第六話:忘れられない悪夢
目が覚めると、見慣れた侍女用の宿舎の、簡素なベッドの上だった。
窓から差し込む光は、もうとっぷりと夕焼けの色に染まっている。
(……あれ? 私、どうなったんだっけ……)
混濁した頭で、必死に記憶の糸をたぐる。
そうだ、観閲式。暴走する馬。我が君を守りたくて、無我夢中で飛び出して……。
そこまでは、覚えている。
そして、最後に私が何をしたか。思い出した瞬間、顔からサッと血の気が引いた。
(絶叫した……。大勢の貴族たちの前で、みっともなく、狂ったように……)
終わった。
今度こそ、本当に終わった。失言やドジとは訳が違う。公衆の面前で、主家の名誉を著しく汚したのだ。
解雇どころか、良くて地下牢。最悪の場合、物理的に私の首が飛ぶだろう。
私がベッドの上で青ざめていると、ぎぃ、と音を立てて部屋の扉が開いた。入ってきたのは、同僚のアンナ先輩だった。その顔には、心配というより、好奇と非難の色が浮かんでいる。
「……気がついたのね、リリア」
「アンナ先輩……私、は……」
「侍女頭がお呼びよ。…まあ、覚悟していきなさい」
その言葉は、死刑宣告とほとんど同じ意味に聞こえた。
私は、震える足でなんとか立ち上がり、アンナ先輩に支えられるようにして、侍女詰所へと向かった。
侍女頭の部屋。その空気は、まるで氷室のように冷え切っていた。
仁王立ちで私を待っていた侍女頭は、私の顔を見るなり、怒りを通り越して、もはや呆れ果てたという声で言った。
「言い訳は聞きません。公衆の面前で狂乱するなど、ヴァイスハルト家の名を汚す、前代未聞の失態です。あなた一人のせいで、我々使用人一同が、どれほどの恥をかいたか……!」
私は、ただただ頭を下げることしかできない。どんな罰でも、受け入れるしかない。
「本来であれば、即刻解雇し、騎士団に引き渡すところです。ですが……」
侍女頭は、心底信じられない、といった様子で、言葉を続けた。
「セレスティーナ様が、庇ってくださったのよ」
「……え?」
「お嬢様が、『あの者は、私を庇って気を失っただけだ。過度の緊張で、少し錯乱したのだろう。騒ぎ立てるな』と、その場を収められたそうです。国王陛下の前で、あれほどきっぱりと……。私には、到底信じられませんが」
まただ。
また、庇われた。
あの失言の時も、そして、今回も。なぜ? どうして?
私の混乱をよそに、侍女頭は、不承不承といった様子で、最終的な処分を言い渡した。
「セレスティーナ様のご温情により、今回は特別に、一週間の謹慎処分とします。自室から一歩も出てはいけません。…いいこと? 本来なら、打ち首にされてもおかしくないのですよ! お嬢様への感謝を、ゆめゆめ忘れることのないように!」
私は、ほとんど夢遊病者のように頷き、ふらふらと自室へ戻った。
扉を閉め、一人になった瞬間、ベッドに崩れ落ちる。
(助かった……。でも、なんで……?)
セレスティーナ様の真意は、全く分からない。だが、それ以上に、私の心を蝕んでいたのは、別の恐怖だった。
気を失う直前に見た、あの光景。
(あのビジョンは、何だったんだ……?)
処刑台。ギロチン。民衆の怒号。そして、虚ろな瞳で、静かに死を待っていた、セレスティーナ様の顔。
思い出すだけで、全身の血が凍りつく。あまりにもリアルで、おぞましい記憶。
私は、恐怖を振り払うように、ぶんぶんと首を横に振った。
(そうよ、悪夢だわ。疲れていただけ。馬に轢かれるかもしれないっていう、極限状況だったんだから。ストレスで、変な幻覚を見たんだ。それだけのことよ)
そうだ、そうに違いない。
我が君が、あんなことになるはずがないじゃないか。
私は、そのおぞましいビジョンを「気のせい」「ただの悪夢」として、心の奥底に無理やり押し込み、鍵をかけた。今は、この不可解な状況を生き延びることの方が重要だ。そう、自分に強く言い聞かせた。
謹慎一日目の夜。
私は、疲労困憊で、すぐにベッドに潜り込んだ。
(大丈夫。あれは夢。明日になれば、きっと忘れてる)
そう願って、目を閉じる。
しかし。
暗闇の中で、脳裏に浮かんでくるのは、やはり、あの虚ろな瞳のセレスティーティーナ様の顔だった。
私の心臓に、冷たい棘が一本、深く、深く突き刺さったような、消えない不安。
それが、これから始まる長い悪夢の、本当の始まりなのだと、この時の私は、まだ気づいていなかった。