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第三話:かくして、私は沼に落ちた

その夜、私はほとんど眠れなかった。

 ベッドの中で、明日の朝、侍女頭から解雇を言い渡される自分の姿を、繰り返し繰り返し再生してしまう。あの氷のようなセレスティーナ様の瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。


(終わった……短い第二の人生だったな……)


 いっそ清々しいほどの諦観と共に、私は夜明けを迎えた。

 案の定、朝食の配膳を終えた直後、侍女頭に呼び止められる。来た。ついに、審判の時が。


「リリア、こちらへ」


 私は、処刑台へ向かう罪人のように、とぼとぼと侍女頭の後をついていく。侍女詰所の隅に連れてこられ、私は固く目を閉じた。さあ、どんな罵詈雑言が飛んでくるのか。


「あなた、昨日はセレスティーナ様のお部屋で、何か粗相をしましたか?」

「も、申し訳ございません!」


 考えるより先に、私は頭を下げていた。

 しかし、侍女頭から返ってきたのは、意外な言葉だった。


「……そう。まあ、いいです。お嬢様からは、特に何も伺っておりませんから」

「……え?」


 顔を上げると、侍女頭は怪訝な顔で私を見ている。

「ですが、不思議なこともあるものです。今朝、お嬢様から直々にご指名がありました」

「ご、指名…でございますか?」

「ええ。『今日も、あのメイドに書斎の整理をさせなさい』と。…リリア、あなた、一体お嬢様に何をしたのですか?」


 侍女頭の疑念に満ちた視線が、私に突き刺さる。

 だが、それ以上に、私の頭は混乱の極みにあった。

 お咎めなし? それどころか、ご指名? なぜ? あの失言は不問に? これは一体、なんの罠だ?


 分からない。何も分からないまま、私は昨日と同じように、重い足取りで書斎へと向かった。

 扉を開けると、セレスティーナ様は昨日と全く同じ姿で、机に向かっていた。私が入ってきたことに気づいても、ちらりと視線を寄越しただけ。その瞳は、やはり氷のように冷たいままだった。


 その日から、不可解な日々が始まった。

 私は毎日、セレスティーナ様に直々に呼び出され、書斎の整理を命じられるようになった。それは、他のメイドには決してさせない、公爵家の運営に関わるような、専門的な書物が並ぶ棚の整理だった。

 セレスティーナ様は、私に何も言わない。ただ、時折、値踏みをするような視線を向けてくるだけ。


(これは、なんの嫌がらせだろうか。私がどこまで耐えられるか、試しているのか…?)


 そうとしか思えなかった。毎日が、針のむしろに座るような心地だった。


 そんな日々が数日続いたある日のこと。

 私は、書斎の最も奥にある、普段は触れることさえ許されない書棚の整理を命じられた。そこは、ヴァイスハルト公爵家が代々受け継いできた、領地経営に関する機密文書が納められている場所らしかった。


(どうせまた、嫌がらせの一環だろう)


 半分投げやりな気持ちで、私は一冊の古びた本を手に取った。

 表紙には、金文字でこう書かれていた。


『痩せた土地のための輪作法改良論』


「……趣味が絶望的に地味」


 思わず、いつかの自分と同じ感想が口から漏れる。

 パラリ、と何気なくページをめくった、その瞬間。私の時間は、再び止まった。

 そこに広がっていたのは、びっしりと、おびただしい数のメモ。悩み、迷い、何度も書き直し、それでも答えを見つけ出そうともがいている、生々しい努力の跡。

 領地の地図を広げ、作物の不作を嘆き、民の暮らしを憂う、悲痛なほどの真摯さ。


 私は、吸い寄せられるように他の本にも手を伸ばした。

『水利権に関する考察』『隣国の税制史』『最新の医療薬草について』

どの本にも、同じように彼女の苦悩と情熱が、インクの染みとなって刻み込まれていた。


 人々が噂する『氷の薔薇』なんて、どこにもいない。

 不吉な銀髪を疎まれ、誰にも理解されず、たった一人で、この広すぎる屋敷の片隅で。

 彼女は、血が滲むような孤独な戦いを、ずっと、ずっと続けていたのだ。

 領地のために。民のために。


(……私は、何をやっていたんだろう)


 一度の挫折で、全てを投げ出して。言い訳ばかりして、ただ無気力に日々をやり過ごして。

 それに比べて、この人は。この、私とさして年の変わらない少女は。

 こんなにも重い責任を、たった一人で背負って、戦っている。


ドクンッ!


 空っぽだったはずの私の心臓が、ありえないほど大きな音を立てて跳ねた。

 前世では、友人が好きな俳優について熱っぽく語るのを、どこか冷めた気持ちで聞いていた。『推し』という概念が、私には縁遠いものだった。人が人に、あそこまで夢中になれる理由が、どうしても理解できなかった。

 でも、違った。

 今、生まれて初めて分かってしまった。魂が根こそぎ持っていかれるような、この抗いがたい熱量こそが、きっと、それなのだ。


(だめだ、見つけてしまった……。私が、この生涯の全てをかけてお仕えすべき、唯一無二の、気高い魂を……!)


 膝から崩れ落ちそうになるのを、本棚に手をついて必死にこらえる。

 これが……世に言う『推し』という概念か! なんて恐ろしい! そして、なんて甘美な響き!


(我がマイロード……! あなたは、こんなにも美しいお方だったのですね……!)


 リリア・アシュワースは、この日、この瞬間。

 深くて、暖かくて、そしてとてつもなく心地よい「沼」の底へと、自ら喜んで身を投げたのだった。


 世界が、色を取り戻していく。

 これまで「嫌がらせ」だと思っていたこの仕事が、実は「我が君(推し)の役に立てる、最高の機会」だったのだと、ようやく気づいた。


 私は、書斎の隅で、誰にも見咎められないよう、そっと拳を握りしめた。


(やります……やってやりますとも! このリリア、我が君のためならば、この身が灰になるまで、書斎の埃と戦い抜く所存です!)


 こうして、私の無気力な第二の人生は、輝かしい「推し活」の舞台へと、劇的な変貌を遂げたのである。

ご覧いただきありがとうございました。感想・評価・ブックマークで応援いただけると幸いです。

次話は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です。

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話を更新中です。(Xアカウント:@tukimatirefrain)

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