黒葉の森、再び
再び足を踏み入れた黒葉の森は、以前と変わらず、昼なお暗い静寂に包まれていた。
俺は、人攫いの小屋で手に入れた詳細な地図と、ノーレストのギルドで買った広域地図の二種類を交互に見比べながら、慎重に進む道を選んでいた。
「ロウェナ、この先はゴブリンの縄張りらしい。少し道が険しくなるが、迂回するぞ」
「……ん」
俺の言葉に、ロウェナは小さな声で返事をし、俺の外套の裾をしっかりと握る。
地図に記された魔物の縄張りを避け、比較的安全なルートを選んで進む。
それでも、森の中は危険と隣り合わせだ。
俺は常に周囲への警戒を怠らず、ロウェナの歩調にも気を配った。
街道沿いの開けた場所で休憩を取る。
昼食の硬いパンを齧る前に、ロウェナが背囊から何かを大事そうに取り出した。
ザックがくれた、木彫りの鳥のお守りだ。
失くしていないか確かめるように、その歪な鳥の形を優しく指で撫でている。
(……寂しいんだろうな)
賑やかだった『黒い短剣』との旅路を思い出しているのだろう。
昼食を終え、再び歩き始めた俺たちの目の前に、異様な光景が広がった。
街道の真ん中に、一匹の狼型の魔物が、喉を掻き切られて転がっている。
まだ新しい死体だ。
誰かが、俺たちの少し前を通り、これを仕留めて、邪魔にならないように街道の脇へと避けたのだろう。
俺は眉をひそめ、警戒を一段階引き上げながら進むことにした。
その日の夜営は、人攫いの地図に記されていたポイントを目指すことにした。
地図が示す場所へ慎重に向かうと、そこには大きな岩に囲まれた、天然の洞窟があった。雨風を凌ぐには最適な場所だ。
中を調べると、荷物を置くための簡単な棚が設置されており、壁には誰かが残していったらしい、鳴子などの警戒用の道具がいくつか揃っていた。
人攫いが使っていたものだろうが、今はありがたい。
焚き火を熾し、洞窟の入り口周辺に、音で侵入者を知らせる鳴子をいくつか仕掛ける。
干し肉をたっぷり入れた温かいスープと黒パンで夕食を済ませると、俺は焚き火の明かりを頼りに、ロウェナに簡単な文字を教え始めた。
まずは、彼女自身の名前からだ。
その夜は、細切れの睡眠だったが、鳴子のおかげで、以前一人で夜営した時よりもずっと安心して朝を迎えることができた。
朝食を終え、鳴子を回収する。
「これは、もらっていくか。どうせ、もう使う人もいないだろうしな」
鳴子は、これからの旅で役に立つだろう。
昨日と同じように、二つの地図を頼りに森の中を進んでいく。
地面には巨大な獣の足跡が残り、木々の上の方には、人が通れるほどの大きさの、粘着性の高そうなクモの巣が張られているのが見えた。
その度に、俺たちは地図と睨めっこし、迂回路を探して戦闘を極力避けた。
やがて、見覚えのある場所にたどり着く。
人攫いの拠点だった、あの壊れた小屋だ。
だが、その小屋の前に、複数の人影が見えた。
俺は咄嗟に身を潜め、ロウェナにも静かにするよう手で合図する。
しばらく様子を伺っていると、崩れた小屋の中や、その周囲から、同じような鎧に身を包んだ者たちが次々と現れた。
(……衛兵か)
「ロウェナ、大丈夫だ。あれは衛兵だ。すぐにここを離れるから、一緒に行くぞ」
俺はロウェナにそう伝え、隠れるのをやめて小屋の方へと向かった。
俺たちの姿に気づいた衛兵たちが、一斉にこちらを向き、剣の柄に手をかけて警戒態勢に入る。
「待ってくれ、敵意はない」
俺は両手を高く上げ、敵ではないことを示す。
ロウェナも、俺の真似をして、小さな両手を一生懸命に上げていた。
森の中を、しかも子連れで歩いている俺たちの姿は、彼らにとって余計に怪しく映っただろう。
「俺はエドウィン。以前、この小屋を発見し、ノーレストの衛兵詰所で、ルイス隊長……だったかな、その方に報告した者だ」
うろ覚えだったが、隊長の名前を出すと、衛兵たちの間に動揺が走った。
彼らの警戒が少しだけ解ける。
「ここで何を?」
俺が尋ねると、隊長らしき男が答えた。
「我々は、君からの報告を受け、この小屋の見分と、黒葉の森の巡回を強化している。人攫いの残党が戻ってこないか、何か他に手がかりがないか、そして、報告にあったドレイクの件もあってな。我々以外にも、複数の班がこの森を巡回中だ」
なるほど、それで狼の死体があったのか。
衛兵たちに礼を告げ、俺たちはその場を後にした。
しばらく進むと森を横断する大きな川までたどり着く。
前回ここを通った時は、飛び越えられるほどの小さな川だったはずだ。
だが、先日の雨の影響だろう、今は川幅が広がり、濁流が渦巻いている。
川沿いにしばらく進むと、かろうじて一本の丸太橋が架かっているのを見つけた。
「ロウェナ、手を離すなよ。慎重に渡るぞ」
俺はロウェナの手を固く握り、丸太橋へと足を踏み出した。
橋の中ほどまで来た時だった。
ザバッ、と水面が割れ、二匹の巨大な水蛇が、ぬらりとした鎌首をもたげた。
「っ!」
俺は咄嗟にロウェナを自分の背後へと引き寄せる。
それと同時に、鋭い牙を剥き出しにした噛みつきと、鞭のようにしなる尻尾での薙ぎ払いが、左右から同時に襲いかかってきた。
足場の悪い橋の上。
俺は冷静に、迫りくる二つの攻撃を剣で捌き、反撃の一閃で、片方の水蛇の尻尾を斬り飛ばした。
ザンッ!
切り離された尻尾が、橋の上でビチビチとのたうち回る。
思わぬ反撃に怯んだのか、二匹の水蛇は、すぐに水の中へと姿を消していった。
俺は尻尾を拾いロウェナを抱きかかえながら、急いで橋を渡りきる。
橋から離れた場所で立ち止まり、ロウェナを降ろす。
ロウェナは突然の出来事に怯え、放心したように立ち尽くしていた。
「大丈夫だ、ロウェナ。もう、川からは離れたから」
俺は優しく声をかけ、ロウェナを宥めながら、川から離れた安全な場所で夜営の準備を始めた。
周囲に鳴子を仕掛け、焚き火を熾す。
夕食は、先ほど手に入れた水蛇の尻尾を食べてみることにした。
薄く切り分け、串に刺して火で炙る。
ロウェナは、得体の知れない食材を前に、嫌そうな顔をしている。
「まあ、見てろって」
俺は先に、こんがりと焼けた一切れを口に放り込んだ。
(……うん、いけるな。昔、衛兵時代に食べた大トカゲの肉に似てる)
鶏肉のような、淡白だが旨味のある味だ。
俺が美味そうに食べるのを見て、ロウェナはとても渋い顔をしながら、恐る恐る一切れを口にした。
そして、目を丸くする。意外と美味しかったようで、結局、俺の分までおかわりをねだるほどだった。
寝る前には、また文字の練習をした。
地図を広げ、ロウェナに現在地を指し示す。
「見てみろ、ロウェナ。もう、森の半分は過ぎた。あと少しで、この森を抜けられるぞ」
俺の言葉に、ロウェナは安心したようにこくりと頷き、俺の腕に寄り添ったまま、静かに眠りへと落ちていった。




