第七話:孤独な戦い
一週間の謹慎は、長いようで、あっという間だった。
私は、その間ずっと自室に籠り、「あれは悪夢だ」と自分に言い聞かせ続けた。だが、夜になるたびに蘇るビジョンは、日を追うごとに鮮明さを増していくようだった。
謹慎が明けた日、私は侍女頭から厳しいお説教の後、ようやく仕事への復帰を許された。
久しぶりに足を踏み入れた屋敷の廊下で、私は一つの決意を固めていた。
(確かめなくちゃ。あれが、本当にただの悪夢だったのかどうかを)
私は、お茶の用意をするという正当な口実を盾に、セレスティーナ様の私室へと向かった。
扉の前で許可を得て、中へ入る。セレスティーナ様は、いつもと変わらぬ氷の仮面を貼り付け、机の上の書類に目を通していた。
私が新しい紅茶を淹れようと、ワゴンに手を伸ばした時だった。
セレスティーナ様が、ふと、脇に置いてあったカップに手を伸ばした。私が来る前に、別のメイドが用意していったお茶だろう。
ごく当たり前の、日常の光景。
その、カップに添えられた彼女の指先を見た瞬間。
――ズキンッ!
私のこめかみに、鋭い痛みが走った。
そして、脳裏に一瞬だけ、おぞましいビジョンが、こびりつくように浮かび上がる。
薄暗い寝室。青白い顔で、荒い呼吸を繰り返すセレスティーナ様。誰にも看取られることなく、その瞳から光が失われ、唇の端から一筋の黒い血が流れる――。
「ひっ……!」
私は、小さな悲鳴を上げて、持っていたティーセットを取り落としそうになった。ガチャン、とカップがソーサーの上でけたたましい音を立てる。
「…何をしているの。騒々しいわね」
「も、申し訳ございません!そ、その、お茶が冷めているかと!」
私は、自分でも何を言っているのか分からないまま、口からでまかせを叫んでいた。
「すぐに、淹れ直してまいります!」
そう言って、私はセレスティーナ様が飲もうとしていたカップを、半ばひったくるようにして奪い取った。
そして、給湯室へ駆け込むと、中身を流しにぶちまける――寸前で、思いとどまる。
そうだ、これを調べればいいんだ。
私は、カップの中身を小さな空き瓶にこっそりと移し替えると、何食わぬ顔で新しい紅茶を淹れ、セレスティーナ様の元へ届けた。
その夜。私は、厨房の隅にある薬草管理室に忍び込んだ。
昼間、確保しておいた「証拠品」と、薬草図鑑を交互に見比べる。紅茶に混じっていた、微かな植物の匂いと色。それを頼りに、ページを必死にめくっていく。
そして、私は、見つけてしまった。
ある植物のページ。そこに書かれていた説明に、私の背筋は凍りついた。
――『少量であれば、ただの眠気や倦怠感を引き起こすのみ。しかし、長期にわたって摂取し続けると、神経に作用し、判断力を著しく鈍らせる。古来より、暗殺に用いられてきた歴史を持つ』――
やはり、毒だ。誰かが、我が君の命を狙っている。
私は、勝利を確信した。これだけの証拠があれば、侍女頭に、いや、公爵閣下に直接訴え出ることだってできるはずだ。
そう思った、その時だった。
図鑑の同じページ、その隅に書かれた、小さな小さな注釈が、私の目に留まった。
――『ただし、極めて強力な魔力を持つ者が、その暴走を抑制するために、秘伝の調合薬の材料として、ごく微量を用いることがある』――
全身の血が、逆流するような感覚。
「不吉の象徴」と言われる、セレスティーナ様の銀色の髪。彼女が常に纏っている、尋常ではない緊張感。
全てのピースが、最悪の形で、組み上がってしまった。
このお茶は、毒なのか、それとも薬なのか。
これだけでは、分からない。断定できない。
もし、これがセレスティーナ様ご自身が服用している「薬」だったとしたら? 私が「毒だ!」と騒ぎ立てることは、彼女の最も触れられたくない秘密を、白日の下に晒す最悪の裏切り行為になる。
告発なんて、できるはずがなかった。証拠が、あまりにも不十分すぎる。
私は、薬草図鑑を閉じて、ふらふらと自室に戻った。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
論理では、何も証明できない。証拠では、白黒つけられない。
前世の私なら、きっとここで諦めていただろう。確実性のないことに、手を出すべきではない、と。
でも。
脳裏に焼き付いて離れない、あのビジョン。
肌が粟立つようなリアルさ。心臓が凍りつくような絶望感。
あれが、ただの夢であるはずがない。
私は、ゆっくりと体を起こした。
前世で、六法全書と判例の世界で、私は論理と理屈に敗れた。
だったら。
今世では、信じてみようじゃないか。この、目に見えない、証明できない、私だけが体験した感覚を。
「……証拠なんて、どうでもいい」
ぽつりと、声が漏れた。
「私が見た。我が君が、あの冷たいベッドの上で、孤独に死んでいく姿を。…私だけが、知っている。それだけで、十分だ」
毒か、薬か。犯人がいるのか、いないのか。
全てが、分からない。
でも、あの未来だけは、私にとっての、絶対的な真実だ。
私は、固く、固く拳を握りしめた。
誰にも理解されない。誰にも信じてもらえない。証拠すらない。
それでも、やらなくちゃいけない。
絶望的なほど、孤独な戦い。
私の第二の人生は、この日、本当の意味で、その過酷な幕を開けたのだ。




