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声聞こえるー        :約3000文字 :電車

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/08/26

『ただいま安全確認のため、列車が急停車しております。お客様にはご不便をおかけしておりますが、確認が終わるまでそのままお待ちください』


 おれは小さく息を吐いた。ほぼ同時に、車内のあちこちから落胆混じりのため息が漏れ、舌打ちまで重なった。

 夜の電車内は相変わらず満員だった。汗や整髪料、香水の匂いが入り混じる空気の中、乗客たちは電車の揺れに合わせてひしめいていた。

 毎日これだけ混み合うとわかっていながら、どうして運営会社は何の対策も打たないのか。増便するとか車両を増やすとか、やりようはいくらでもあるだろう。運賃だけはしっかり値上げしやがって。客を舐めているのか――おれは人に挟まれながら、そんなことをぼんやり考えていた。

 そのときだった。電車が突然大きく揺れ、おれは思わずひゅっと息を漏らした。咄嗟に吊革に引っ掛けていた指先に力を込め、両足で踏ん張った。だが、その必要はなかったかもしれない。前後左右を人でびっしりと囲まれており、倒れるどころか身動き一つ取れないほどだった。

 ああ、まったく最悪の混雑具合だ。その上、急停止だと。どこかの馬鹿が線路に飛び込んだのか。クソが。地獄へ落ちろ。

 ……いや、それだと復旧まで時間がかかるぞ。冗談じゃない。ただでさえ息が詰まりそうなんだ。頼むから、ただの誤作動か何かであってくれ……。


 ――クソが。

 ――ほんと最悪。

 ――なんなんだよ。


 ……え?


 ――だりー。

 ――危なかった。

 ――この女、髪くせえ。


 な、なんだ、これは……?

 おれは思わず目を瞬かせた。


 ――いてー……。

 ――いつ動くんだよ

 ――早く帰りてえ。


 突然、頭の中で声が聞こえ始めた。誰かが実際に喋っているわけではない。耳から入ってくるのではなく、頭の内側に直接響いているような奇妙な感覚だった。

 これはいったい……まさか、テレパシーというやつか?


 ――さっさと動けよ。

 ――この女、えっろ。

 ――腹が痛くなってきた……。

 ――窓が開いてるな。

 ――あちー。


 いったいなぜ急にこんなことが……。おそらく、この状況と関係があるのだろうが……。ストレスか? ストレスが限界まで高まった反動で、脳のどこかが覚醒した……? いや、そんな馬鹿な……。


 ――明日も早いってのによ。

 ――久々に飲み行きてーな。

 ――触りてー。

 ――あとで部長にメール送らないと。

 ――今日のワークフロー、ボトルネックが完全にヒューマンリソース側に寄ってたな。

 ――次の宿は……。

 ――転職してー。


 だが、現にこうして聞こえている以上、認めるしかない。問題は、おれの頭がおかしくなった可能性もあるということだ。

 本当に周囲の人間の思考を読み取っているのか、それとも単なる幻聴なのか。確かめたいところだが、この混雑では難しい。首を動かすことすらままならず、誰かの顔を見ようにも視界の大半が目の前の人間の背中で塞がれていた。


 ――早くしろ早くしろ早くしろ。

 ――揉みてー。

 ――ああ、クソ漏れそう。

 ――あれだ。

 ――あの子、可愛いー。

 ――ほんと最悪。


 声は次々と流れ込んでくる。老若男女の境目もどこか曖昧だった。若くも中年にも聞こえる。苛立っていたり、眠そうだったりと、調子も声量もばらばらだった。男女の区別くらいはつくものの、ほとんど同時に聞こえるため、一つの言葉を理解する前に別の言葉が重なり、意味を呑み込みづらい。まるで何台ものテレビを同時に点けて、それぞれ別の番組が流れているかのようだ。

 まあ、それはいい。どれもただ不満を垂れ流しているだけのようだ。見なくとも、皆一様に不機嫌な顔をしているのが目に浮かぶ。

 しかし、だからこそ幻聴との区別がつかない。車内の空気から勝手に人々の不満を想像し、それを頭の中で声として再生しているだけなのかもしれない。

 では、試しに何か叫んでみるか? 突然大声を出せば、頭の中の声も何か反応するはずだ。……いや、それでは意味がない。おれが勝手にその反応を想像しているだけかもしれない。本当にテレパシーなのか、それとも自分の妄想なのか、証明にはならない。


 ――何してんだよ。さっさと動かせよ。

 ――死ね死ね死ね。

 ――やりてー。

 ――屁だけ……屁だけ……。

 ――おっと。

 ――あっ、今、足踏んじゃったかも……。


 誰かに話しかけて、そいつが考えていることを目の前で言い当てられたら、はっきりするだろう。だが、この状況だ。突然話しかければ、変人扱いされるのは目に見えている。下手をすれば車内中の注目を集めてしまう。この声が一斉に自分への非難に変わるところを想像すると、背筋が少し冷えた。

 ……まあ、焦る必要はないか。駅を出たらコンビニにでも寄って、店員を相手に実験すればいい。

 しかし、それにしてもすごい、すごいぞ……。もし本当にテレパシーが使えるのなら、いくらでも利用のしようがある。相手の本音を読み取れるのだ。仕事でも人付き合いでも、これまでよりずっと物事を進めやすくなるに違いない。うまく使えば金儲けだってできるかもしれない。占い師やセミナーの講師……。


 ――まだか、まだか。

 ――胸でけー。

 ――ちょっと出たか……?

 ――なんかくせえな。

 ――くっさ!

 ――もうすぐだ。


 待てよ。テレパシーってことは、おれの声も他人に聞かせられるのだろうか。それもまた面白そうだ。もしこちらからも自由に送れるのなら、相手をうまく操ったりできるかもしれない。たとえば、神のふりでもして……。

 よし……もしもーし。誰か。誰か聞こえるか。ここだ、ここにいるぞ。お前の頭の中だ。私は神だ。さあ、服を脱ぎなさい……なーんてな。

 今のところ、こちらから送れている気配はないな。まあいい。聞こえるだけで十分だ。いや、むしろそっちのほうがいいかもしれない。変におれの心まで読まれたら困る。


 ――あつい……。

 ――早く動かせよ。殺すぞ。

 ――明日、学校休みてー。

 ――えろー。

 ――ああ、まただ。またきた。

 ――早く風呂入りてえ。

 ――まったく気づいていないようだ。

 ――音漏れうるせえな。


 さてさて、それでどう使おうか。……いや、待て。今だけしか使えないなんてことはないよな。この車内に充満した人々のストレスが限界を越え、そのせいで一時的に心の声が漏れ聞こえている、とか。もしそういう条件があるのなら、駅に着いた途端に使えなくなるかもしれない。


 ――動け動け動け。

 ――あの案件、結局どうなんだろ。

 ――触りてー。

 ――やっぱ無理。

 ――エロいな。

 ――さっき着信。折り返さないとな……。

 ――あともう少し。

 ――眠い。


 クソ。それなら今のうちに何かうまく利用できないか。……いいや、無理だ。まったく動けない。なんなんだ。混みすぎだろう。

 ああ、いったいどうなんだ。消えるのか消えないのか。本物なのか。早く試したい。早く動け。動いてくれ。あとどれくらいかかるんだ。やっぱり人身事故か?


 ――汗くせえ。

 ――暑い暑い暑い。

 ――いい加減にしろよ。

 ――たまんねー。

 ――もぞもぞするなよ。うぜえなクソチビが。

 ――席代われカス。

 ――耳から。

 ――もう限界だ。


 早く早く早く。早く確かめたい。ほら、動け。動け。


 ――あーだりい。

 ――でも、やっぱり彼女が一番だな。

 ――足いてえ。 

 ――ついた。

 ――終わる。  


 うお、お、お、お……? 


 ――暑い。吐きそう。

 ――彼女に会いてー。

 ――え、臭い。

 ――終わった。ははは、はははは!

 ――くさっ!


「え、くさっ!」

「くせえ……」

「マジかよ」

「ウオェ!」


 ――さてと……聞こえるかな。なんだかひどい騒ぎになっているようだが、まあいい。私は端的に言うと、宇宙生物だ。念波を飛ばして相性のいい宿主を見つけ、耳や鼻から体内に入り込むんだ。

 まだ操作に慣れていなくてね。前の宿主はさっきこの電車に轢かれて使い物にならなくなってしまった。それで、君の体に乗り換えさせてもらったというわけだ。

 ほら、こうして脳に根を張り――まあ、もう説明しなくても感覚でわかるだろう。

 え? ふふ、ははは。ああ、いいね。いい悲鳴だ。ああ、いい……。


『お待たせいたしました。安全確認が完了しましたので、まもなく列車は運転を再開いたします』

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