ディヴォール
夜明けはまだ遠い。
廃棄地帯に満ちているのは、錆の匂いと、死の匂いだ。
かつて、魔導世紀以前ここは工業地区だったという。何百もの炉が熱を吐き、何千もの人間が汗を流し、機械が唸りを上げていた時代があった。今はその痕跡だけが残っている。鉄骨は年月に食われて赤黒く変色し、コンクリートの壁はひび割れて内側から崩れ落ちつつある。
枯れた土が剥き出しになった地面には、草一本生えていない。雨水が溜まった水溜まりの水面に、灰色の空が暗く映っていた。彼女の白い髪の毛が暗く荒廃した空間で映えて見える。
風が、低く唸った。
リオールは廃工場の外壁沿いに移動しながら、内部の構造を頭に描いていた。赤外線センサーが示す熱源は三つ。
一つは工場北側の廃棄タンクの陰に。一つは二階の崩れかけた通路に。もう一つは、正面から見て奥の機械室──圧縮された鉄の匂いが濃い区画に潜んでいる。
足跡も分析していた。
北側の個体は、足跡の深さから重量が人間の三倍以上あると推定できた。泥の中の爪痕が深い。これは「重い型」だ。
二階のそれは逆に足跡が浅く、歩幅が広い。体重を地面に預けず走り抜ける設計の個体。「速い型」だろう。
機械室のものが最も厄介だった。足跡が少ない。歩数が少ないにもかかわらず位置が変わっている。魔法で自身の移動を補助している「魔法型」と判断した。
三体。掃討順序を決める。
魔法型から仕留める。これが鉄則だ。放置すれば戦況を複雑にする。最初に潰す。
リオールは廃工場の正面扉ではなく、外壁の崩落した一角から内部に侵入した。金属の床に足をつける瞬間、接地圧を計算して体重を分散させた。ローブの裾が金属片の上を静かに滑る。
暗闇の中を視覚センサーが自動補正し、光源のない空間を昼間と変わらない精度で見渡す。
機械室は奥だ。廃棄された巨大なプレス機の残骸が等間隔に並ぶその通路を、リオールは音もなく進んだ。センサーが前方の熱源に反応する。距離、二十三メートル。角度、正面よりやや右。
リオールは足を止め、廃鉄骨の陰に体を滑り込ませた。
奥に、それがいた。
人間だったもの、とでも言うべき存在だ。かつての骨格の名残は残っているが、それ以外は原形をとどめていない。
脊椎が背面から突き出るように露出しており、四本の腕のうち二本は関節が逆に曲がっている。顔のあった場所には、暗い空洞と、黄色く光る六つの点が浮かんでいた。その光が──知性ではなく、ただ敵意だけを燃やしていた。
ディヴォール。
かつて人間だった者が、神の怒りによって変容した存在。理性を溶かされ、人間への憎悪だけを本能として刻みつけられた、神の「刺客」。
個体の規模を見る限り、通常型だ。分析に時間をかけるほどの相手ではない。
リオールは廃鉄骨の影から音もなく一歩踏み出した。右腕を前方へ向ける。
空気が変わった。指先から青白い光が滲み出るように広がり、一瞬の後、空中に魔法陣が展開された。直径一メートルほどの六芒形の光の図形が、静かに輝いている。
ディヴォールがこちらを向いた。その黄色い眼光が、魔法陣の光に反応した。
遅い。
魔法陣から矢が放たれる。光が束になって収束したかと思った瞬間、矢は空中で三つに裂けた。一本は真っすぐ、ディヴォールの顔面へ。残り二本は大きく弧を描くように左右へ広がり、背後から回り込む軌道をとった。
正面の一本が眉間に命中した。ディヴォールの動きが止まる。その刹那、背後から二本が同時に着弾した。
矢の穿孔部から、光が展開された。圧縮された魔法陣が内側から炸裂する──廃工場の壁が震えるほどの轟音と共に、機械室のディヴォールは内側から弾け飛んだ。肉と骨と、黒く変質した液体が飛散して、廃機械の残骸を汚した。
一体。
過剰な攻撃はしない。必要な一撃で仕留める。それがリオールの戦い方だった。余分な魔力は使わない。血液の黒化を最小限に抑えるために、常に最短の手数を選ぶ。
リオールはすでに次の動きに入っていた。
爆発音に引き寄せられ、二階通路の速い型が動き出す。センサーに赤い反応が走った。足音の間隔が短い。速度は相当だ。
バン、と通路の手すりを破壊する音がして、それが落下してきた。犬に近い変異形だった。
四本の脚が地面に叩きつけられた瞬間、土が爆ぜるように弾けて、凄まじい加速で突進してくる。リオールは横に跳んだ。鋭い爪が空を切る。着地の瞬間、左側面に隙が生まれた。
矢を放つ。
命中した。しかし爆散には至らない。爪痕の多い分厚い外皮が矢の浸透を阻み、ディヴォールは怒り狂ってもう一度飛び掛かってきた。
外皮が厚い。追加で一発、余分に使わせるか。
感情的な苛立ちではない。純粋に、計算の狂いに対する淡い認識だった。
リオールは後退しながら、着地点を計算した。速い型の跳躍は高い。弧の頂点で方向転換はできない。つまり着地点は予測できる。
降下軌道の収束点に魔法陣を展開し、矢を三本同時に生成した。ディヴォールが重力に引かれて落ちてくる。その胴体が魔法陣の射軸上に重なった瞬間──
放った。
三本の矢が胴体を貫いた。展開式魔法陣が内部で起動する。
爆砕。
速い型が沈黙した。崩れ落ちた残骸から黒い煙が上がった。
二体。
静寂は、一秒も続かなかった。背後から、巨大な影が落ちた。
重い型は、すでにリオールの背後にいた。足音がしなかった。あの巨体で、どうやって接近したのか──考える間もなく、巨大な腕が振り下ろされた。
直撃。
左肩の装甲が歪む。金属の悲鳴のような音が響いて、リオールの体が床を滑った。右腕の魔法陣を展開しようとして、腕のブレで照準が乱れる。距離が近い。矢が使えない。
気づかなかった。足跡の分析が正確だったのに、接近を許した。
それだけだった。自己批判でも悔恨でもない。次に活かすための記録だ。
正面から、巨体が迫る。
リオールは瞬時に判断した。足元に意識を向け、魔法陣を地面へ向かって展開する。土壁が足元から垂直に生え、勢いよく突き出た。自分ごとディヴォールを押しのけるように、壁が伸び続ける。重い型は驚いたように体勢を崩し、後退した。
距離が生まれた。
リオールはその間に立ち上がり、右腕を向けた。今度は矢ではない。この距離でこの体格なら、矢の精度より爆裂の威力を優先する方が合理的だ。魔法陣から圧縮した爆裂の核を射出する。
重い型の胸部に叩き込まれた魔法陣が、炸裂した。衝撃波が廃工場を揺さぶった。崩れかけた壁の一部が音を立てて落下する。粉塵が舞い上がり、視界が白く霞んだ。
──静寂が、戻った。
三体。掃討完了。
想定通りの展開だった。強いて言えば速い型に一発余分に使ったこと、重い型の接近を許したこと。その二点が今回の課題として内部ログに記録された。感情的な記述は何もない。達成感もなければ、高揚もない。
「掃討完了:三体。損傷:左肩装甲変形、軽微。魔法使用回数:七回」
それだけだ。
左腕の装甲カバーを外す。内側を流れる血液が見えた。透明に近いはずの循環血液が、黒みを帯びている。




