翡翠、届かぬ声
屋敷に到着し、冬夜が翡翠を浴室で下ろすと
「今、着替えを用意する」
そう言って冬夜が翡翠から離れた、その瞬間だった。
「──僕たちのことを……伝えようとしても無駄ですよ。」
ポツリと幸太が呟いた。
「翠様が……あなたが冬夜さんに僕たちの事を話そうとしたら、声が出なくなるようになさったので」
翡翠は愕然として、幸太の腕を掴んだ。
「……薄井さん、あなたは翠に負けない強い心をお持ちのはずです。それなのに……なぜ……」
涙を浮かべる翡翠に、幸太はうっとおしそうに手を払い
「……女の涙が武器になるのは、その相手が、泣いている女を愛している時だけですよ。
──だから、僕には無駄です。」
冷たく見下ろされた瞳に、翡翠の心が打ちひしがられていく。
どうしたら……元の幸太に戻ってくれるのだろうか? と考えていると
「翡翠? どうした?」
着替えを持った冬夜が戻って来た。
「……冬夜さん」
声を聞いてホッとしていると
「ほら、さっさと風呂に入って来い。折角の美人が台無しだ」
優しく微笑まれ、頬にそっと触れた。
触れられた手に自分の手を重ねると
「なんだ? 一人で入れないのか? 一緒に入りたいなら、最初からそう言えば……」
と言われ、翡翠は頬を赤らめて
「ち……違います!」
そう言って冬夜の声を遮った。
すると冬夜は声を上げて笑い出し
「ほら、良いから早く入って来い」
と言って、翡翠の鼻をかるく摘んだ。
浴衣を手渡され、脱衣場に押し込まれると、ゆっくりとドアが閉められた。
その時翡翠は、幸太がいつの間にか消えていた事に気付いた。
さっきまで目の前に居たのに、冬夜の声と同時に消えていた。
翠の力は、他の人を瞬間移動させる程に強まっているのだと悟った。
胸の中が、不安で渦を巻いている。
翡翠は何とか冬夜に状況を伝える方法はないものか……と、思案しながら着衣を解いてお風呂場へと足を運んだ。
お湯を掛けると、擦り傷や打撲していた気付かなかった傷から小さな痛みが走った。
普段は温かく癒すお湯が、やけに身体に痛い。
ゆっくりと痛みが消えるのを待ちながら
(身体に出来た傷の痛みなど……、あの日の胸の痛みに比べたら、些細なものだ)
と翡翠は思った。
肉体的な痛みは……傷が癒えればすぐに治まる。
──では、心の傷は……?
『ピチャン』
水滴が水面に落ちる音が聞こえ、ハッと我に返る。
冬夜にとって、一番の危険人物は自分だと思い出す。
助けたい気持ちと……、自分が翠に乗っ取られる恐怖に身体が震えた。
それでも……冬夜の傍に居たいと願う愚かな自分が……翡翠は悲しかった。




