第二話:戯れと、初めての対話
処刑場に引かれていく罪人とは、きっとこんな心境なのだろう。
侍女頭に背中を押され、セレスティーナ様の書斎へと向かう私の足取りは、一歩ごとに鉛を呑み込んだかのように重かった。
(なぜ私が? もっとベテランのメイドはいくらでもいるだろうに。まさか、新人いびりの一環とか? 貴族社会、怖すぎる……)
重厚なマホガニーの扉の前で、私は二度、三度と深呼吸をした。ノックをする指が、意思とは関係なく微かに震える。
「失礼いたします。侍女頭の命により、書斎整理の手伝いに参りました、リリアと申します」
中から聞こえたのは、鈴を転がすような、しかし温度のない声だった。
「……入りなさい」
許可を得て、恐る恐る中へ足を踏み入れる。
そこは、インクと古い紙の匂いに満ちた、静謐な空間だった。壁という壁は、天井まで届く本棚で埋め尽くされ、その膨大な知識の森の中心で、一人の少女が机に向かっている。
銀色の髪を無造作にまとめ、普段のドレスではなく、動きやすいシンプルなワンピースを身に着けたセレスティーナ様。その姿は、まるで戦場の司令官のようにも、あるいは難解な魔法の研究に没頭する賢者のようにも見えた。
彼女は、私を一瞥すると、興味なさそうに顎で部屋の隅を示した。
「そこの古文書の整理を。年代順に並べ替え、傷んでいるものは報告なさい」
「か、かしこまりました」
それきり、会話はなかった。
書斎には、私が古文書のページをそっとめくる音と、セレスティーナ様が羽根ペンを走らせるカリカリという音だけが響く。気まずい、というレベルを通り越して、もはや私の精神がすり減っていくのが分かる。
(早く終われ、早く終われ……)
心の中で呪文のように唱えながら、私は黙々と作業に没頭した。
どれくらい時間が経っただろうか。不意に、セレスティーナ様のため息が聞こえた。それは、これまで聞こえてきたものよりも、ずっと深く、苛立ちの色が滲んでいる。
ちらりと視線を上げると、彼女は一枚の羊皮紙を前に、眉間に深いシワを寄せていた。
その時、何を思ったのか。セレスティーナ様は、まるで気まぐれに石ころでも蹴るかのように、唐突に私に声をかけた。
「おい、そこのメイド」
「は、はいっ!」
突然のことに、私の心臓が跳ね上がる。
「お前、これを見てどう思う」
彼女が示したのは、紋章の入った、何かの契約書らしき書類だった。
これは、一体なんの試練だろうか。正解などあるはずもない。どう答えるのが正解なんだ。頭の中が、真っ白になる。
私が答えに窮していると、セレスティーナ様は、さらに追い打ちをかけるように、冷たく問いを重ねた。
「答えられないのなら、それでもいいわ。では、これについて、何か一つでも、私を感心させるようなことを言ってみなさい」
無茶苦茶だ。あまりに理不尽な命令に、私の思考は完全に停止した。
そして、パニックに陥った人間の脳が、時としてとんでもない暴走をすることは、前世で嫌というほど経験済みだった。
気づいた時には、私の口は、勝手に動いていた。
何を言ったのか、自分でもよく覚えていない。
たぶん、前世でかじった、小難しい法律用語か何かの切れ端だったような気がする。あるいは、何かの本で読んだ、小賢しいだけの受け売りだったかもしれない。とにかく、一介のメイドが口にするには、あまりにも不相応で、場違いで、そして生意気な言葉の羅列だったことだけは確かだ。
一通りしゃべり終えて、私はハッと我に返った。
やってしまった。
目の前のセレスティーナ様は、何も言わない。ただ、今まで見たこともないほど冷たい、氷のような瞳で、私をじっと見つめている。
その視線は、怒っているというより、何か得体の知れないものを見るような、そんな色をしていた。
長い、本当に長い沈黙の後、彼女は静かに、そして冷たく、一言だけ告げた。
「……もういいわ。下がりなさい」
その声には、何の感情も乗っていなかった。
私は、震える足でなんとか立ち上がり、追い出されるように書斎を後にした。扉が閉まるその瞬間まで、背中に突き刺さるセレスティーナ様の視線が、やけに重く感じられた。
(終わった……今度こそ、本当に終わった……)
自室への帰り道、私の足取りは、来た時よりも比べ物にならないほど、重かった。
明日の朝、侍女頭から解雇を言い渡される自分の姿が、やけにリアルに目に浮かぶ。
たった数日の、あまりにも短いメイド人生だった。