天使
ゲットーを出て三十分も進まないうちに、ジレが足を止めた。
靴底が地面を踏む音が、止まった。それだけだった。しかしその止まり方が普通ではないと、リオールには分かった。
廃ビル群が続く通りの奥。瓦礫が積み重なった広場の手前。
それは、いた。
最初、リオールの認識がうまく追いつかなかった。人間の脳が持つ「見たことのない形のものを処理するまでのラグ」をリオールも持っているとは思っていなかったが──それに近い現象が起きた。センサーが示す形状情報と、視覚が捉えた実像が、一瞬整合しなかった。
翼だった。
天使の翼を、四枚。地面に引きずるほど大きく広げている。根元の間隔が広すぎて、背中があるべき場所が奇妙に歪んで見えた。四本の腕は関節が逆向きに折れ曲がり、異様に伸びた首の先には、骸骨に近い顔がある。むき出しの内臓が体表を覆い、弱い風でも内臓がゆらゆらと揺れた。全長は四メートルを超えていた。
ディヴォール。しかし通常の変異体ではない。
特異型だ。
ジレの声は、静かだった。
「……フォウを殺したやつだ」
バイクが止まった。ジレが降りて、前方を見据えたまま動かない。
リオールの後ろに乗っていたロピがリオールの背中から顔を出した。何がいるのか確認しようとして、その輪郭を見た瞬間、息を飲んで引っ込んだ。
ロピは小声で言った。「あの、ジレさん」
ジレは振り向かなかった。
「なんだ」
「あれ、知ってるんですか。フォウって、誰ですか」
少しの間があった。
ジレはタバコを口の端に挟んだまま、人差し指で魔法で火をつけた。煙が細く立ち上る。前方の天使形から目を離さないまま、短く答えた。
「前のバディだ。半年前にここで死んだ。.......あいつが殺した」
ロピが息を詰めた。レーナが小声で「……逃げた方がいいんじゃないの」と言った。
「逃げても追ってくる」ジレは煙を吐いた。「特異型はしつこい。一度獲物と認識したら、離さない」
「じゃあ、戦うしかないってこと」
「そういうことだ」
「手伝う。僕も──」
「伏せてろ」
ジレの声が、低く落ちた。振り返りもしなかった。ただ、それまでとは質の違う声だった。
「お前らは人間だ。あれには魔法しか通じない。足手まといになるだけだ」
「でも」
「伏せてろ」
ロピは口を閉じた。
リオールが引き取るように言った。
「ロピさん、レーナさん。バイクの影から離れないでください。何があっても、私かジレさんの指示があるまで動かないで」
レーナがロピの腕を引いた。ロピは渋々バイクの裏手にまわってふせた、隙間から前を見続けていた。
ジレはそれを確認もせず、すでに前を向いていた。
「リオール」
「はい」
「俺がやる」
その言葉の意味を、リオールはすぐには処理できなかった。しかし言葉よりも先に、ジレの体が変わったことを感じ取った。全身の駆動系が、切り替わった。戦闘時の緊張とは違う何か。もっと深い場所にある何かが、起動した。
「ジレさん、二人を後方に。作戦を立てます」
「俺がやる」
「単独は危険です。あの個体は──」
「俺がやるって言ってる」
ジレはすでに走り出していた。
ジレの着ているローブの裾が翻り、右腕を横に薙ぐような動作で、空中に魔法陣が六つ展開された。一つずつではない。ほぼ同時に。そこから生み出された鎖付きの剣が、宙に浮かぶ。六本の剣が、糸を張ったように静止していた。鎖の反対をジレが持つ。
細身の体が廃ビルの壁を踏み台にして跳躍する。高い。軌道が弧を描きながら、まず二本の剣を正面から投擲した。囮だ。
天使形のディヴォールは翼でそれを払った。
ジレはその瞬間を待っていた。
払った翼が広がりきった刹那、残り四本の鎖付き剣が扇状に射出された。弧を描くように飛んだ剣は、正面ではなく側面から回り込み──二本が右腕に、一本が翼の根元に突き刺さった。鎖がぴんと張る。固定された。
天使形が動きを止めた。
三本の鎖が、それぞれ別の方向へ張り渡されている。翼の根元を縫い止めた一本が特に効いていた。翼を動かすたびに鎖が食い込み、内臓がむき出しの体表に赤い筋が走る。
天使形の黄色い目が怒りに燃えた。しかしその動きが、初めて明確に制限されていた。
ジレが追撃に入った。
地面を低く蹴り、残り一本の剣を手に持って肉薄する。鎖で四肢を縫い止めながら、死角から斬り込む。それがジレの戦い方だった。細身の体が最小の動作で滑り込み、天使形の脇腹に刃を走らせた。黒い液体が飛散する。
天使形が吠えた。
声ではなかった。鳴き声でもなかった。構造物が崩れるような、低い震動が空気を揺らした。
しかしジレは止まらなかった。
もう一本の剣を魔法陣から生成し、鎖で制御しながら天使形の背後へ回り込ませた。剣が翼の根元をもう一箇所縫い止める。これで二本の翼が完全に固定された。魔法も封じられた。炎を束ねようにも、腕の自由が利かない。
「いける」
ロピがバイクの脇で息を飲むのが聞こえた。
確かにそう見えた。リオールの分析でも、この状況はジレ有利だった。翼を封じ、腕の動きを制限し、接近戦に持ち込んでいる。あとは剣を急所に通すだけだ。
ジレが踏み込んだ。
最後の一刺しに向けて、体重を乗せた突きを繰り出した。剣先が天使形の胸部、神の臓器があるはずの位置へ向かった──
そこで、天使形が動いた。
鎖を、切断しなかった。
逆に、体を回転させた。
軸を中心に、その巨体が垂直に回転した。翼の根元に刺さった鎖が、ねじれながら張力を倍加させた。一本目の鎖が限界に達して弾け飛ぶ。二本目が引きちぎれる。そしてジレの手元で三本の鎖がほぼ同時に逆向きの力を受けた。
ジレの体が、地面から引き離された。
宙を舞った。体勢が崩れる。着地できない。
リオールは魔法陣の展開を始めた。間に合えと思いながら、展開を急いだ。
その時。
天使形の右腕が、変形を始めた。
ゆっくりではなかった。一瞬だった。肘から先が細く収縮し、骨が折り畳まれる音がして、先端が尖った。筋と皮膚が引き伸ばされ、表面に血管が浮き上がり、それが凝固して──槍になった。
全長、三メートル近い。
空中のジレへ向けて、槍が伸びた。
ジレが空中で体を捻った。
当たらない──そう思った。槍の軌道を読んで、体を横に回転させた。軌道が外れた。槍が空を切る。
金属と骨に近い素材が干渉する、硬い音がした。
天使形の槍は、途中で角度を変えた。
関節のない腕が、途中で曲がった。ありえない角度で、まるで骨のない触手のように軌道を修正した。
ジレの回避が、間に合わなかった。
槍がジレの脇腹に刺さった。
ジレの体の動きが止まった。
空中で、止まった。
槍に貫かれたまま、宙吊りになった。
リオールの魔法陣が完成した。矢を放とうとした。しかし天使形がジレを盾にするように体を動かし、射軸が塞がれた。
「ジレさん──」
ロピの声が、上擦った。
槍が、体内で展開した。
外からでは見えなかった。しかし音がした。傘が開くような、鈍い音が。金属製の棘が内側から広がる音が。ジレの体の輪郭が、一瞬だけ不自然に膨らんだ。
内側から、引き裂かれていた。
ジレが何かを言おうとした。口が動いた。声は出なかった。
天使形が槍を引き抜いた。
ジレの体が落下した。
地面に叩きつけられた。
その直後、天使形の足が振り下ろされた。
それ以上の音は、なかった。
「ジレさん」
リオールは呼んだ。
返事は、なかった。
ロピがバイクの脇で声を殺して泣いていた。肩が震えているのが見えた。レーナがロピの背中に手を当て、それでも前を見続けていた。
リオールはディヴォールと正面から向き合った。
四枚の翼が広がる。風が起きた。瓦礫が舞い上がり、砂が目を打つように飛ぶ。広範囲の暴風魔法──翼を使った気流攻撃だ。
リオールは足元の地面に向かって魔法陣を展開し、土壁を生成した。腰の高さほどの壁が横に走り、暴風を受け止める。体を壁に張り付けながら後退し、距離を取る。
矢を放った。三本分裂、胴部狙い。
天使形は翼でそれを払い──同時に、四本の腕から炎を束ねた。
炎が束になって撃ち出される瞬間、リオールは横に転がった。爆発が地面を焼く。熱波が装甲を叩き、左腕の塗装が黒く焦げた。衝撃を利用して体を弾き上げ、廃ビルの二階の窓枠に手をかけ、跳び移った。
高所から、分析する。
この個体の攻撃には、法則がある。炎魔法を行使する際、四本の腕を構えるという予備動作が必ずある。その動作に要する時間を計測する。一回目:0.31秒。二回目:0.29秒。平均、0.3秒。
その隙を、突けるか。
一撃で仕留めなければならない。血液黒化度はすでに65パーセントを超えた。あと何発撃てるかを計算しながら、リオールは決断した。
囮が要る。
足元に向かって魔法陣を展開する。土人形──ゴーレムを生成する。魔力消費が大きい。体内の血液がさらに速く黒化する。それでも必要だった。
ゴーレムを地面に走らせた。ぎこちない土の人形が廃ビルの前を横切り、天使形の正面を走る。




