第八話:ドジなメイドの奇妙な献身
あの日、薬草管理室で真実(と私が信じるもの)に気づいてから、私の日常は一変した。
もはや、ただの「推し活」ではない。これは、聖戦だ。我が君の命と誇りを、目に見えない敵から守り抜くための、神聖なる防諜戦なのだ。
私の最初の任務は、敵の攻撃手段である「お茶」のルートを、完全に掌握することだった。
幸い、観閲式での一件以来、セレスティーナ様はなぜか私を書斎に呼びつけることが多くなっていた。その機会を利用しない手はない。
「失礼いたします、お嬢様。本日のお茶でございます」
「……ええ」
私が恭しく紅茶を差し出すと、セレスティーナ様は、書類から目を離さないまま、カップに口をつけた。
もちろん、この紅茶は安全だ。茶葉の管理から、お湯を沸かす鍋、カップの選定、そしてお淹れするまで、全ての手順を私が一人で完遂した、完璧な一杯なのだから。
「…今日の紅茶は、少し味が違うわね」
「はっ! お口に合いませんでしたか!?」
「いえ…。むしろ、いつもより雑味がなく、頭がすっきりする気がするわ」
セレスティーナ様が、ほんの少しだけ、不思議そうな顔でカップを見つめている。
(当然です、我が君。あなた様が普段飲んでいらしたお茶には、毒物が混入しておりましたので!)
もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。
「そ、それはようございました! このリリア、我が君に最高のひとときを味わっていただくため、昨夜、夢の中で紅茶の妖精から秘伝の淹れ方を伝授されまして!」
「……そう。あなた、やはり少し頭がおかしいのね」
氷のような視線が突き刺さるが、今の私にそんなものは効かない。我が君がご無事であれば、狂人扱いなど、むしろご褒美だ。
だが、問題は、私が側にいられない時だった。
ある日の午後。侍女頭から、中庭に干してある大量のリネン類の回収を命じられた。
「お客様がお見えです。セレスティーナ様は、応接室でお茶を飲んでいらっしゃるから、決して邪魔しないように」
その言葉に、私の脳内で警鐘が鳴り響いた。
(まずい……! 私以外の誰かが、お茶を…!)
洗濯物を山のように抱え、私は中庭から応接室へと続く廊下を全力疾走した。角を曲がったところで、ちょうどお茶を運ぶアンナ先輩の後ろ姿が見える。
(間に合って…!)
応接室の扉が、少しだけ開いていた。
その隙間から、私は見てしまった。アンナ先輩が、来客と談笑するセレスティーナ様の前に、優雅な所作でティーカップを置くところを。
そして、セレスティーナ様が、そのカップに、まさに手を伸ばそうとした、その瞬間――。
私は、もう何も考えていなかった。
「きゃああああああっ!」
私は、わざとらしく、しかし人生で一番切実な悲鳴を上げながら、抱えていた洗濯物ごと、応接室の扉に突っ込んだ。
ガラガラガッシャーン!
バランスを崩した私が、アンナ先輩が使っていた給仕用のワゴンに激突。ワゴンは勢いよく倒れ、その上にあったティーポットも、残りのカップも、そしてセレスティーナ様の目の前に置かれていたカップも、全てが床に叩きつけられ、無残な音を立てて砕け散った。
部屋が、水を打ったように静まり返る。
来客も、アンナ先輩も、そしてセレスティーナ様も、床に散らばった陶器の破片と、紅茶の染みと、そして大の字に突っ伏している私を、呆然と見つめていた。
「ご、ごめんなさーい! あ、足が、足がもつれてしまってー!」
私は、床に顔を押し付けたまま、情けない声で叫んだ。
内心では、安堵のため息と、勝利のガッツポーズを同時に決めている。
(よし、完璧なタイミング! これで、我が君は一滴も毒を口にせずに済んだ!)
もちろん、その後、私は侍女頭から雷が落ちるどころか、この世の終わりのような形相で叱られた。来客への大失態、高価なティーセットの破損。その罪は、あまりにも重い。
給金の減額と、一ヶ月のトイレ掃除という罰を与えられたが、我が君の命を守れたと思えば、安いものだった。
その日から、私の奇行は、屋敷中で有名になった。
セレスティーナ様がお茶を飲もうとする、まさにその直前に、どこからともなく現れては、「熱すぎます!」「カップが汚れております!」と騒ぎ立て、カップをひったくっていく。
セレスティーナ様がお菓子に手を伸ばす、まさにその直前に、私が「お待ちください! そのお菓子には、我が家の名誉を汚す、重大な欠陥が!」などと意味不明なことを叫び、窓から放り投げる。
セレスティーナ様がスープを口に運ぼうとする、まさにその直前に、私がわざと躓いて、そのスープ皿に頭から突っ込む。
数々の「ドジ」と「失態」。そのたびに、私は侍女頭に叱られ、同僚からは白い目で見られ、屋敷での評判は地に落ちていった。
だが、不思議なことに、セレスティーナ様は、一度も私を解雇しようとはしなかった。
ただ、呆れたように、あるいは、何か得体の知れないものを見るような目で、私をじっと観察しているだけだった。
私には、その視線の意味は分からない。
ただ、確かなことが一つだけあった。
私が体を張って、秘密裏に危機を回避し続ける限り、セレスティーナ様は、今日も、明日も、生きていられる。
それで、十分だった。
私の孤独な聖戦は、まだ始まったばかりなのだ。