#5 沈黙の宮殿、開演の兆し
瘴気の波がゆるやかに揺れ、地底の奥深く──世界の理から切り離されたかのような空間に、ひとつの宮殿が静かに沈んでいた。
そこには天井という概念がなく、頭上にはただ、果てなき闇が垂直に降り注いでいる。
壁面は黒い岩に覆われ、そこに刻まれた文様は見るたびに形を変える。
線は蠢き、視る者の意識をかすかにずらしながら、“言葉にならない声”を伝えようとしていた。
中央には、黒水晶を重ねて組み上げた巨大な玉座があった。
その前に、漆黒の外套をまとった男が音もなく姿を現す。──バエル。
彼の足音は、確かに地を踏んでいるはずなのに、響かない。宮殿そのものが、彼の存在を呑み込み、沈黙の一部と化してしまうのだ。
「……吾が主よ、ただいま戻りました」
低く、丁寧な声が闇に染み込むように広がる。
玉座の上には、一つの影があった。人とも獣とも知れぬその存在は、まるで闇そのものが形を取ったような姿。淡く光を宿す双眸だけが、静かに、わずかに、動いた。
しばしの沈黙の後、影が静かに問う。
「……宝物庫から持ち出した、反魂灯の成果は?」
バエルは微かに目を細め、笑みともつかぬ表情で答える。
「人族の砦を、落としてまいりました」
その一言だけが、闇に落ちる。沈黙。玉座の主は、なおも問いを重ねた。
「……何を見てきた」
それを聞いて、バエルはわずかに口元を緩め、恭しく一礼する。
「──“舞台に、余所者がいました”。理は、ほんの一瞬だけ……我々の声に、耳を塞ぎました」
「人ならざる者か」
「そのように感じました。名もなく、冠もなく、ただ……“在ってはならぬ気配”が、その場に漂っておりました」
再び、沈黙。だが、今度はただの空白ではなかった。
深奥から、微かに蠢く気配が生まれ、玉座の影がわずかに広がった。バエルはその変化を見届けると、ひとつ深く、頭を垂れた。
「──開演を望む者が、いるようです」