に通っていた頃、同乗していた教官がこんな事を言っていた。
「1人前のドライバーになるには少なくとも5年以上、大体3万km分の走行経験が必要だ。そこまで走れば大抵のシチュエーションは嫌でも経験できるから。」
と……。尤も俺は子供の頃からの車好きが高じて、車の運転方法から地方のローカルルール、自動車の特性からその危険性、どういう場所でどういう危ない状況に陥る危険性があるか等、殆どの事は頭の中に叩き込んでいたので、スピード違反などで検挙された事以外では現在まで運転で苦労した事もなく、どんな車でも少し動かせば、すぐに車両感覚を掴んで自分の手足と同じ様に自由自在に動かせるが、今まで興味がなかったけれど必要に迫られて運転を始めたばかりの人や滅多に車を運転しない人達にとっては分らない事だらけなのかもしれない。いくら速い奴が正義と建前上はなっているとは云え、決して空いている訳ではない道路上の車の流れを読まずにスピードを出して突っ込んで来たGTウィングの根元に若葉マークを貼りつけたレジェンドの若造や、中途半端に遅い速度で追越車線を走り続けた挙句、煽られて焦燥感にかられてもスピードを出さずに自分のペースを守る事に固執するおっさんを見て、俺はそんな事を考えつつ、前を走るパサートとマークⅡを追い越した。
しかしながら、まあ……下手糞だなあ、と俺は前を走っていたレジェンドを観察して思った。速度出して前の車を纏めて蹴散らしてくれるので、後ろに走っている俺としては楽が出来るので結構な事なのだが、如何せん前走車に追い着く度に急ブレーキを掛けるのだ。前が詰まっている事が判っているだから、エンブレを使って上手い事速度を調節し、ブレーキを踏まずにスマートな走りをする事は出来ないのか?と3台前と2台前辺りを走る車の動きを基準にしてアクセルを調節して一定速度で走行しながら俺は心の中で毒づいた。
大体追越車線から抜く事が全てじゃないだろう。そんなにスピードが出したいなら左に右に車線変更を繰り返して他の車の間をすり抜けるような危険運転でも余裕で熟せるような運転技術位は持ち合わせておけ。
高地を越えて大都市の郊外から段々と人家も疎らな田園地帯へ景色が移り変わって行くと、急に車が少なくなったので250km/hまで加速し、真ん中の車線から追越車線のレジェンドを追い抜くと、レジェンドはまるでレパードにムキになって対抗するようにスピードを上げ始めた。意味が分からない。GTウィングを付けて車高を下げているが、その他ははっきり言ってドノーマルである。恐らくスーパーチャージャーなんて高価な物を装着してはいない普通のNAエンジン車だろう。いくらホンダが誇るVTEC系のエンジンが1L当たり100PSの高出力を誇る高性能エンジンだとしても350PS、下手すると280馬力規制(かつて日本車限定で存在したエンジンの出力規制。80年代後半、車の高性能化と共にスピードが出過ぎる事により死亡事故が多発する事を危惧した当時の運輸省が、89年に国産市販車の中で初めて280PSの壁を破ったZ32型フェアレディZの発売を期に事実上の行政指導をしてメーカーに自主規制を強いた、所謂『自動車馬力規制』の事。2004年に業界団体からの要請で撤廃。現在、その年に発売された現行レジェンドを始めとして続々と300PS超の日本車が誕生している。)下の時の車両だから、実力すら出せない設定に縛られている可能性すらある。自然吸気でSOHCエンジンのFF車が2つの小型ターボチャージャーとその他改造で500PSまでチューンアップした俺のDOHCエンジンのFR車に勝負を挑んだところで、結果は火を見るより明らかだろうに……。それとも一見すると少々派手なドレスアップを施したタクシーである上に、4人も乗っているから重量的にいけると踏んだのか……。だとしたら目測を誤ったとしか言い様がない。
それに俺だってプロドライバーである以上初心者マークを付けているような奴に負けるなんて屈辱的な目には遭いたくはない。だから他の車を間一髪のところですり抜けつつレジェンドを振り切る為に車をキックバックさせた。
250……260……270……。とうに速度計の針は振り切れているがレジェンドはまだ食らいついている。意外としぶとい。
レーンを移動する度に車体が大きく左右に揺れ、高架の橋脚の繋ぎ目のようなごく微妙な段差でさえも乗り上げる毎に跳ね上がる。後部座席の方で悲鳴や念仏が、隣から玉緒の叫び声が聞こえている気がするが、強いて意識する気にはなれなかった。
「あなた止めて!いくらなんでもスピードの出し過ぎですわ!お願いですから……。」
「煩い!黙っていろ!集中出来ない。」
俺は玉緒にそう怒鳴り付けると、チラリとルームミラーを見て舌打ちをした。
「ちっ、しつこい奴め……。まだ追い駆けて来やがる。」
一番左の車線から、真ん中の車線を走る黒い現行フォワードの7tの無蓋車の後部と、それを追い越す為に接近しつつあった真っ白な新車のいすゞ・ガーラのフロントバンパーの間に出来ていた15m程の隙間に滑り込み、そのまま追越車線へ飛び出してフォワードの前に出ると、俺は目の前に現れた物を見て目が点になり、すぐにハッとしてハザードを焚き、急ブレーキを踏み込んでそのまま車を路肩に設けられた広いスペースへ退避させた。
そうして落ち着いてからもう一度目の前の光景を改めて確認する。目の前には後ろのアルミの箱の観音扉の右の片割れをだらしなく開けた1台のオリーブ色の初代プロフィアの10tの有蓋車がハザードを出して停車している。そしてその周り、主に右舷の半ばから後ろ一帯の路上に積荷と思しき梱包用のくすんだベージュ色をした、きちんと折り畳められているダンボール箱の束が一面に散逸していた。どうやら何かの拍子に荷台の扉が開いて御覧の有様になってしまったらしい。先程からトラックの運転台の傍に立っている運転手らしき薄い萌黄色の作業着を着た男が、道路に散在してしまった落し物を回収する為に後続の車に向かって真黄色な火花を煌々と散らす発炎筒を振りかざし、注意を促して停止させている。
気が付くと俺の車のすぐ隣にある左車線に、同じ様にハザードを焚いたフォワードとガーラがエアブレーキからプシュ――――ッと空気が漏れる音を立てながら静かに停車した。そして後ろのバスの自動扉が静かに開いたと思ったら、運転台から運転手が降りて来るのが見えたので、俺もシートベルトを外して停車措置をすると玉緒に声を掛けた。
「すまん、ちょっと……。」
そして玉緒の少しむっちりとした柔らかい太腿の上に左手を据えつつ上半身を助手席の方へ乗り出すと、俺はグローブボックスの下の方でスプレー型の消化器や黄色いシートベルトカッター付きの水没脱出用のハンマーと共に常備している赤い発炎筒へ手を伸ばした。
発炎筒を片手に車外へ降り立って後方へ視線を向けると、既に多くの後続車が異変を察知し、出来るだけ路肩の方へ寄る感じで停車しようとしているのが見て取れた。
その時だった。
キキ――――――――――――ッ……ドスッ!……キュルルルルルルズゴ――――ン……ビ――――――――――――…………。
突然急ブレーキによるスキール音が耳に入って来たと思ったら、軽い衝突音と車がスリップして回転するような音が聞こえ、まるで雷が落ちたような轟音と共に俺の車の前に停まっている大型トラックの前の少し離れた路肩に設置されている屈強なガードレールに、例の白いレジェンドが右後部から突っ込んでクラッシュし、バウンドして再度一回転すると此方にけつを向けた状態でやっと第一通行帯上に静止した。そして哀愁の漂う犬の遠吠えの如く虚しくて長いクラクションを鳴らすと、レジェンドはハザードを出して力尽きた。
どうやら、ダンボール箱を踏んでスリップして車体が跳ね上がって制御を失い、そのまま一度中央分離帯のコンクリート製のガード帯に接触し、そのまま横滑りしながら路肩の方へ吹っ飛ばされて来たらしい。エアロがぱっくりと割れて、ネジ曲がって切断された後部バンパーや破裂したマフラーを顕にし、右側のテールランプにはひび割れが入った上に一部が砕け散って中の反射鏡が丸見えになっている。フレームがやられたのか撥ね開いて閉まらなくなった、惨めなほど締りの無くなったトランクリッドが余計に此方の涙を誘う。おまけに最初に中央分離帯に接触した部分なのだろう、右のフロントの角、バンパーが少し外れて曲がった場所からフロントフェンダーの頂上辺りに掛けて銀色の引っかき傷をキラキラとさせつつ大きな凹みが形成されていた。
車内へ目を向けると、役目を終えた白いエアバックがだらしなく垂れ下がったステアリングホイールに寄り掛かって眠るように、件の運転手が失神しているのがガラスフィルム越しでもよく見える。
突然目の前で起きた交通事故を目の当たりにしてどよめきつつも、周辺の自動車から大勢のドライバーが降りてきて瞬く間にレジェンドの周りを囲んでいる。だが、中にいる兄ちゃんを助けだして介抱しようにも、ドアを施錠していたのか、それともクラッシュした衝撃でトランク部分だけでなくサイド全体のシャシーとフレームが歪んだのか、ドアを開ける事が出来ない。時間が経つばかりで手を拱いているしかない状況に陥ってしまっていた。
周囲に目を向けると、偶然にも俺は事故車から更に200m行った所に、故障車などを停める為に路肩から更に外側へ大きく張り出した緊急退避所が道路に設けられている事に気が付いた。待避所には絶対に道路管理者や警察・消防へ通報する為の非常電話が設置されている。俺はそこに向かって路肩を走りだした。
退避スペースに着くと、予想通り銀色のガードレールの裏側と盛土の端の隙間に1本の白くて少し太くて短い鉄柱が立っており、まるで鳥の巣箱を彷彿とさせるようなベージュ色の鉄製の細長い直方体のケースの中に安置された非常電話がその上に螺子留めされていた。
俺は『非常電話』と書かれた緑色のケースの蓋を開け、饅頭が詰め込まれた箱の如く縦に長くて幅も狭い直方体の、ボタンが数個取り付けられている事以外はのっぺらぼうな白い機械にコード付きの黒い受話器が取り付けられたようなシンプルだが味気ない非常電話に目を留めると、迷いなく受話器をとって自分の耳に当て、『事故』と表示されているボタンを勢い良く押した。
「はい。こちら道路管理局です。どうなされましたか?」
電話の受話器から低い男性の声が聞こえて来た。
「ここから200m程手前の所で(非常電話は番号で管理されているので、電話が掛かってくれば、管理者側には高速道路のどの非常電話から掛けられたのか瞬時に判別出来るので、此方から細かい場所を伝える必要はない。また、非常電話以外からの電話でも上下線と道路上にあるキロポストの数字を伝えれば細かい位置を伝える事が出来る)トラックが落とした落し物に後続車が乗り上げて単独事故を起こして道路が通れなくなってしまいました。あと、単独事故を起こした車の運転手の意識が不明です。すぐに救急要請もお願いします。」
「わかりました。すぐに手配します。通報ありがとうございました。」
俺は受話器を元に戻してケースをやや乱暴に閉めると、事故現場の方へ引き返した。
5分位経った頃だろうか……。
ウ――――――――……ファンファンファン……ピ――――ポ――――ピ――――ポ――――……カンカンカン……と、サイレンを賑やかに響かせながら、こっちの車線を先のインターから逆走するようにハイビームを点けて赤色灯を灯した、パトカーや救急車といった種々の緊急車両が続々と勢い良く突っ込むように事故車両の周りに停車した。
直ちに警察官や保安官達によって手際良く通行止めの手配が取られ、事故検分が始まる中、レジェンドの周りではレスキュー隊による運転手の救助活動が並行して行われようとしていた。
明るい赤味掛かった橙色の制服を着た一人の隊員がハンマーで運転席のドアの強化ガラスを叩き割ると、ドアノブのドアロックボタンに手を掛けてドアを開錠し、そのまま体重を掛けて右側の前扉を開こうとした。だが、開かない……。
「駄目だ!フレームが曲がって開かなくなってしまっている!誰か、油圧カッター、持って来い!」
「了解!」
別の隊員達が現行プロフィアの赤いレスキュー隊の消防車の中から油圧救助機材を急いで持って来た。
「じゃあ、行くぞ!それっ!」
ドアの開閉部の蝶番の部分に分厚くて鋭利なペンチのカッターの刃が挿入され、ガシッガシッと鋭い音を立てながらフレームごと車体を切断していく。そしてレスキュー隊員達はドアの窓と下の隙間に細い鋼鉄製のワイヤーを通して結びつけると、威勢よくワイヤーを引っ張ってドアを強引に取り外してしまった。
隊員の一人がサングラスを掛けた兄ちゃんの肩を激しく揺らしながら大声で呼びかけている。
「もしもし!大丈夫ですか?意識があるなら返事して下さい!もしも――し!……駄目だ…………。意識がない。緊急搬送だ!救命班、ストレッチャー急げ!」
「はい!……こっち来て!よ――――し、オーライ、オーライ!」
近くにいた警察官の誘導によって、事故車のすぐ近くまで、事前に逆走状態から転回して緊急搬送に向けて待機していた200系ハイエースの救急車が後退して停車し、ハッチバックドアを開けた救急隊員によって、足が折り畳み収納式になっている搬送用の緑色のストレッチャーが運びだされた。
その後、救助したレスキュー隊員達によってストレッチャーの上に仰向けに寝かされたレジェンドのドライバーは、救急救命士達による必死の応急処置を受けながらそのまま病院へ運ばれて行ってしまった。
レスキュー隊が引き上げ、警察官や道路管理局の作業員らによる事故の検証と落し物の回収作業が無事に終わった後、ようやく通行止めが解除され、警察官等によって交通整理されつつも、事故の影響で渋滞していた車の列が少しずつだが動き始めた。
俺もエンジンを点けっ放しで路肩に放置していた自分の車に乗り込むと、ギアをリバースに入れてサイドブレーキを解除し、助手席の背もたれに左腕を回して上半身を左後ろの方へ乗り出し、ブレーキを踏みながら徐々に車を後退させて行った。
ある程度さがった所で一度車を止めてギアをドライブに切り替えると、俺は右ウインカーを焚き、本線の車列に入る為に右後方へ振り返った。
丁度俺の車の右の角のすぐ傍の第一通行帯に停車していた派手なピンク色をしたE120系カローラアルティス(カローラの東南アジア仕様)のフルエアロ装備の個人タクシーとスバルブルーのGD型インプレッサの後期の間に隙間が出来ていたので、この両車の間に割り込む為に、ほんの少しブレーキを緩めて車体をなすり着けるように微妙に前進していった。
そして何とか本線に合流して事故現場を抜け、また車が流れだしてアクセルを思い切り踏めるようになった頃、俺は迂闊にも自分がシートベルトを締めずに車を運転し続けている事にふと思い当たった。
「お、いけない!」
「あら?どういたしましたの?あなた。」
「ああ、いや、大したことじゃない。気にしないでくれ。」
玉緒に向かってそう言うと、まるで田舎の直線路でよく見られるそれのように、ハンドルを左手で掴みつつ右手をシートベルトに引っ掛け、たとえそれがほんの数秒な間の事であったにせよ、俺は車を200kmオーバーで走らせているにも関わらず両手をステアリングホイールから離して3点式シートベルトのバックルを填めた。
そう言えば、そろそろガソリンの残量が心もとなくなってきた気がする。次にスタンド有りのSAが見えてきたら休憩も兼ねて寄って行こうか。そんな事を俺はハンドルを握りながら考えた。
最寄りのSAで休憩を取ってから、本線への出口の手前に設けられた、普通車10台以上、大型車も5台位一度に給油出来そうな大きなガソリンスタンドにレパードは入店した。
俺が車を停めると、少し小太りな、中肉中背の霞んだオレンジ色の制服を着た男の店員が車の所へ近付いて来たので、俺は運転席のドアのヒンジに付いているパワーウインドウのスイッチを思い切り押した。
「いらっしゃいませ。今日はどのような御用でしょうか?」
「ハイオク満タン。それと空気圧。」
「畏まりました。少々お待ち下さい。」
男が去ると今度は逆にスイッチを勢い良く持ち上げて、俺は窓を閉めた。
窓が拭かれ、タイヤのチェックが済み、燃料計がFULLを指した事を確認すると、俺は再び窓を全開にした。
「お待たせしました。請求書です。確認の上、精算の程をよろしくお願いします。」
「はいはい……。うっ?!」
俺は軽い気持ちで、先程の店員から受け取った紙上に記載された額面に目を通し、図らずも言葉を詰まらせてしまった。
『2,400G』
そう、そこにはボールペンの黒い油性インキで殴り書きされていた。高い!高いよ。昨日仮眠を取る序でに給油した時は、たった千5百20Gだけで済ませられたのに……。
当然、俺は店員へ抗議した。
「2千4百?!冗談だろ?いくら何でも高過ぎるだろ?何かの間違いじゃないか?」
「いいえ、そんな事は無い筈ですが……。ハイオクを80Lお入れになりましたよね?」
「確かに入れたよ?でもさ、それでこの値段になるか?普通。」
「ウチは、ハイオク1L辺り30Gで販売させて頂いて居りますので……。」
何食わぬ顔でこう言い切った店員の顔を、俺は唖然としつつ見つめていた。考えてみろ。現実世界でハイオクをリッター300円で売りつけて平然としていられるスタンドがあれば、文句の一つだって付けたくなるだろう。ましてやそれが高速上にある。ある種必要に迫られて入れるような所なら尚更だ。
「30G?!ボリ過ぎだろ!巫山戯んな!冗談を言うのも程々にしてくれ!」
そう叫んだ瞬間、店員の顔が険しくなった。
「ああ?ガソリンを何ぼで売ろうが、此方の勝手じゃろうが!文句あんのか?ゴラァ!」
「はあ?文句あるに決まってるやろうが!客舐め腐るのもええ加減にせえ!しばいたるぞ!せめて3割引に負けろや!高過ぎんのや!」
「はあ?30%も引けるか、ボケッ!そっちも客商売しとるんじゃったら判るじゃろ?そんな値段で売ったら此方が赤字になるけんのお。」
「んなもん知るか!此方やって仕事柄各地の給油所巡っとるから何処がどういう値で売っとるか、大体の相場は把握しとるわ!この辺やったら、大体1L19から20Gが相場やろ!何で10Gも上乗せする必要があんねん?客馬鹿にすんのも大概にせえよ!」
「ああ、そうかい。分かったけん。金払う気がないんじゃったら、今すぐガソリン抜いてとっとと去れ!」
「はあ?別に払わんとは言うとらんやろ!阿保!正規の値段まで下げろって言うとるだけやろが!」
逆上したあまり思わずお互いに方言を丸出しにしつつ、俺と店員は車のドア越しにそれぞれ目の前の相手へ罵詈雑言を吹っかけ、払え、払わない、と云った後から思えば下らない言い争いを、人目も憚らずに大声で繰り広げた。
「あ……あなた……。」
不意に隣から玉緒の声が聞こえて来たので、俺は彼女の方へ振り返った。流石に自分の嫁を睨みつけたり、怒鳴りつけたりする訳にもいかないので、一度前方へ目を向けた時、気持ちを落ち着けようと息を整えたものの、不機嫌な感情が滲み出てしまっていた。が、兎に角俺は彼女の方へ振り向いた。
「何だ?」
「何だ?……じゃないですわ。少し落ち着いて下さい。皆怖がっていますわ。」
「…………?」
俺は思わず車内を見回した。玉緒の言う通り、確かに女性陣3人が三者共怯えたような表情をしながら、雰囲気的に遠巻きに見るように俺へ向かって冷めた視線を向けている事に今更ながら気が付いた。そして他人の視線を意識しだした途端、何故か俺は猛烈に心苦しくなり、己の所作が非常に恥ずかしいものに思えてきた。
だが、一度言い出した物を今になって引っ込めるのは、それはそれでみっともない。
どうしたものか、と暫し思案していると、またもや玉緒が、
「人目もありますし、勉強料だと思って払って上げれば宜しいじゃありませんか。」
と助け舟を出してくれた。
「分かった……。まあ、気に食わないが、千Gで、こんな糞な店もあるのだ、と社会勉強が出来るなら、それはそれで良とするか……。」
俺は半ば投げ遣りにそう言うと、改めて店員の男と向き合って左手首の機械を押し付けた。
「分かった。払うよ。払えば良いんだろ?ほい、2千4百Gだ!持って行け、泥棒め!」
「はい、確かに戴きましたよ。またのお越しをお待ちしています。」
「もう二度と来るか!」
俺はパワーウインドウのスイッチに手を掛けて窓を全閉すると、発車措置をしてアクセルを全開にした。レパードは車体後部に思い切り車重を移しつつ後輪をスピンさせ、爆発したかのように白煙を立てて大きなスキール音を上げながら勢い良く前へとびだして行った。
その後、荒涼とした平原が続く可瑠盤地方へ車は入って行く。思わぬトラブルの所為で予定より到着が大分遅れてしまったが、このまま行けば夕方頃までには何とか着けるだろう。
今まさにSAから本線へ合流しようとしていたその刹那、たまたま目に入ったインパネのデジタル時計を見て、俺はそんな事をぼんやりと考えた。