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優しさ

 四日目の夜。街と街の間の今にも崩れそうな廃橋に三人はいた。


 夕食を終えてしばらくした頃、リオールは右手を開いて、魔法陣を展開しようとした。

 出力の確認だ。


 いつものように指先から光が滲み出て──そこで止まった。魔法陣が開かない。


 六芒形の輪郭が一瞬浮かび上がり、霧散した。もう一度。同じだった。


 車の追跡戦から二日。センサーを全方位展開し続けながら歩き続けた。

「血液黒化度:九十九パーセント。魔法展開、一時不可」。センサーが静かに警告を出した。


 今夜、何かが来たら。

 魔法なしで二人を守ることができるか。計算を始めようとして、結論が出る前に止めた。数値が示す答えを、今は知りたくなかった。


「……リオール」

 ロピの声だった。毛布を膝にかけたまま、壁際に座っている。眠ったふりをしていると思っていた。しかし目が開いていた。じっと、リオールの手を見ていた。


「さっきから、何度も手を開いてる」

「……確認していました」

「魔法、使えない感じ?」

 リオールは少し間を置いた。「現在の黒化度では、展開が難しい状態です」

「何か方法ないの」


 方法はある。一つだけ。

 しかしリオールはすぐには答えなかった。その方法を口にすることと、口にしないことの、どちらが正しいかを演算した。演算は終わらなかった。しかし口を開いていた。


「……一つあります」

「何」

「あなたの血液を、少し借りることになります」

 ロピが少しの間、黙った。驚いた顔ではなかった。考えている顔だった。

「......どういうこと」


「非常時用の輸血セットを携行しています」リオールは革帯の右側、小さな道具入れとは別のさらに小さな袋を指した。


「本来は処理済みの血液を補充するための装置ですが、内蔵された安定化処理機構が、生の血液を循環に適した状態に変換できます。完全ではありませんが、黒化度を下げることはできます」


「刺すの、針で」

「はい。ただ、ロピさんの体に負担が──」

「どのくらい取る?」

「百ミリマルトほどで、七十パーセントまで回復できます。それ以上は取りません」

「百ミリ」ロピは自分の腕を見た。


 百ミリマルトは十歳児の全血液量の一割程度だ。

「はい」リオールがうなずく。


「全然大丈夫じゃん」

 リオールは反論を探した。しかし見つからなかった。見つからないのではなく──探す必要を、どこかで感じていなかった。

「……ありがとうございます」


 袋から輸血セットを取り出した。手のひらに収まるほどの小さな装置だ。透明なチューブが三本、接続部を挟んで左右に出ている。一本がロピの腕に刺さる採血針。

 もう二本がリオールの首筋の接続部につながる。装置の内側で血液が処理され、循環に乗る。


 ロピは袖をまくった。細い腕だった。皮膚の下に青い静脈が透けていた。

「どこに刺す?」

「内側の、太い血管の上です」

「やって」

 採血針の先端を当てた。

「少し痛みます」

「いいよ」


 針が入った。ロピは眉をわずかに寄せたが、声は出なかった。

 チューブの中を赤が流れ始める。装置の内部でかすかな音がした。処理が動き始めた証拠だ。

 もう二本のチューブをリオールの首筋に接続する。温かいものが流れ込んでくる感触があった。

 黒化した血液が装置に流れていく。


 部屋の隅でレーナが動いた。気づいていたのだ。起き上がって、二人の方を見た。何も言わなかった。ただ、壁に背を預けたまま、膝を抱えて、静かに見ていた。


 しばらく、誰も話さなかった。チューブの中を赤が流れ、装置の内部で処理が続いた。ロピは壁に頭を預けて、天井を見ていた。その横顔は穏やかだった。痛いのか怖いのか、そういったものが見当たらない顔だった。


「……ロピさん、目を閉じていた方がいいです。少し眩暈めまいが出ることがあります」

「平気」ロピは天井を見たまま言った。


「……なんか聞かせてよ。何でもいいから」

「何でも、とは」

「リオールが覚えてること。旅の中で、なんか気になったやつ」


 リオールは少し考えた。この七日間の記録を辿った。廃野の匂い、崩れた建物の形、夜の空の星の配置。その中で削除フォルダに送らなかったものを探した。


「二日目の夜、レーナさんが眠りながら鼻歌を歌っていました」

 ロピがふっと笑った。

「それ、本人に言ったら怒られるやつ」

「言いません」

「……俺にも言わなきゃよかったのに」

「ロピさんに話したかっただけです」


 ロピはしばらく黙った。


 それから、また少し笑った。今度は声が出るくらいの笑いだった。

「……リオールって、たまにそういうこと言うよな」

「何か問題がありましたか」

「ない。ない、けど」

 ロピの声が、少しずつ眠そうになっていった。


 百ミリマルトに達した。装置が止まる。チューブを外した。採血針を抜き、その上に布を当てた。「少し押さえていてください」「うん」


 ロピの指が、布の上に乗った。リオールの手と、ロピの手が、一瞬だけ重なった。


「血液黒化度:七十パーセント。魔法通信、回復」

 センサーの数値が動いた。指先から光を滲ませてみた。今度は止まらなかった。六芒形の輪郭が、静かに展開した。


「使える?」ロピが確かめるように聞いた。

「使えます」

「よかった」

 ロピはそれだけ言って、また毛布を手繰り寄せた。数分もしないうちに、呼吸が深くなった。眠っていた。


 レーナがリオールを見た。何か言おうとして、やめた。また膝を抱え直して、目を閉じた。その耳が、ほんの少し赤かった。


 リオールは小さな輸血装置を袋に戻した。

 リオールは二人を守る番をするために橋の外に向かった。

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