#7 辺境の火種(前編)
霧の帳に包まれた、壁も床も曖昧な異界で、バエルは退屈を紛らわすように指を鳴らした。
「スピノさ〜ん、ちょっと頼まれてくれますか」
呼ばれた影は蛇の目を外套に隠し、静かに膝をつく。
バエルは笑いながら黒い小壺を差し出した。
「毒蛇の壺です、うまくつかってくださいね〜」
蓋の隙間から紫黒の瘴気が薄く漏れ、霧を撫でるように広がった。
さらに一枚の古びた地図を指で弾き、宙に浮かべる。
「あー、それから、ココ、ゲメネ伯がせっせと横領してためた金品があります。彼にはこれから必要なくなるので、全部使ってしまってください」
スピノは短く頷き、無感情に告げた。
「盗賊共は金を渡せば動きます」
バエルは肩をすくめ、
「でしょ〜う、本当は私が行きたいんですけどね〜、今回はスピノさんにおまかせします。さぁ、楽しんできてください」
と、まるで舞台の幕を上げるかのように両手を広げた。スピノは一礼し、霧に溶けていった。
***
やがて、霧の帳を抜けたスピノは人間の姿をまとい、辺境の小城にたどりついた。
城の主ゲメネ伯は、書きかけの帳簿を放り出し、伸びた口ヒゲを撫でながら退屈そうに地図を睨みつけていた。
「こんな辺境にいつまでも……王都の舞踏会にも行けず、宴もない……」
と、飽き飽きした声が広間にこだました。
そこへ、黒い外套を翻し現れたのは、密使を名乗るスピノール伯─本性を隠したスピノ─であった。
彼は深々と頭を垂れ、重々しい口調で告げる。
「宰相閣下より密命にございます」
差し出された封蝋は、宰相の紋章を刻んだ深紅の印。封を切ったゲメネ伯は、短い文面を目で追った。
「カルマル砦が陥落したいま、竜人族が動けば、国境の守りは危うい。そなたの領に百騎を送る。これは国の大事である、情勢を見て、必要とあらば先んじて手を打たれよ」
低く読み上げる伯の声が、広間に落ちた。そこにスピノはわざと冷淡に続けた。
「宰相様は、今こそ竜人族の地に先手を打つ時と……伯の決断を待っておられます」
ゲメネ伯の口元がゆっくりと吊り上がる。彼の瞳に、王都の煌びやかな宴の幻が映った。
「……あのトカゲどもに、礼儀を教えてやる時がきたか」
指先で口ヒゲを撫でながら立ち上がると、ゲメネ伯は声を張り上げ、近習を呼び寄せた。
「兵を集めよ!馬も槍も整えよ!我が名が都に響く日も遠くはないぞ!」
出世の野心と欲望が、辺境の空気をかき乱しながら動き始めていた。