#1 カルマル砦
黒い霧が、ゼルヴァ峠の夜を包んでいた。
カルマル砦の上空を、不自然な風がすべっていく。
「……動きが止まったな。さて、こいつらの親玉ってのは、まだ顔を出さないのか」
ザルク将軍は剣のつばに指をかけたまま、砦の広場を見下ろしていた。無数のアンデットが、地を埋めるように立ち尽くしている。
「油断は禁物です」
その隣に立つ、静かな声の賢者ミレニアが、目を閉じたまま言った。
「精神に異質な触れがありました。今は……探っている最中」
そのとき、闇の中からひとりの影が歩いてきた。ゆったりと、まるで散歩でもするかのような足取り。
「こんばんは。ああ、いえ、夜に“は”は不要でしたね。……今夜は、いい夜です」
黒い外套をまとった魔族の男が、笑みを浮かべて立ち止まる。
「魔王直属、バエルと申します。ついでに王子も、と思ったのですが……さすがに、それは控えるべきですね」
「貴様っ」
ザルクが前へ出ようとした瞬間、ミレニアが手をかざす。淡い光が放たれ、空気が震える。精神魔法──感覚を惑わすはずの術。
だが、バエルはわずかにまばたきしただけで、笑みを崩さなかった。
「なるほど、なるほど……これは、ちょっと意外でした。賢者様、なかなかですよ」
その目が、一瞬だけ鋭く光った。
「さて、用も済みましたし。私はこれで」
バエルの姿は、霧の中に溶けるように消えていった。
***
──この夜、難攻不落と言われたカルマル砦は落ちた。
翌朝、砦を見下ろしたザルクは、誰もいない広場に立ち、つぶやいた。
「……たった一人で、これか、しかし魔王とはいったい」
***
「それにしても、気になりますね。あの……へんなの。現れたのに、何もしてこなかった。なんでしょうね、あれは」
彼の視線の先には、誰もいない闇の空間が広がっていた。
「まーいいでしょう。それは、魔王様にとっておくとします」
ふわりと笑い、バエルはまた闇の中へと消えていった。