第一話:ゲームの世界に来てしまった……
>>新太郎
目が覚めたら知らない天井がそこにあった。
いや、正確には知らない場所どころか、ある意味で物凄くよく知っている部屋の天井なのだが、生身なら到底辿り着けない筈のその部屋にいる意味が理解できず、
「どうして……?」
と俺は唯々阿呆の様に呆然としながら呟いた。
だって、もし目の前の事が夢ではなく現実であるとしたら、つまるところ俺はゲームの世界に入り込んでしまった……という事になるからである。
そもそもの始まりは、ここ暫く遠のいていたオンラインゲームを、暇だからという理由でPCのHDDに入っていたそのゲームのソフトを起動させた時だった。3ヶ月振りに動かした所為だろう。大量のアップデート情報を読み込むのに1時間近くも待たせられた挙句やっとログイン画面に入ったと思ったら、突然ウインドウモードがフルスクリーンモードに切り替わり、モニター全体が真っ白になってストロボの如く目が眩むばかりに輝き出し、あまりに極端に高い光度のお陰で昏倒し、気が付いたら本来俺のアバターが出現する筈の、ゲーム内でプレーヤーに宛がわれているワンルームアパートの部屋を模した仮想空間に、生身の人間である俺がどういう訳だか出現してしまっていた。やはり意味が分からない。
俺がやろうとしていたゲームは、もはやゲームというよりは総括的なSNSでの仮想空間と称した方が差し障りのない、自分の分身であるアバターを用いたプレーヤー同士が同じゲームの世界で疑似的な社会生活を送りつつゲームも行うという、所謂シミュレーションゲームと各種MMORPGやFPSを一緒くたにして無理矢理一つの世界のゲームとして集約して糞ゲーに成り果ててしまった物であり。そのあまりのカオスぶりに、あれ程はまっていたのにも関わらず一度は見切りを付けてしまったゲームである。
元々オリジナリティーが乏しいというか、もう既に他社で制作・運営されていてそれなりに人気があるようなゲームと似た様な物を次々とラインナップに入れ、決して大きな会社でも無いのに大規模な多人数参加型のオンラインゲームを10本近くも抱えて運営している時点で不安要素は十分にあった訳だが、二番煎じとは言えオリジナルに負けない位華麗なグラフィック、そこまで高性能じゃないラップトップ式のPCでもサクサクと軽快に動く軽さ、それにも拘らず充実して使いやすいシステムと俺の様なソロプレーヤーにも優しい仕様である点で俺はこれらのゲームを評価していたし、実際ゲームによってバラつきがあったものの、それなりの数のプレーヤーが集っている様に見受けられていた。
俺がやっていたのは、アバターを用いて割り当てられたプライベート空間で自分好みに作成した女キャラ、PPCと略称されるプレーヤーズパートナーキャラクターとの疑似恋愛や、仮想空間に作られた街で他のプレーヤーとも交流できるソーシャルコミュニケーションゲームと、実写さながらの繊細なグラフィックが圧巻な、東京の様な都市高速が縦横無尽に広がる大きな街を舞台にしたカーレース風MMORPGの2つのゲームだった。特に後者はゲームの基本シナリオを全て終了してある一定のレベル以上になると、運営から『タクシー事業用試験』というクエストを受ける権利がプレーヤーに付与され、実技とペーパーテストで構成されるそのクエストを完了すると今度は『二種免許所持者』という称号が与えられ、その状態で幾つかあるタクシー事業者用のギルドの一つに加入すると、自分が持っている車をギルドが指定する範囲でタクシー車両に改造し、NPC相手に個人タクシーを運営してゲーム内通貨と経験値が得られ、また同じようにトラックを使った運輸業を始める事も出来る面白いシステムや、車のグラフィックの基本情報を全て公開し、必要であればラインナップに無い自動車でもユーザーが勝手に作成して、ゲーム内通貨をやり取りする事で他のプレーヤーにも譲渡する事が出来、そうした車を製造して売買する車屋と呼ばれるプレーヤーや、同様に自分で勝手にエアロパーツやステッカーを拵えて売るショップと呼ばれるプレーヤーが彼方此方に跋扈しているという自由度の高さから、廃人とまではいかないまでも、その一歩手前辺りに至る位俺はのめり込んでいた。
ところがやはり経営的には厳しかったのだろう。そうかと言って既に多くのユーザーから課金されているゲームを終了してそれらのデータを消しさるというのも忍びなかったのか、多すぎるゲームを減らす為にこの運営が取った方法は、複数のゲームを纏めて一つのゲームにするという前代未聞な方法だった。
まず、俺がやっていたレースゲームとソーシャルゲームが統合された。ところがこの2つのゲームはどちらも現代日本の都市や町を舞台にしている物だったので、人は車道を歩けなくなったとか、車は信号などの交通ルールを守らなくてはいけなくなったとか、そういう事を除けば大した混乱はなく、シミュレーションの方に車というアイテムが加算されたと思えばどうって事なく感じる程度の物だった。
次に戦争物の自称本格派FPSなる物がこれに併合されたが、確かに平和な日常風景に戦闘ヘリや戦車や武装した兵士に幾許か違和感を覚えたものの、そういう近代兵器も現実世界に存在している物である以上、FPS側は判らないが少なくとも此方にとっては、取り立てて文句を言いたくなるような物ではなかった。
誰が得するんだよ!と、言いたくなる位事態が悪化したのは、その頃その会社が制作運営していたゲームの中で最も人気があり、頭一つどころか他のゲームと比べて10倍近くもプレーヤーが多かった、中世ヨーロッパとその周辺を舞台にしている、所謂剣と魔法のファンタジーと一般的に呼称されるような代物に、新ステージとして我々のゲームが統合されてしまった時だった。
戦闘機や迷彩服の兵士までは許容できたが、流石に街中に突然恐竜最盛期の時の首長竜の様な大きなモンスターが現れて大勢のハンター達と戦闘を繰り広げた挙句、それが決着するまでの間ずっと通行止めで足止めを食らった時は、普段は仏の様に優しいと他人から言われる俺ですら堪忍袋の緒が切れそうになったし、しかもこれまた良く分からん理由で街中のNCPが殆ど居なくなって、タクシーでフィールドを何周も回っても一銭にもならない様な体たらくになってしまったので、俺はこのゲームから手を引いた。恐らく俺以外にも相当数のユーザーが、退会まではしないにせよ、引退してしまったのではないかと思う。それ位酷い様相を呈していた。
じゃあ3ヶ月ぶりとはいえ、何でお前はそんな糞ゲーを再び始めようと思ったのだ?と問われると返答に窮するものがあるが、既に冒頭で述べたようにその時の俺に恐ろしい程やる事が何も無く、暇を持て余してしょうがなかったから気晴らしに遊んでみようか、と変な気まぐれを起こしてみた、ただそれだけの事である。
さて、何が何だか判らない内にゲームの世界に来てしまったみたいだが、兎に角これからの身の振り方を考えよう、と思った俺は部屋の傍に置かれた薄い青色のベッドカバーが掛けられたベッドから上半身だけを起こして辺りを見回した。
俺から見て直ぐ左側にある壁際に備え付けられたベッドの傍、右の方へ顔を向けた途端大きく視界に入った全身用の姿見で確認すると、このゲームで遊んでいる時には見慣れた姿……俺の作成した俺自身のアバターの姿が目に入った。
自分の腕や腹、足等を改めてよく見てみると、今し方まで着ていた筈の普段着ではなく、今鏡の中に映っているアバターと同じ装いを自分が身に付けている事に俺は気が付いた。念には念を入れて、試しに右手を肩の上まで上げてみると、俺の動きにシンクロするように鏡の向こうのアバターも左手を上げた。どうやら俺はアバターの姿でこの世界に取り込まれたらしい。
左の手首に視線を落とすと、普段している腕時計の代わりに、G-ショックの様な厳ついデジタルの腕時計を更にハイテクニカルにカスタマイズした感じがする、黒いウォッチ型の何かのデバイスが、本体と同じような色の黒いゴム製のリストバンドによって俺の手首に嵌め込まれていた。何なのか無性に気になって紺碧の色をした小さな3cm平米もないであろう小さなタッチパネルに手を触れてみると、突然パネルが青く光り輝いて、空中に蒼白いスクリーンの様な半透明の画像を立体的に映し出した。
突然こんな小さな3D立体投影機というとんでもない代物を目の当たりにして面食らったが、ここはゲームの世界で、造られた偽りの世界である事を思い出して、そうか…こういう演出なのか、と俺は妙に感心してしまった。
手元の機械から投影された3インチ程度の横長のスクリーンを興味津々に覗いてみると、白く輝くとても小さな文字で次の様に書いてあった。
『プレーヤー名:Shintaro
総合レベル:53
ドライバーレベル:82
所持ライセンス:A級ライセンス・第二種免許・タクシー乗務員総合労働組合会員証・個人タクシー協同協会認定営業許可証(仮)
職業:個人タクシー事業主
所属ギルド:個人タクシー事業者連合
営業所拠点:初奈島第1地区34番アパート0345号個人・高津タクシー営業所
営業域:全域
現有資産:3,504,560G
※備考:保有RCを枚数×1,000でゲーム内通貨に統合』
どうやら現時点における俺のスペックらしい。ざっと一見した時に150万程度しかなかった筈のゲーム内通貨が一気に増えている事に気が付いて驚いたが、単に所持していた2千円程のリアルマネー分が加算されただけだと判るや否や、糠歓びしかけていただけに俺のテンションは一気に下がってしまった。
まあ、それは置いといて俺のスペックを再確認しよう。どうやら俺はまだギルドと業界団体に所属していて、今いるこの部屋を営業所にして今直ぐにでも個人タクシーを再開出来る身分であるらしい。尤も、あくまで客が居れば……の話だが…………。ただ、一つ気になる事があるのだが、この営業許可証に付いている『(仮)』のマークは一体何なのだろう?俺の記憶が間違っていなければ、大分前からウチは正式に営業許可を受けてタクシーを営業していた筈である。別に更新期限がある訳でもなし、タクシー乗務員総合労働組合や個人タクシー協同協会といった業界団体への会費や所属しているギルドへの定期献金は、手持ちのゲーム内通貨から月毎に自動で引き落とされている筈だから何も問題も無い筈だ。
何処となく嫌な予感がしたが、他の機能も確かめる為に、俺はこの小さいながらも凄い性能を持つ機械を色々と弄ってみた。
ここで一つはっきりした事がある。どうやらこの機械には空中に光り輝く半透明なスクリーンを映し出す機能以外に特にギミックは無く、そのスクリーンに投影される情報も、スペック表やアイテム一覧といった、普段画面の隅でよく見たり出したりするウインドウのそれと同じ物である。ただしエモーション画面とチャット画面、そしてログアウトの表示画面がどれだけ探しても見つからなかった。
チャット画面やエモーション画面などはいい。必要があるなら自分の口で言葉を交わせば良いのだし、今なら態々画面を操作しなくても自由に体を動かせる事が出来る。VR化に関して余分だと思われる機能は全部削ぎ落としたのだろう。
しかしちょっと待て。どうしてゲームを中断して退場するという、ゲームとして大切な機能までもが消失してしまっているのだ?今日はまだいいが明日からは普通に大学の方へ出掛けなければならないし、そもそもトイレに立ちたくなったり空腹で食事が摂りたくなったり、何らかの緊急事態が発生した場合にはどうすればいいのだろうか?ひょっとしてこの部屋の何処かにそのための仕掛け等が用意されていたりするのだろうか?そう疑問に思いながらも俺はベッドから起きて床一面に敷き詰められた薄桃色の羊毛の毛織物の絨毯の上に立ち上がると、しげしげと辺りを見渡した。
背後の壁には先ほどのベッドが、すぐ右側には例の鏡と窓があり、小さなベランダを通じて外の青い空の光りが部屋の中に燦々と降り注ぎ。眼下の方、少し離れた所に緑の丘と白い砂浜の間に灰色の舗装道路が走っており、砂浜の向こうに所々に白い波を輝かせながら空の青い光を反射して紺碧の深い光を満遍なく湛えた広大な海が横たわっている様が良く見渡せた。今までは部屋の中の様子を見る事は出来たが窓の外の景色までは見る事が出来なかった事もあり、眼前に広がる光景を目の当たりにして、俺は感動のあまり声を発する事すら忘れて思わず見入ってしまった。
我に帰って自分の左側を見渡すと、ベッドの傍にこの部屋の中で唯一外界へ通じるドアがあり、その隣に色んなアイテムを収納する事が出来るクローゼットがあるのが見えた。ベッドと反対側の方の壁には窓の方から順に木製の本棚と20インチ位の薄型テレビが置かれたラックが並べて備え付けてあり、そのテレビとクローゼットの間に茶色くて丸い卓袱台が置かれていて、どういう訳か先刻ゲームを起動させる為に使っていた自分のノートPCが閉じられた状態で置かれていた。
そして更に不可思議な事に、その卓袱台にはPCの他にも煎餅が盛りつけられた今まで見た事もない漆器の菓子皿が置かれており、その煎餅を手にとってムシャムシャと食べながら此方に背を向けて正面のテレビの画面に映し出されている映像を夢中になって見入っている、背中まで掛る濃い亜麻色のストレートのロングヘアーで、胸が大きく出るところは出ているが引っ込む処は引っ込んだスタイルが良い、黄色いミニスカートと黒いパンストを穿いて白いシャツの上に桃色のガーディガンを羽織った女…俺のPPCである玉緒が座っていた。
その玉緒の何処か造られたキャラクターとは一線を画した、何とも人間臭い仕草を奇異に思いながらじっと観察していると、俺の視線に気が付いたのか不意に玉緒が此方の方へ振り向いた。
「あら、お帰りなさい、あなた。いつ帰っていらしたの?居るなら居るで、声を掛けてくれたら宜しかったのに……。」
まるで帰宅した夫に面倒ながらも応対する古女房のような玉緒の言動に、俺は内心仰天していた。少なくとも俺が最後にプレーしていた時は、玉緒はコマンドで決められた杓子定規な対応しか取る事が出来ないヴァーチャルな造形を与えられたロボットプログラムに過ぎなかったし、イレギュラーというか、本来コマンドで指定されていないような状況にも随時対応できるような賢さも学習機能も殆ど備えておらず、こんな人間臭い態度が取れる様な娘では到底無かった。
俺は何も答えずにじっと玉緒の顔を見据えてゆっくりと彼女に近づくと、不思議そうに俺の顔を眺めている彼女の二の腕にそっと手を掛けた。柔らかく、そして暖かかった。間違いない、玉緒の体の感触は生身の人間のそれと全く同じ物だった。とてつもない衝撃が頭の中に降り注ぐのを虚ろに感じながら、
「玉緒……お前……人間なのか?」
と尋ねると、数瞬の間呆けた様に俺の瞳を覗き込んだ後、何がおかしいのか判らないが玉緒は唐突に腹を押さえてケラケラと大声を上げて笑い出し、
「もう…嫌だわ、あなたったら……。わたしもあなたも人間に決まって居るでしょう?もうお昼も大分過ぎているんだから、寝惚けていないでシャキッとして下さいな。」
と、まるで俺の方が阿呆か何かの様に茶化しながら彼女は俺の背中をバシバシと叩いてきた。その生きている人間の物だとしか考えられない位生々しい温もりの余韻を背中に引き摺りつつも、やはり目の前の事象が信じきる事が出来ず、半信半疑のまま俺は今現在の暫定的な自分の立場を頭の中で整理しようと試みていた。
玉緒の俺に対する態度を鑑みるに、どうやらこの世界では俺と玉緒は夫婦という設定らしい。でもって、ただのPPCという俺専用の人形だった筈の玉緒は生身の人間となり、それ相応の身体と人格を得て俺の前に現れ、更に彼女から見たら俺は久々に家へ戻って来た旦那という訳だ。
何と言うか……、まるで子供の頃に近所に住んでいた女友達とよく遊んだおままごとでもやっている気分だな……、と思いながら俺は右手を後頭部へ回して髪を掻いた。別に俺自身は嫁も彼女も居ない独り者なので、こういうシチュエーションを悪い物だとは思わないが、まるで自分のテリトリーに他人が居座っている様な気がして妙に落ち着かなかった。
でもまあ、そう言っても仕方がない。その内嫌でも馴れるだろう……。そんな事を考えて覚悟を決めていると、急に玉緒が俺の方へ振り向き、
「そう言えばあなた。あなたの留守中にギルドの方から何か書留が届いていましたのですけれど……。」
と声を掛け、如何にも書類や薄い書籍が入って居そうな大きなA3サイズの青い封筒を俺の足元に放り投げてきた。
パタンッと飛び込んできたそれを屈んで拾い上げると、俺は少々乱暴に糊が貼られたフラップの部分をビリビリと破り開け、中に入っていた書類群を纏めて抜き出して卓袱台の隅にドカッと置き、中身を確かめ始めた。
手始めに一番上に置いてあった1枚だけの白いA4サイズの紙に印刷された文書を手に取ると、俺は書いている内容に目を通し始めた。
『――個人タクシー事業者連合ギルドマスターから、所属する全ての職員・団員へ通達する大切なお知らせ――
4月を迎え新年度となり、暖かくなると同時に各営業所及び支部の諸氏の闘志も新たなる季節に向けて一念発起し、益々盛んになっているところだと思われます。
さて、去る3月13日の『リライフ』のアップデートから現在に至るまで、本ゲームにログインしたプレーヤーが全員がゲーム内の世界に取り込まれるという、異常な事態が発生しています。諸君がこの書面に目を通して居るという事は、恐らくアップグレード後にアクセスして転送された、という事でしょう。現実世界へ戻る手段を試行錯誤されている方も勿論居られると存じますが、運営に問い合わせたところ、今現在までその手段は無いし付ける気も一切無いとの事です。諦めて下さい。
また、運営の説明によると、今回の騒動はアップグレード時のパッチのプログラムに組み込んだ魔法陣の魔法(意味不明、詳細な説明無し)が発動した事で各PCから直接的にプレーヤーが具現化したゲーム世界に転生した事によって発生したとの事です。
更に運営によると、プレーヤーはゲーム内の通貨を各個人の間でやり取りする事で、自由に経済活動を行って永続的に当ゲーム内で日常生活を営む事が出来、食事も排泄もゲーム内で済ましても問題ないとの事です。
ただし、現実世界におけるプレーヤー不在時についての社会的な保障の有無は不明です。恐らく無い物と仮定して各人対応して下さる様お願い致します。
次に、当ギルドに所属する各事業所の事業主(タクシー運転手)の皆様へ。
今までと違い、生身の人間がゲーム内を行き来する事で、ゲーム世界内で事故が続発し、秩序が保てなくなる可能性があります。
そこで、運営によってこの度自動車の走行における交通法規規定が定められ、この規則に準じた試験によって取得できる免許証を交付された者に限り、公道上を自動車で走行する事が出来るようになりました。
その為、協会も営業許可規定を改定し、今までの基準に第一種運転免許証の取得を加えた新しい規則へ移行しました。よって各事業主には至急各地の運転試験場にて第一種免許の交付を受ける事をお願いします。これを無視して無免許運転で営業した場合、最悪営業許可証を永久に剥奪され、ギルドから破門宣告を受ける場合が御座います。
なお、現在第一種免許を取得されて居られない場合、ステータス画面のライセンス条項における営業許可証の所に(仮)の印が付加されています。お確かめ下さい。
なお、各地の運転免許試験場の位置や試験の内容については同封した冊子でご確認下さい。』
そうか、戻りたくても戻れないのか……、というのがこの文章を読んだ時の俺の最初の感想だった。と同時に、大変な事態が我が身に起こっているにも関わらず何故か安堵している自分が居る事に俺は気が付いた。ひょっとしたら、少なくとも2ヶ月近く前の3月中旬から既に同じような境遇に居る人がかなりの数居るらしい事を察した時点で、もう俺はここを自分の居場所とする事を受け入れていたのかも知れない。それ位俺の心は平静を保っていた。
次に引っ掛かったのは、運転免許を取らなければ営業許可が貰えない、という事実を知った事だった。さっきステータス画面に出て来た(仮)の意味が判明して一応納得はしたものの、既に現実世界で免許証を所持している身としては面倒臭いと思った。
だが、営業する事が出来なければ一銭の収入も得られないのだ。俺と玉緒……高津家の生活を守る為には商売道具を使う事が出来なければお話にもならない。是が非でも第一種免許とやらを取って一日でも早く個人タクシーの営業を再開しなければ!
運転免許を取る手順や試験の内容を知る為に、俺はさっき読んだプリントの下に積み置かれている『交通安全の手引き~道路交通法・運転試験要項~』と銘打たれた、色々な色や形をした自動車が沢山走り回る街中をパステル調で描いた絵を表紙にした薄手のB5判の冊子を手に取るとその本のページを開いた。
早い話、その本に書いてある事は、道路交通法で規定されている事項をドライバーに周知徹底する為に巷の自動車教習所や運転試験場で講習や更新の度に配られる教則本や教科書と丸きし同じ物だった。些細な違いがあるとすれば、
『同じ幅員の道路同士の交差では、先に交差点に到達した方が優先である。』
とするアメリカ合衆国の交通ルール等、他国のルールであって日本のルールでは無い物が幾つか混じっている程度だった。
この冊子によると、運転試験場での試験は毎日行われていて、試験はマークシート式の筆記試験と、実際に試験場内のコースとその周辺道路を助手席に試験官を乗せた状態で車を運転する実技試験をし、簡単な適性検査と書類審査を受ければその日の内に免許証が交付されて車を運転出来るようになるらしい。しかも、今自分が居る初奈島という島の北側にも一応運転試験場が存在するという事だそうだ。じゃあ、善は急げ!で早速出掛けようかと思ったが、
『受付時間
平日(月~金)午前8:30~午前10:30 試験開始時間午前11:00
午後12:00~午後2:00 試験開始時間午後2:30
土・日・祝日 午前9:00~午前11:00 試験開始時間午前11:30
受付時間が終了してからの受付は一切応じて居りません。きちんと時間を守った上でお越し下さい。』
と明記されている事に気が付いて、思わず左手首に付けた機械が投影するスクリーンを見て今現在の時刻を確かめた。
『16:27』
時計のデジタル表示を一瞥した途端、何故か急に体中の力が抜け落ちた気がして、俺はその場でへたり込む様に胡坐をかき、玉緒と並んでボーっとしながら何も考えずにひたすらテレビの画面を注視した。そうして、今日はもう終わったから明日…金曜日に朝一で出掛けるか……と、そんな事を考えた。
テレビを見ても特に面白いとも思えなかったし、玉緒の方は相変わらずテレビの方に釘付けで話し相手になりそうにはなかったので、仕方なく俺は先程の書類や冊子と一緒に封筒に同封されていた、ギルドに所属するに当たって決められているルールが書かれた真新しい薄群青色の会則本を手に取るとパラパラと流し読む様にページを捲っていった。
特に変わった事も無く、表紙の色がモスグリーンから変わった事以外は、表紙も薄手の紙で造られた安っぽくて薄っぺらなA3判の書籍という位の感想しか抱かなかったが、車両規定の所まで来た時に、そのページにだけ二重丸の中に『重要』とボールペンの赤インキで書かれたオレンジ色のポストイットが張り付けられている事に気が付いた。どうやらその部分だけ新しく書き換えられている様だった。
『第3章:車両の規定
第35条:当ギルドに所属する個人タクシー事業者は、以下に定める基準に則した自動車以外で個人タクシーを営業してはならない。
1.車体色は白・黒・銀・青及びこれらに近しい色。
2.乗務員席も含めて最低3つのシートを有し、且つ運転席・助手席へ通じる2枚の前扉以外に、車両左側に少なくとも1枚以上後席へ通じる独立した、それ自身が自由に開閉出来る扉を設けた車。
3.日本国が定める車両法や道交法が許可する範囲で改造等が施された車両(ノーマル車の場合もこれに含む)。
4.使用する車両のメーカーは特に問わない。
第36条:当ギルドに所属する個人タクシー事業者において、例え上記基準に則した車両であったとしても、軽自動車を営業車として使用する事は認められない。』
古い方にはシートの数までは規定されていなかったから、ここだけ気を付けなければならないが、ウチで使っている車両は全部3ナンバーの4ドアセダンだからこの基準に抵触する心配は無い筈である。
しかしまあ、何と言うか……。何時見ても緩いなあ、と思わざるを得ない車両規定である。
例えば第35条の第1項。車体色がこれだけ自由に選べる個人タクシー事業者ギルドはウチ位のものである。都営協の規定に順守したカタツムリ型の行燈を採用する『個人タクシー事業者連盟』は特定の白色以外は認めず、ギルドカラーである赤く縁取られた青いラインを車体のサイドと、ボンネット・ルーフ・トランクリッドやバックドアの左側に計3本引く事を強要するし、一応ウチと同じ提灯型の行燈を使っている『タクシー事業者同盟』の指定色はアイスランドグリーン1色だけである。他にも黄色い車体以外は認めない『YCA(Yellow Cab Association)』とか、空色一択の小規模な地方のギルド等、大なり小なり大抵のグループが単一、または精々2色の色で揃える事を強制してくる事と比べて見れば、如何に連合の車体色の選択が幅広い事が良く分かる。この基準で行くと俺の車の様なシルバーメタリックは固より、ホワイトパールやガンメタリックやピアノブラック等、他のタクシーギルドや団体なら絶対に撥ねられるような車体色の車でもタクシー車両として自由に採用する事が出来る。
次に同第2項。尤もらしく書いてはあるが、基本的に運転席と助手席と後部座席があって車体の左側に2枚以上のドアが付いている車なら何でもありである。
例えば当然俺が乗り回している4枚ドアの高級セダンは余裕でこの基準をクリアするし、勿論5ドアのステーションワゴンやミニバンだって該当するし、左側にしかスライドドアが付いていないハイエース等のライトバンやパジェロの様なSUVだって使う事が許される。他の団体では大概セダンとステーションワゴンとミニバン以外の使用を認めていない事を考えれば、これも如何に選択肢の幅が広いかという事が良く理解できる。
しかし、自由だといっても左ハンドルのライトバンの一部の様に後部座席へのスライドドアが右側にしか付いていない車両や2ドア・3ドアクーペの車は勿論使用する事が出来ないし、マツダのRX-8の様に、4ドアの車であっても使用する事が禁じられているケースも存在するので一概にそうだとも言えないが……。(RX-8の様なタイプの開放的な観音開き仕様の車の後ろ扉は前扉を開けない限り開く事が出来ない。また、観音開きにした状態で前扉を先に閉めると後ろ扉を閉じる事が出来ず、必ず後ろ扉→前扉の順で閉めなければならない為、『後席へ通じる独立した、それ自身が自由に開閉する事が出来る扉を設けた車』という規定に引っ掛かる。またこの手の車は後ろ扉にセンターピラーを内蔵し、後ろ扉に付いたピラーに前席乗員の為のシートベルトが装備されている事が多い為、実用面の事を考えると、やはりタクシーとして使う事は難しい。)
そして第3項。この規定の有る無しの差が、他ではなくこのギルドへ加入する事を決めた俺の決定的な理由である。
合法的な範囲であれば車をチューンアップしたりドレスアップしたりする事が許される。他の多くの団体では改造車は異端扱いか禁じられている(連盟に至っては後部の窓ガラスにプライバシーガラスを使用する事すら禁止している)事を慮れば、この差は十分大きい。
最後に第4項の『メーカーは特に問わない』!国内外を問わず様々なメーカーの中から好きな車を自分の営業車として使用する事が出来る。この項目も他のギルドとは大きく違う所だと思う。ニューヨークを走るイエローキャブをリスペクトしている『YCA』のように、アメ車やマツダの車も使用可能な所もあるにはあるが、大抵トヨタ車か日産車の中から選ばされ、中々ホンダやスバル等の車を使う事が出来ない場合が多いから、事業主からすれば、やはり色々な車を自由に選べる事に於いて『連合』を所属団体として選択する事は余りあるメリットがあるのだ。だからだろう、連合に加入している個人タクシードライバーは全体の約半数にも上っている。
ただしデメリットもある。基本的に『連合』は他と違って各事業者の営業区域を指定していないので各々自由に走り回る事が出来るのは結構な事なのだが、その時客の一番近くにいる空車に早い者勝ちで配車されてしまうので、加入人数が一番多い分同じグループ内で客の奪い合いが至る所で日常茶飯事に発生し、弱肉強食の呈を成して弱小ドライバーは食っていけず、しばしば他団体へ移籍してしまう事も多くある。
まあ、そうであったにせよ。配車業務なりでドライバーをサポートする職員は皆良い子達だし、今回の様に頼んでもいないのに異常事態の発生に対して運営に問い合わせてくれる等、事業主に対するアフターケアも充実しているので、俺自身は当分移籍せずに頑張る心算だ。
何はともあれ明日に向けて今日はもう寝よう。そう思った俺は立ち上がると、そのままベッドの上に倒れ伏そうとした。が、
「あ、あなた待って!」
と叫ぶ玉緒の金切り声を聞いて慌てて起き上がり、彼女の方へ振り向いた。
「もう寝るんですか?だったら今お風呂の準備を致しますから少し待っていて下さいな。」
そう言うと、彼女はこの部屋の唯一の出入り口であるドアを開けて外へ出て行った。
待っていても良かったが、この部屋の外の様子がどうなっているのか無性に気になったので、俺は玉緒の後を追い掛けて部屋の外に出た。
そこは白々しく明るい色のフローリングが敷き詰められた、ワンルームのアパートでは良く見かける小さなキッチンだった。左手に小さなステンレス製のシンクと電磁コンロを備えたシステムキッチンがあり、その前には白いフカフカしたタオル地の敷物が水気からフローリングを守る為に敷かれ、反対側の壁には扉が2枚並んでおり、開けてみると手前に洋式のトイレ、奥の扉に脱衣所とそこから続く浴室があるのが見て取れた。
さらに奥の壁にも扉があるのが見えたので開けて中を覗いてみると、靴箱が付いた小さな玄関があった。靴箱の上には何故か『ガレージ:B3階C-15』と書かれた薄黄緑色のメモ帳の紙片がセロテープで張り付けられていた。恐らく俺の車が置かれているガレージの場所をメモしたものだろう。もしかしたら、俺が迷う事が無いように玉緒が貼ってくれたのかも知れない。
俺は玉緒の心遣いに感謝しつつ、風呂に入る準備をし始めた。