第四話:メイドの仕事は聖なる奉仕(ホーリーサービス)
世界は、こんなにも美しかっただろうか。
侍女用の宿舎の、固くて軋むベッドの上で目覚めた朝。窓から差し込む一筋の光すら、今の私には、我が君の輝かしい未来を祝福する天啓のように思えた。
(おはようございます、世界! おはようございます、我が君! このリリア、本日も我が君にお仕えできる喜びに、魂の底から打ち震えております!)
前世の私がこの光景を見たら、「寝不足で頭がおかしくなったのか」と、冷たく言い放ったに違いない。だが、今の私は違う。
沼に落ちたのだ。深くて、暖かくて、抗いがたい魅力に満ちた、「推し」という名の沼に。
昨日までの無気力な私は死んだ。今日ここにいるのは、我が君セレスティーナ様にお仕えするためだけに生を受けた、新生リリア・アシュワースなのだ!
「リリア、あなた、今日はなんだか妙に張り切っているわね…」
「ええ、アンナ先輩! 人生とは、かくも素晴らしいものかと、夜を徹して考えておりました!」
「……そう」
同僚のアンナ先輩が、少し引いた目で私を見ているが、そんなことは些細な問題だ。
私のメイドとしての仕事は、もはや単なる労働ではない。我が君に捧げる、神聖にして不可侵な奉仕なのである。
「さあ、お嬢様の朝食の時間よ。今日はあなたが給仕当番でしょう?」
「はい! お任せください!」
私は、銀のトレイを恭しく捧げ持ち、セレスティーナ様の私室へと向かった。
今日のメニューは、完璧だ。焼き加減が絶妙なパン、領地で今朝採れたばかりの新鮮な野菜を使ったサラダ、そして隣国から取り寄せたばかりの最高級の茶葉で淹れた紅茶。その全てを、私は完璧に把握している。
「失礼いたします。朝食をお持ちいたしました」
「……ええ」
セレスティーナ様は、窓辺の椅子に座り、一冊の本を読んでいた。朝日に照らされた銀髪が、きらきらと光の粒子を振りまいている。
尊い。あまりの尊さに、呼吸が止まりそうだ。
(ああ、我が君! そのお姿は、まさに知性を司る月の女神! このパンは、あなたの美しき頬のようにふっくらと焼き上がり、このサラダの若葉は、あなたの聡明さのように生き生きと輝いております!)
内心でポエムを絶叫しながら、私は完璧な所作でテーブルセッティングを終えた。
セレスティーナ様は、静かに本を閉じ、パンを一口。そして、ほんのわずか、眉間にシワを寄せた。
その微細な変化を、私の“推しセンサー”が見逃すはずもない。
「お、お口に合いませんでしたか!? もしや、焼き加減が固すぎたのでは!? すぐにシェフを呼びつけ、一から作り直させ…いえ、万が一のことがあってはなりません! このリリアが、この舌で毒味を!」
「……騒々しいわね」
私が大騒ぎする前に、氷のような一言が、私の動きを凍りつかせた。
セレスティーナ様は、心底うんざりしたという顔で、私を見ている。
「ただ、少し考え事をしていただけよ。…あなた、最近少しおかしくない?」
「め、滅相もございません! 我が君にお仕えできるこの上ない喜びに、全身が打ち震えているだけでございます!」
私が、きらきらと輝く瞳で(自分ではそう信じている)答えると、セレスティーナ様は、さらに深い溜息をついた。
「……そう。ならいいわ。もう下がりなさい」
「はっ! 失礼いたしました!」
部屋を出た後、私は廊下の隅で胸を撫で下ろした。危ない危ない、愛が昂りすぎて、また失言をするところだった。
その日を境に、私の「聖なる奉仕」は、さらにエスカレートしていった。
書斎の整理では、セレスティーナ様が今まさに研究しているであろう分野の本を、さりげなく机の近くに移動させておく。羽根ペンのインクが切れそうになる、まさにその瞬間に、新しいインクポットをすっと差し出す。セレスティーナ様が肩を凝らせば、いつの間にか背後に立ち、「我が家に伝わる秘伝の揉み術がございますが…」と囁きかけて、悲鳴を上げさせる。
そんな奇妙な日々がしばらく続いた、ある日のこと。
朝のミーティングで、侍女頭から屋敷の全使用人に向けて、一つの通達があった。
「一週間後、王都にて、建国二百年を記念する盛大な観閲式が執り行われます」
侍女頭の言葉に、メイドたちの間にさざ波のようなどよめきが広がる。
「観閲式では、ヴァイスハルト公爵家は来賓として、最も名誉ある席でご覧になります。当日は、セレスティーナ様の身の回りのお世話をする侍女も数名、同行させることになります。くれぐれも、家の名に恥じぬよう、完璧な準備を。…いいですね?」
「「「はい!」」」
他のメイドたちが、緊張と興奮の入り混じった返事をする中、私の心は、別の感情で燃え上がっていた。
(か、観閲式ですって!? 我が君の晴れ舞台! それを、間近で拝見できるかもしれない、と!?)
なんという幸運! なんという天啓!
神様、ありがとうございます! この日のために、私は生まれてきたのかもしれない!
他のメイドたちが、誰が随行員に選ばれるかでひそひそと噂を交わし始める中、私は一人、固く拳を握りしめていた。
選ばれてみせる。絶対に。そして、我が君の、誰よりも輝かしいお姿を、この目に焼き付けるのだ。
この時の私は、まだ知らない。
この輝かしい一日が、やがて、私の第二の人生を、絶望の淵へと突き落とす、運命の日になるということを。