最初の一歩と旅立ちの夜
背囊を背負い、腰の剣に手を置いて領都の門をくぐる。
慣れ親しんだ石畳から土の道へと足を踏み出した瞬間、なんというか、肩の力が抜けたような気がした。
衛兵の職を失ったことへの感傷は、旅への期待感にかき消されている。
門を出てすぐのところに、見慣れた顔があった。
衛兵仲間のギルだ。
俺より少し年上で、面倒見のいい兄貴分みたいな存在だった。
嫁さんと子供がいて、結構所帯持ちならではの苦労話を聞かせてくれたっけ。
「よ、エド。やっぱり見送りに来ちまったぜ」
「ギルか。悪いな、わざわざ」
「何言ってんだ。急な話で、俺たちも何もできなくて悪かったな」
ギルは気まずそうに頭を掻く。
抗議してくれた衛兵の中にギルもいたことは知っている。
こいつのせいじゃない、領都を治める貴族の都合だ。
「気にするなって。むしろ、これでしがらみがなくなって気楽になったぜ。前から旅に出たいと思ってたんだ」
まあ、嘘じゃない。子供の頃からの夢だったんだから。
人間関係がリセットされたのをきっかけだと思えば、悪い話じゃない。
「そうかよ。お前、そういうとこあるよな。何を考えてるかわからねぇけど、案外面倒見はいいし、頼りになると思ってたんだがな」
ギルは少し寂しそうに言う。
俺の実力については全く知らないだろうけど、一緒に仕事をしていく中で、まあ、それなりには評価してくれていたらしい。
そう思われているなら、実力を隠していた甲斐もあったというものだ。
「で、これはうちの嫁さんからだ。餞別だってさ。保存がきくように干し果物にしたってよ」
そう言って、ギルは布袋を差し出した。中にはリンゴやベリー、プルーンなんかがぎっしり詰まっている。
「奥さんにまで気を遣わせちまったか。悪いな、助かるよ」
「いいってことよ。どこへ行くか知らねぇが、道中気をつけろよ。お前、見た目より頑丈そうに見えないからな」
ギルの言葉に苦笑いする。
見た目とは裏腹に、これまで一度も病気らしい病気をしたことがないし、怪我も適度に「負けていた」だけで、実際はかすり傷程度だ。
まあ、それは秘密だが。
「ああ、ありがとう。ギルも家族と元気でな」
「おうよ。いつかまた、どこかで会えるかもな」
短い会話を交わし、ギルと別れる。
振り返らずに歩き出した。
布袋から一つ、干しリンゴを取り出して口に含む。
甘酸っぱくて、なんだか少しだけ目頭が熱くなった。
これは、面倒見のいい奥さんの味がする。
領都の門が遠ざかっていく。
ここからが、本当の始まりだ。
手帳を開き、記しておいた地図を眺める。
まずは適当に南へ行ってみるか。
目指すは、次の宿場町だ。
街道は領都の中と違って舗装されていない。
雨が降れば泥濘むだろうし、埃も舞う。
でも、衛兵として街中を歩き回るだけでなく、時には周辺の警邏にも出ていたから、こういう道は慣れている。
足にかかる負担も気にならない。
時折、街道を行き交う人々とすれ違う。
大きな幌をかけた商隊。
御者の鞭の音が響く駅馬車。
俺と同じような身なりの旅人。
皆、それぞれの目的地に向かって歩いている。
広々とした空の下、一人で歩くのは、なかなか悪くない気分だ。
今日はどんな宿に泊まれるだろうか。
飯は美味いだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に時間が過ぎていく。
歩く速度は、まあ、そんなにもいかないくらいだろう。
急ぐ旅ではないから、景色を見たり、道端の花を眺めたりしながら、のんびり進む。
日が傾き始める頃、街道沿いにいくつかの建物が見えてきた。
宿場町だ。
領都から一番近いからか、かなり賑わっているようだ。
人も馬車も多く、活気にあふれている。
さて、宿を探さなければ。
金はそこそこあるが、これから先のことを考えると無駄遣いはしたくない。
手頃で、静かに休める宿がいいな。
宿場の入り口近くで、客待ちをしている駅馬車の御者を捕まえる。
「すいません、ちょっとお伺いしたいんですが」
「おう、なんだい旅のお兄さん」
「この辺りで、手頃でいい宿知りませんか? あんまり高くないとこで」
御者は顎を撫でながらいくつか宿の名前を教えてくれた。
どの宿がどんな雰囲気か、飯は美味いか、泊まり客はどんな人が多いかなど、なかなか詳しい情報を聞くことができた。
教えてもらったうちの一つ、街道から少し外れたところにある宿に向かった。
外見は質素だが、落ち着いた雰囲気だ。悪くなさそうだ。
宿に入り、カウンターで一晩の宿賃を払う。
二階の部屋に通された。
簡素な部屋だが、清潔に掃き清められている。
床に背囊を下ろすと、どさりと鈍い音がした。
旅の重みというか、ようやく地に足をつけた感じがする。
一息つく間もなく、腹が鳴った。
もう夕食の時間だ。
賑やかな声が響く一階の食堂へ向かう。
食堂は、御者や商人、他の旅人でごった返していた。
テーブルに着くと、宿の女将さんが愛想なくメニューを持ってくる。
並んでいるのは、肉の煮込みや硬いパン、豆のスープといった、どこでも食べられるような定番の料理ばかりだ。
領都の衛兵宿舎で出ていた食事と大して変わらない。まあ、美味ければ文句はない。
煮込みとパン、それからビールを注文する。
周囲の喧騒を聞きながら、黙々と食事を摂る。
騒がしいのは少し苦手だが、一人で黙っていても浮かないくらい賑やかなのは助かる。
食事を終え、部屋に戻る。
窓の外はすっかり暗くなり、遠くで誰かが歌っている声が聞こえる。
ベッドに横になり、天井を眺める。
硬い寝心地だが、悪くない。今日一日、結構歩いたからか、身体が疲れている。
旅が始まったんだな、と改めて思う。
先のことは何も決まっていないけれど、不安よりも好奇心の方が強い。
明日、どこへ行こうか。何をしようか。
柄頭を撫でながら、瞼を閉じた。最初の夜は、静かに更けていく。