待ち構える剣士
翌朝、まだ空が白み始めたばかりの頃、俺は宿を出た。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
目を凝らすと、これから入る黒葉の森の方角から、濃い朝靄がゆったりと流れ出し、宿場全体を淡いヴェールのように包み込んでいるのが見えた。
なんだか幻想的な光景だ。
軽く伸びをして、背囊の紐を締め直す。
さあ、出発だ。
慣れた足取りで歩き出そうとした、その時だった。
「エドさん!」
後ろから、少し弾んだ女性の声がした。
聞き覚えのある声に、振り返る。
朝靄の中から現れたのは、昨夜話した冒険者パーティー『黒い短剣』の剣士、フィオナだった。
彼女は軽装だが剣を携えており、朝靄の中に他のメンバー、ゴードン、ザック、ライラ、ピップもぼんやりと立っているのが見えた。
どうやら、俺を見送りに来てくれたらしい。
フィオナは俺に近づき、少し身構えるように立ちはだかった。
「エドさん、早いですね。もう行くんですか?」
「ええ、まあ。日が昇りきる前に出発したかったもので」
「そうですか…。あの、昨日の話、聞いてました? 黒葉の森、最近危ないんですよ。行方不明になる人が多いんです」
フィオナは真剣な顔で言った。
その言葉に偽りはないだろう。
彼女たちの拠点近くの森なのだから、情報も確かだろう。
「ええ、聞きました」
「エドさんって、なんだか飄々としてて、腕には自信がありそうに見えたんです。でも、本当に大丈夫なんですか? 一人で行くにはちょっと…」
心配してくれているのだろうか。
まあ、昨夜少し話しただけだが、根は悪い人たちではなさそうだ。
「それなりですが、大丈夫だと思いますよ」
俺はいつものように、曖昧に答える。
あまり強く断言すると、余計な詮索が入るかもしれない。
「それなりって…連れないこと言わないでくださいよ! 腕に自信があるなら、ちょっと相手してください!」
そう言い切るかと思わないうちに、フィオナは腰の剣を一気に抜き放った!
朝靄の中、刃がきらりと光る。
そして間髪入れずに、低く構えた体勢から下段からの鋭い斬り上げが、俺の足元目掛けて襲いかかってきた。
…おっと、いきなりか。しかも結構本気だ。
俺は慌てた様子など微塵も見せず、ただ一歩、横に躱す。
フィオナの剣先が、俺の革鎧の裾を紙一重で掠めて空を切った。
「っ! 躱した!」
フィオナが驚いたような声を上げた。
だが、攻撃は止めない。
流れるような動きで剣を返し、素早い連続の切り返し。
そして、隙間を縫うような鋭い突きが続けざまに繰り出される。
なるほど、中々の技量だ。
基本がしっかりと身についている上に、実戦経験も豊富らしい。
衛兵隊にいた頃、これだけの剣士は数えるほどしかいなかった。
真面目に訓練している衛兵でも、彼女相手では分が悪いだろう。
フィオナは「躱してばかりじゃ駄目だよ!」と言いながら、さらに剣速を上げてくる。
その瞳に宿る殺気は本物だが、そこに明確な殺意はない。
あくまで、俺の腕前を測ろう、あるいは稽古をつけようという意図だけだ。
どうやら、ここで少し相手をしないと、このまま森の入り口まで着いてきかねない勢いだ。
俺はため息を一つついて、腰の片刃剣を静かに抜いた。
カキン! キィン!
朝靄の中、金属が打ち合う乾いた音が響く。
フィオナの剣は速く、そして重い。
正面からの打ち合いでは、こちらも相応の力で受け流さなければ体勢を崩されるだろう。
数回の打ち合いを経て、フィオナはさらに連続の突きを放ってきた。
その中に、ほんの一瞬、全身の体重を乗せた渾身の一撃が紛れているのがわかった。
俺はそれを、剣で真正面から受け止めることはしなかった。
剣をわずかに傾け、相手の力を利用するように「いなす」。
体勢を崩されたフィオナの背後に、一瞬で回り込んだ。
ヒュッ…
朝靄の中に微かな風の音が響き、俺の剣先が、フィオナの首筋にぴたりと向けられた。
これで終わりだ。
「フィオナっ!」「エドさんっ!」
離れて見ていた『黒い短剣』のメンバーが、一斉に駆け寄ってきた。
ゴードンとザックは剣を構え、ライラはいつでも動ける体勢、ピップは少し怯えたような顔をしている。
フィオナは、向けられた剣を横目に、そして俺の顔を見て、観念したようにハハッと笑った。
「…参りました。降参です」
そう言って、持っていた剣を鞘に納め、両手をゆっくりと上げた。
俺も剣を下ろし、鞘に戻す。
「大丈夫か? 怪我は?」
「ええ、大丈夫です。無傷…あれ?」
フィオナは自分の体を見回し、服を軽くはたきながら怪我がないことを確認する。
「おいおいフィオナ! どうしたんだよ!」
「あんなにあっさり…」
「エドさん、一体…」
メンバーたちが口々に驚きの声を上げる。
彼らにとって、フィオナがこんなにもあっさり負けるのは予想外だったのだろう。
「くっそー! まったく手が届きませんでしたよ! ていうか、手加減されましたよね!? なのにこの実力差…なんか、悔しいより呆然としちゃいました」
フィオナは苦笑いをしながら、どこか清々した顔で言った。
「攻撃が、ちょっと直線的過ぎるかな……」
俺は、それだけを簡潔に伝えた。
別に教える義理はないが、まあ、ちょっと付き合ってやった礼儀みたいなものだ。
「直線的…なるほど…」
フィオナは顎に手を当てて考え込む。
その頃には、朝靄もだいぶ晴れ始め、宿場の方から人々の話し声や馬車の音が聞こえてきた。
一日の始まりだ。
「では、俺はこれで」
俺は『黒い短剣』の皆に軽く会釈をした。
「あっ! エドさん! 気をつけてくださいね!」
「北に行くならいい冒険者を紹介できるぜ!」
「困ったことがあったら、ノーレストの冒険者ギルドで『黒い短剣』って言えば俺たちのことわかるから!」
皆が口々に声をかけてくれた。
フィオナも、真剣な顔で俺を見送っている。
「ありがとう。機会があれば」
曖昧に返事をして、俺は再び黒葉の森の方角へ向き直った。
朝の光が差し込み始めた道を、一歩ずつ踏み出す。
フィオナとの手合わせは、少し楽しく、悪い気分ではなかった。
さて、これから入る黒葉の森は、一体どんな景色を見せてくれるのだろうか。