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水鏡  作者: 古紫 汐桜
第四章
38/120

初恋

豪鬼がその親子のもとへ通わなくなってからも、翡翠はこっそりと彼らの家を訪れていた。

耳に届く笛の音は、あの日からずっと──悲しげな音色を奏でていた。


寂しい。

悲しい。


その音色は、まるで翡翠の心に宿る孤独そのもののようだった。


 ある日、翡翠はうっかり笛の音に聴き入り過ぎて、結界の外に出てしまった。

その日の笛の音は、初めて耳にした日のように優しく、柔らかだった。

まるで自分のために吹いてくれているように感じ、思わず近付き過ぎてしまったのだ。


「……誰?」


 隠れていたはずの翡翠は、気配を悟られてしまった。

目が合った少年の、深い漆黒の瞳。

その瞳に吸い込まれ、逃げるのが一歩遅れた。


──この姿を見られた。鬼だと知られた。


殺される前に、殺すしかない──。


翡翠が胸元の懐刀に手をかけた、その瞬間だった。


「うわぁ……綺麗な髪の毛と瞳の色だね」


 少年は目を輝かせ、翡翠をまっすぐ見つめていた。


「……綺麗?」


驚く翡翠に、少年はまっすぐに答えた。


「うん。きみの髪は光の糸みたいだ。

瞳の色は、この湖のように澄んでいて、綺麗な翠色をしているよ」


キラキラとした眼差しに、翡翠はただ戸惑うばかりだった。

そのとき──


「あらまぁ……可愛らしいお客様ね」


 家から出てきた女性の声に、翡翠はハッと我に返る。

自分の泥だらけで傷だらけの姿が急に恥ずかしくなり、逃げ出そうと後ずさった。


「あっ、待って!」


少年が慌てて声を上げる。


「怪我……してるじゃないか」


そう言って、ためらいもなく翡翠の腕を取ると、家の中へと導いた。


「母上、傷の手当てをしてもよろしいですか?」


少年の言葉に、母は微笑みながら頷く。

翡翠は縁側に座らされ、擦り傷に薬草を塗られていた。


「小さなお友達ができて、よかったわね」

母の言葉に、少年は頬を膨らませて反論する。


「母上、それ以上はおやめください!」


そのやり取りが可笑しくて、翡翠は小さく笑った。


手当てを終えた少年が、恥ずかしそうに口を開く。


「……私の笛を聴いていたのは、そなたか?」


「え?」


「いや、違うならよいのだ」


戸惑う翡翠に、母が柔らかく微笑む。


「友頼はね、ずっと言っていたの。誰かが笛を聴きに来てくれているって。

私はうさぎかリスだと思っていたのですけどね」


クスクスと笑う母に、少年──友頼は耳まで真っ赤になって顔を逸らした。


「友頼はね、今日は“いつも聴いてくれる誰か”のために吹いたのよ」

「母上! それ以上はおやめください!」


母の口を慌てて塞ぐ友頼。

その光景に、翡翠の胸が不思議な温かさで満たされていく。


「……私は、翡翠」


ポツリと呟くと、母が目を輝かせて微笑んだ。


「まぁ……あなたの瞳の色のように綺麗な名前ね」


「瞳?」


不思議そうに尋ねる友頼に、母親は頷いた。


「ええ。“翡翠”というのは、翠色の美しい石の名なのよ」


その言葉に、友頼は嬉しそうに微笑んだ。


「では、それはとても美しい石なのですね」


 その笑顔に、翡翠の心が静かに揺れる。

胸の奥に芽生えた感情の名を、翡翠はまだ知らなかった。

そして──友頼もまた、自らの心に芽生えた想いに気付いていなかった。


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