第十話:この気持ちに、名はつけない
嵐が、去っていった。
セレスティーナ様は、私の腕に薬を塗り終えると、一言も発しないまま、静かに部屋を出て行ったのだ。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
部屋に一人残された私は、ただ呆然と、自分の腕を見つめていた。包帯の下から、薬の清涼な香りが漂ってくる。そして、それ以上に鮮明に、セレスティーナ様の指先の感触が、肌に残っているような気がした。
(……あの時間は、一体、何だったんだ…?)
夢でも見ていたのだろうか。あの『氷の薔薇』が、この私を、手ずから看病してくださるなんて。
私は、その夜、ほとんど眠れなかった。寝返りを打つたびに、心臓が、あの時のように、ドクン、ドクン、と大きく鳴る。その意味を、私はまだ、知りたくなかった。
次の日から、私の世界は、また少し、その色合いを変えてしまった。
我が君が、今日も変わらず尊いことに、違いはない。
だが、私の目は、いつの間にか、彼女の些細な仕草ばかりを、追うようになっていた。
書斎で、難解な書物に目を通す、真剣な横顔。
午後の紅茶を飲む、形の良い、薄い唇。
考え事をする時に、無意識に、一房の銀髪を指に絡める、その仕草。
ふとした瞬間に、ドレスの襟元から覗く、白い首筋。
そのたびに、私の心臓は、命令を無視して、不規則に跳ねた。顔に、カッと血が上る。これまで完璧にこなしてきたはずのメイド仕事で、ありえないような小さなミスを繰り返すようになった。
(私は、何をやっているんだ……!)
ある日の午後、セレスティーナ様にお出しする紅茶のカップに、違う種類のソーサーを合わせてしまい、侍女頭に厳しく叱責された後。私は、自室で、激しい自己嫌悪に陥っていた。
(我が君は、私が生涯をかけてお仕えすると誓った、神聖な、気高いお方だ。それなのに、私が向けているこの視線は、なんだ?)
それは、ただのファンが、憧れの対象に向ける、純粋な尊敬の眼差しではない。
もっと、生々しくて。自分本位で。そして、汚れている。
(これは、裏切りだ)
純粋なファンの心を失い、邪な気持ちで、我が君をいやらしい目で見てしまっている。
私は、我が君の、影に徹する完璧な守護者でなければならないのに。どうして、こんな風に、彼女を「一人の女性」として、欲しがってしまうんだろう。
気持ち悪い。最低だ。
私は、そんな自分を、心の底から軽蔑した。
私のそんな内心の葛藤を、もちろん、セレスティーナ様が知る由もない。
だが、私の態度の変化には、気づいているようだった。
「…リリア」
「は、はいっ!」
書斎で、またぼうっとしていた私に、セレスティーナ様が、ふと声をかけた。
「あなたの顔、まるで茹でダコのようよ。熱でもあるのなら、医務室へ行きなさい」
いつもの、温度のない声。だが、その言葉は、的確に私の心の急所を抉った。
見透かされている。私の、この汚れた気持ちを。
そう思うと、ますます顔が熱くなり、みっともなく狼狽えることしかできなかった。
「だ、大丈夫でございます! これは、我が君への忠誠心が、燃え盛っているだけでして!」
「……そう。その割には、さっきから三十分も、同じページの埃を払っているようだけれど」
「……っ!」
セレスティーナ様は、それ以上は何も言わず、再び手元の書類に視線を落とした。
だが、彼女の視線が、これまで以上に、じっとりと、私を観察する色を帯びていることに、私は気づいていた。
その夜。私は、自分の心に、最終通告を突きつけていた。
(このままでは、ダメだ。こんな邪な気持ちを抱えたままでは、いずれ、我が君を守るという聖なる任務に、必ず支障をきたす)
この、胸の奥で生まれた、甘くて痛い感情。
これに、「恋」だなんて、名前をつけてはいけない。
これは、任務を妨害するバグだ。取り除くべき、邪念だ。
(忘れよう。この気持ちは、気の迷いだ。私は、我が君の、影。それ以外の感情は、いらない)
固く、固く、そう決意する。自分の心に、分厚い蓋をした。
これでいい。明日からは、また、完璧な守護者に戻るんだ。
私は、窓の外に浮かぶ、美しい月を見上げた。
それは、我が君の髪と同じ、清らかな銀色をしていた。
「……でも」
無意識に、声が漏れた。
「どうして、あんなに……指先が、優しかったんだろう」
一度、自覚してしまった想いが、そう簡単に消えるはずもないことを。
私は、まだ、知らなかった。




