廃車両
天使形の残骸を背に、三人は歩き始めた。
最初の一時間は、誰も口を開かなかった。
ロピは下を向いて歩いた。包帯の端をときおり引っ張りながら、足元の瓦礫だけを見ていた。レーナはロピの少し前を歩き、周囲に目を配り続けた。何かに集中していないと、別のことを考えてしまうのかもしれなかった。
リオールは二人の後ろを歩きながら、センサーを全方位に展開し続けた。
ジレがいた場所が、遠くなった。
それだけだった。
拠点ブレンバルクまでの距離をリオールは計算した。徒歩では六日から八日かかる。現在の血液黒化度では、整備なしで戦闘を繰り返すことはできない。
二人の体力も限界がある。食料と水の確保も必要だ。
問題は多い。しかし最初の問題は、移動速度だった。
──
第137ゲットーから約二十グース。
地図上では隣接都市にあたるその場所に、かつてそれなりの規模の街があった痕跡があった。ゲットーより建物の密度が高く、大通りだったと思われる道の両側に、背の高い建造物の残骸が並んでいる。
アポストルたちが支配していた時代には、ある程度の人口が集まっていたのだろう。
しかし今は、誰もいない。ディヴォールもいない。エイコーンたちが殲滅したのだろう。
三人が廃ビル群の間を抜けていく途中、リオールは通りの端に止まったままの車を見つけた。
乗用車だった。
丸みを帯びた車体は、かつて鮮やかな色をしていたのだろうが、今は錆と埃に覆われて原形を留めていない。タイヤは四本とも無事だった。窓ガラスも割れていない。
ドアを引くと、金属の悲鳴のような音を上げながらも開いた。
ロピが首を傾けた。
「なんで街中にこんなものが?」
「娯楽用です」リオールは内部を確認しながら答えた。
「アポストルたちは魔法で高速移動ができました。馬より速く、疲れることもない。彼らにとって車両は必要な移動手段ではなく、乗ること自体を楽しむためのものでした」
「じゃあ遅いの?」
「速くはありません。徒歩の三、四倍程度でしょう。それでも、ないよりはずっとましです」
レーナが助手席を覗き込んだ。
「動くの、これ」
「燃料があれば......ですね」
リオールは運転席に乗り込み、内部を確認した。エンジンの構造を視覚センサーで走査する。断線はない。腐食も許容範囲内だ。問題は燃料タンクが空であることだけだった。
「魔法で燃料を生成できないの」ロピが聞いた。
「炭化水素の組成は把握しています。ナノマシンへの命令で再現できます。ただし血液の消費が──」
「どのくらい?」
「黒化度が五パーセント前後、上がります」
ロピとレーナが顔を見合わせた。
「黒化度って、さっきのやつ? 目が変な色になるやつ」
「はい。戦闘後に確認した数値が、すでに限界に近い状態です。本来であれば今すぐ整備が必要なレベルです」
「それ以上上げて、大丈夫なの」
「移動中は魔法を使いません。整備まで持ちます」
リオールは少しだけ間を置いてから付け加えた。
「それに、徒歩で六日かけるより、車で二日かけた方が、戦闘の回数が減ります。総合的に見れば、今ここで魔力を使う方が合理的です」
レーナが腕を組んだ。
「……分かった。やって」
リオールは右手を燃料タンクの給油口に向けた。魔法陣を小さく展開する。派手な光は出さない。ナノマシンへの命令を絞り込み、炭化水素の分子構造を組み上げていく。音もなく、煙もなく、ただタンクの内側に液体が満ちていく感触だけがあった。
血液黒化度が、じわりと上がった。
「九十九パーセント」
センサーが警告を出した。リオールはそれを確認して、魔法陣を閉じた。
「乗ってください」
ロピが助手席に滑り込んだ。レーナが後部座席に乗る。
エンジンをかけた。
くぐもった音が上がり、車体が震えた。排気管から黒い煙が少し吹き出して、それから落ち着いた。エンジン音は不規則で、お世辞にも快調とは言えない。しかし動いた。
車がゆっくりと動き出した。
廃道の凹凸を拾うたびに車体が大きく揺れた。速度はたしかに遅かった。走り慣れた人間ならば追いつけそうなほどだ。サスペンションはほぼ死んでおり、石一つ踏むたびに全員が跳ね上がった。
ロピが窓の外を見ながら言った。
「なんか、思ったより全然速くないな」
「娯楽用と言いました」
「でもアポストルたちはこれに乗って楽しかったのか」
「魔法で空を飛べる者が、あえて地面を走る乗り物に乗る。そこに価値を見出していたのだと思います」
ロピは少し考えてから、また言った。
「ジレさんも、リオールみたいな感じだったのかな。なんでもできるって感じ」
リオールは前を向いたまま答えた。
「ジレさんの方が、私よりずっと多くのことをできていたと思います」
ロピは何も言わなかった。
窓の外に、廃墟が続いていた。速度が遅い分、景色が変わるのに時間がかかった。崩れた建物が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
──
旅が始まって、二日目になった。




