第九話:氷の令嬢と、初めての痛み
私が「ドジなメイド作戦」を開始してから、一ヶ月ほどが経った。
今や私は、屋敷中の誰もが知る、札付きのトラブルメーカーだ。侍女頭からの叱責は、もはや朝の挨拶のようなものになった。同僚のメイドたちからは、哀れみと軽蔑の入り混じった、複雑な視線を向けられている。
だが、私の心は一点の曇りもなく、晴れやかだった。
(今日も、我が君はご息災だ! 私の聖戦は、順調そのもの!)
評判が地に落ちようと、給金が減らされようと、そんなことは些細な問題だ。我が君の命と誇りを守れるのなら、私は喜んで道化になろう。
そんなある日の午後。私は、セレスティーナ様の書斎で、いつものように本の整理をしていた。
セレスティーナ様は、書棚の高い場所にある一冊の専門書を指さし、私に命じた。
「リリア。あれを取ってちょうだい」
「はい、ただいま」
私は、部屋の隅に置かれていた木製の脚立を運んできた。
それは、私が今朝、いつものように「残留思念」のチェックを行った際に、微かな悪意を感じ取っていた、いわくつきの脚立だった。ネジが一本、巧妙に緩められていたのだ。
もちろん、私がこっそりと締め直しておいたので、今は安全なはずだ。だが、もし私が気づかなければ、セレスティーナ様は間違いなく、この脚立から転落していただろう。
(犯人も、いよいよ大胆になってきたな…)
内心で気を引き締めながら、私は脚立を登り始めた。
目的の本に手を伸ばし、それを掴んだ、その瞬間だった。
メキッ、という嫌な音。
私が締め直したはずのネジとは、別の箇所。脚立の踏み板そのものに、細い亀裂が入っていたのだ。犯人は、二重に罠を仕掛けていたらしい。
「きゃっ!」
足場を失った私の体は、為す術もなく宙に投げ出された。
落ちる。その一瞬、私の脳裏をよぎったのは、自分のことではなかった。
(まずい! この本を、我が君の研究資料を、傷つけるわけには…!)
私は、空中で必死に体勢を立て直し、分厚い本を胸に抱きかかえるようにして、床に叩きつけられた。
ゴツン、と鈍い音が響き、腕と肩に鋭い痛みが走る。
「……リリア!」
セレスティーナ様の、珍しく焦ったような声が聞こえた。
私は、抱きしめた本が無事であることを確認すると、安心からへらりと笑ってみせた。
「だ、大丈夫です、お嬢様! 本は、ご無事ですので!」
「本の心配をしている場合ではないでしょう、この馬鹿!」
彼女が、私に感情を露わにするのは、これが初めてだったかもしれない。
すぐに他のメイドたちが駆けつけ、私は医務室へと運ばれていった。幸い、骨に異常はなく、擦り傷と打撲だけで済んだ。
医務室のベッドの上で、私はズキズキと痛む腕を見つめていた。
(またやってしまった…。でも、我が君がご無事だった。良かった…)
いつものように、そう自己完結しようとする。
でも、今日は、少しだけ違った。自分の腕に残った、生々しい痛み。それは、私がこれまで行ってきた「聖戦」が、ただのままごとではないという、厳然たる事実を突きつけていた。
(ただのファンでいるだけじゃ、ダメなんだ。本当に、命がけなんだ…)
覚悟を新たにしていると、ふと、部屋の扉がノックされた。
アンナ先輩あたりが、また嫌味でも言いに来たのだろうか。そう思って「どうぞ」と答えると、入ってきたのは、予想だにしない人物だった。
「……セレスティーナ、様?」
そこに立っていたのは、まぎれもなく、我が君その人だった。その手には、小さな薬の壺が握られている。
私は、慌ててベッドから起き上がろうとした。
「お、お嬢様! なぜこのような場所に!?」
「動かないでいいわ」
セレスティーナ様は、冷たい声でそう言うと、私のベッドの脇にある椅子に、静かに腰を下ろした。
「……侍女頭に、あなたの様子を見てくるように言われただけよ。勘違いしないように」
いつもの、ツンとしたお言葉。
だが、次の瞬間、私は自分の目を疑った。
セレスティーナ様は、薬壺の蓋を開けると、その中身を自身の指ですくい取り、私の腕の擦り傷に、そっと塗り始めたのだ。
「えっ、あ、お嬢様!? こ、このようなこと、自分で…!」
「うるさい。黙っていなさい」
有無を言わさぬ、静かな命令。
私は、固まるしかなかった。
予期せぬ、主からの、直接の看病。
触れられた腕から、セレスティーナ様の、少し冷たい、けれど驚くほど優しい指先の感触が、伝わってくる。
その指が動くたびに、私の心臓が、ドクン、ドクン、と大きく跳ねていく。
なんだろう。
いつも感じている、あの「尊い」という感情とは、明らかに違う。
もっと、個人的で。
もっと、甘くて。
そして、どうしようもなく、戸惑ってしまうような、この気持ちは。
私は、薬を塗ることに集中している、セレスティーナ様の真剣な横顔から、目が離せなくなっていた。
その、月光を映したような銀色の髪に、そっと、触れてみたい、なんて。
そんな、不敬な考えが、頭をよぎって。
(あれ……? なに、この気持ち……)
ズキズキと痛む腕の傷より、もっとずっと深く、甘い痛みが、私の胸の奥で、静かに生まれようとしていた。