第百十話:器の囁き
開かずの書斎の冷たい床の上で私は、セレスティーナ様を抱きしめ続けていた。
彼女の体は氷のように冷たい。だがその魂核の奥深くでは、彼女自身のマナと「災厄の器」として暴走する力が激しい拒絶反応を起こし、荒れ狂っているのが私には分かった。
(しっかりしてください、お嬢様……!)
どれほどの時間が経っただろうか。
ふと、私の腕の中で彼女の体がびくりと痙攣した。そして、うっすらとその瞼が開かれる。
「……お嬢様!」
だが、その月白色の瞳に私の姿は映っていなかった。ただ、虚空を見つめその唇がか細く震えている。
彼女は今、自らの精神世界でもう一人の「自分」と対峙していたのだ。
――
そこは全てが凍てついた絶対零度の世界だった。
かつて父やリリアと過ごした温かい思い出の欠片が、全て氷の彫像と化して静かに佇んでいる。
その絶望的な世界の中心に、セレスティーナは一人立っていた。
そして目の前の巨大な氷の鏡の中から、もう一人の「彼女」が語りかけてくる。
『――見なさい。これこそが、あなたの、本当の姿』
その声はセレスティーナ自身の声でありながら、どこか神々しく、そして冷たい響きを帯びていた。「災厄の器」そのものの声。
『全てを、喰らい尽くし、無に還すこと。それこそが、あなたに与えられた、唯一の、役割。さあ、受け入れなさい。その、ちっぽけな、人間の感傷など、捨ててしまいなさい』
「嫌……私は……」
『まだ、分からないの? あなたが、生きているだけで、世界は、歪む。あなたが、誰かを、愛せば愛すほど、その愛は、呪いとなって、相手を、蝕むのよ』
鏡の中にリリアの姿が映し出される。
彼女が、自分を守るために傷つき、苦しみ、そして今も自分のために必死に戦ってくれているその姿が。
『あの娘を、本当に、救いたいと、思うのなら。あなた自身が、消えるしかないのよ』
その甘い悪魔の囁き。
セレスティーナの気高い魂が、そのおぞましい「正しさ」の前に、少しずつ砕け散っていく。
――
セレスティーナ様の瞳から一筋、涙が零れ落ちた。
そして、その唇が私に向け懇願の言葉を紡いだ。
「……リリア……お願い……私を、殺して……」
そのあまりに悲痛な響きに、私の心は張り裂けそうになる。
だが、私はここで折れるわけにはいかない。
「嫌です」
私は涙をぐっとこらえた。そして、彼女のその冷たい体をさらに強く抱きしめる。
「何があっても、あなた様を、死なせはしない。このリリアが、必ず、あなた様を、救ってみせます」
私の揺るぎない誓いの言葉が、彼女の砕け散りかけた魂に届くことを、ただ信じて。
私は彼女の名を呼び続けた。
この長い、長い夜が明けることを祈りながら。
第百十話「器の囁き」、いかがでしたでしょうか。セレスティーナの、内なる絶望と、それを支えようとする、リリアの、悲痛な決意。
次回、第百十一話「教授への手紙」。万策尽きたリリアは、最後の望みをかけ、あの、謎めいた教授に、助けを求めます。どうぞ、お楽しみに。
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