翡翠の決意と足跡
翡翠は走った。
まだ陽は高い。
今の時間、翡翠はあの洞穴の先にある鬼神神社から動けない。
動けたとしても、人を殺すことは出来ない。
まだ間に合う。
あの二人が翠に操られている事を、冬夜に知らせなければ……
『ブチッ』と鼻緒が切れた音が響き、翡翠は激しく転んだが、立ち上がって走り出す。
──足を止めたら間に合わない。
翡翠はそう思って走り続けた。
足袋は黒く汚れ、着物も顔も……全て泥だけになっている。
でも、翡翠にとってそんな事はどうでも良い事だった。
息が上がり、喉の奥から血の味がする。
肺は酸素を求め、気管支からヒューヒューと音がし始めた。
鬼神の力は、翠が全て持っている。
一方、翡翠は普通の人間と変わらない。
足がもつれ、身体が悲鳴を上げる。
何度も倒れ、それでも足を先へ先へと進める。
(冬夜さんは……冬夜さんだけは、殺させない)
翡翠はそう決意して、何度も足を動かす。
初めて冬夜を見た時、友頼が生き返ったのかと思った。
しかし、冬夜と会う時間を重ねる毎に、彼の『日下部冬夜』という人間の魅力に翡翠は惹かれていった。
好きな写真の話をする時の瞳は、オニキスのように深く、その奥で、ブラックスターサファイアのような光が瞬いていた。
子供のように無邪気に笑う笑顔。
自分を守ろうと、目の前に飛び出してくれた広い背中。
まだお互いを知る前の頃、翡翠を驚かせようと手品を見せてくれた綺麗な指。
手品が成功した時、ちょっとだけ右眉が上がってドヤ顔になるところ。
全てが愛しいと思うようになっていた。
きっと……友頼の魂が入っていなくても、惹かれたと──翡翠は思った。
今まで出会った友頼を宿した人物には、『友頼の魂』が入る器としての認識だった。
しかし、冬夜は違った。
最初はその認識だった翡翠が、いつの間にか『若様』から『冬夜さん』と呼んでいる自分がいた。
友頼は喜怒哀楽……特に『怒』を表すことはなかった。
常に穏やかで、優しい人だった。
そんな友頼が大好きだった筈なのに、今、目の前にいる喜怒哀楽がハッキリしていて、人間味のある冬夜に惹かれた。
それが友頼と頼政の魂が融合されたからなのか、冬夜自身の人柄なのか……。
それは翡翠には分からない。
ただ、憎い頼政の魂を感じても、それを凌駕する『日下部冬夜』という人間の魅力に惹かれている自分に驚いた。
たくさんの悲しみを経験して、全てを乗り越え受け入れた冬夜の若竹のようなしなやかな強さと、全てを受け入れてくれそうな深い愛情を感じる冬夜の瞳。
翡翠は共に暮らす時間が増えれば増える程、昨日より今日。今日より明日……冬夜を好きになっていた。
それはまるで、“まだ生きている“人間のような感情で、翡翠は戸惑いながらも幸せだった。




