#11 戒厳令
夜と朝の境を分かつような薄明かりの中、ユトは屋敷の書斎にこもり、地図の上に指を滑らせていた。
線をなぞり、駒をひとつ動かし、また指を止める──そんな作業を、夜通し続けていた。
ふと、静かな足音が廊下に近づき、戸口を叩く音がした。
「ユト様、宰相より緊急の伝令がお越しになられました」
──宰相?思考が一瞬止まる。
砦奪還から数日、ビーストフォークが動くなら今夜が最後の機会。
砦へ向かう前に放った偵察隊からの報告を待っていたが、耳にしたのはまったく別の名だった。
「通してください」
扉が開き、外套を払った使者が現れる。ユトが巻紙を受け取ると、
「お預かりしたのはこれだけにございます」
とだけ告げ、深く一礼して退室した。
扉が静かに閉まる音を背に、ユトは宰相府の印章を見つめ、しばし指を止めた。
封蝋を割ると、巻紙は一息で解け、短い文面が現れる。
──国王、倒れる。意識はあるが容体は極めて不安定──
指先がわずかに強ばる。机の上で地図の端を押さえたまま、低く息を吐く。
「……ビーストフォークが動かなかったわけだ」
王都イシュレア、政庁の会議室はまだ夜の冷たさを残していた。円卓の上に灯された油灯の光の下、宰相セラオルが深い皺を刻んだ顔を上げた。
「──今から戒厳令を敷く」
会議の席につくのは三人だけだった。宰相セラオル、神殿長リムロス、そして軍を代表するユト。
セラオルは視線を落とさず続けた。
「国王陛下は意識を保たれてはいる。しかし容体は安定せず、余談を許さん状況だ」
リムロス神殿長が静かに問いかける。
「……では、各地への報せは?」
宰相は首を横に振った。
「まだだ。王の御身が危ういと知れれば、諸国がだまっていない」
セラオルは卓上の地図を指で叩き、次の言葉を口にした。
「ルーン王子には、お戻りいただく、すぐにだ」
言葉を交わすことなく、リムロス神殿長もユトも頷いた。
王子が戻るまで、王国の空白を知られてはならない、その認識だけが、三人に重く共有されていた。
だが、ユトの胸中には別の言葉が浮かんでいた。
──戒厳令を敷いても、ビーストは動く。今まで動かなかったことが、それを証明してしまう...──
低く吐き出すこともなく、ただ思考の中でその言葉をかみしめる。
ユトは、今にも崩れそうな静けさの中に、確かに迫る足音を聞いていた。