第五話:私の君に、指一本
幸運の女神は、間違いなく私に微笑んでいた。
あれほど熱望した観閲式への随行メイドに、私はなんと、抜擢されたのだ。理由はよく分からない。侍女頭が「お嬢様が、あなたを指名なさいましたから」と、苦虫を噛み潰したような顔で教えてくれただけだ。
(我が君が、この私を!? きっと、日頃の聖なる奉仕が天に通じたに違いない!)
私の脳内は、すっかりお花畑だった。
観閲式の朝。私は、セレスティーナ様のドレスアップを手伝いながら、そのあまりの美しさに、何度も呼吸を忘れた。深い瑠璃色のドレスは、彼女の白い肌と銀色の髪を、夜空に浮かぶ月のように際立たせている。
「何をぼうっとしているの。早く手袋を」
「はっ、はい! ただいま!」
相変わらずの氷のようなお言葉。だが、その声が、いつもよりほんの少しだけ、誇らしげに響いているように聞こえるのは、私の贔屓目だろうか。いや、きっとそうに違いない。
王都の中央広場に設けられた観閲式の会場は、熱気と興奮に満ち溢れていた。
ヴァイスハルト公爵家が案内されたのは、国王陛下の席にも近い、来賓席の最前列。セレスティーナ様がその席に着くと、私はその少し後ろ、控えている侍女たちの列に加わった。
(ああ、尊い……。我が君の晴れ舞台を、こんな特等席で拝見できるなんて……。眼福とは、まさにこのこと…!)
私は、もはや一人のファンとして、これから始まるセレモニーに胸をときめかせていた。
やがて、厳かなファンファーレが鳴り響き、騎士団の入場が始まった。馬の蹄が大地を打ち、磨き上げられた鎧が太陽の光を反射する。一糸乱れぬ馬術演武が始まると、観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こった。
壮麗な光景。平和な時間。
私が、この輝かしい一日を、生涯忘れることのない思い出として心に刻もうとしていた、まさにその時だった。
一頭の軍馬が、狂ったように甲高く、天を突くいななきを上げた。
次の瞬間、その馬は熟練の騎士を振り落とし、血走った目で、列を飛び出したのだ。
「きゃあ!」
「馬が暴れてるぞ!」
周囲の貴婦人たちの悲鳴が上がる。騎士たちが制止しようと動くが、間に合わない。
暴走した巨大な馬体は、一直線に、こちらへ向かってくる。
その進路上に、ただ一人。
来賓席の最前列に座る、我が君――セレスティーナ様が、呆然と立ち尽くしていた。
時間が、止まった。
頭の片隅で、冷静な自分が「逃げろ」と叫ぶ。私のようなモブメイドが飛び出したところで、二人まとめて踏み潰されて終わりだ、と。
でも。
体が、勝手に動いていた。
私の世界から、歓声も、悲鳴も、音楽も、全ての色が消え失せる。
ただ一つ、守るべき気高い銀色だけが、そこにあった。
(私の君に、指一本触れさせるものか!)
思考よりも早く、私は地面を蹴っていた。
迫りくる巨大な馬体。恐怖で足がすくむ。でも、その恐怖よりも強く、鮮烈な想いが、私を突き動かしていた。
「お嬢様っ!」
私は、セレスティーナ様の細い体を、ありったけの力で突き飛ばした。
柔らかな感触と、花のようないい香りが、一瞬だけ腕をかすめる。
入れ替わるように、私が馬の蹄に踏み砕かれる――その寸前。
突き飛ばしたセレスティーナ様の体勢を支えようと伸ばした私の指先が、彼女のドレスの腰元、護身用に提げられていた、美しい装飾の施された短剣の柄に、ほんの僅かに、触れてしまったのだ。
――その瞬間。
私の脳裏に、ありえない光景が、灼熱の鉄印のように焼き付いた。
『――ギロチンが、落ちる』
冷たい石の広場。聞き覚えのない、おびただしい数の民衆の怒号。
そして、無機質な断頭台の上で、虚ろな、何も映さない瞳で、静かに刃を待つ、セレスティーナ様の姿。
絶望。諦観。死の色。
「あ……が、ぁ……」
声にならない悲鳴が、喉の奥で潰れる。
なんだ、これ。
何、今の。
嫌だ、見たくない、考えたくない。
間一髪で、横から飛び込んできた騎士たちが、暴走した馬を取り押さえたらしい。物理的な危機は、去っていた。
私を突き飛ばそうとした騎士の手が、私の肩にかかっている。
突き飛ばされたセレスティーナ様が、侍女たちに支えられながら、驚いた顔で私を見ている。
大丈夫だ。我が君は、ご無事だ。
それなのに。
目の前の、無事な彼女の姿と、脳裏に焼き付いて離れない、首を落とされる瞬間の彼女の姿が、ぐちゃぐちゃに重なって。
私の理性のダムが、決壊した。
「いや……いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
私は、絶叫していた。
何に対して叫んでいるのかも分からないまま、ただ、目の前の幸福な現実を否定する、おぞましい悪夢を振り払うように。
広場が、水を打ったように静まり返る。
国王も、騎士も、貴族も、メイドも、全ての人間が、突然狂ったように叫びだした、名もなき一人のメイドを、ただ呆然と見つめていた。