決死の籠城と、泥だらけの帰還
静まり返った寝室の空気を、遠くから響く無数の足音が無残に引き裂いた。
石造りの廊下を乱暴に踏み鳴らす、重厚なブーツの靴音。
金属の鎧が擦れ合う無機質な響きと、荒々しい怒号が、幾重にも重なり合ってこちらへ近づいてくる。
先ほどの扉を粉砕した轟音を聞きつけ、屋敷中を捜索していた傭兵部隊が、一斉にこの最奥の区画へと殺到してきているのだ。
「……ざっと見積もって、三十から四十ってところか」
窓際から廊下へと視線を移し、エドが面倒くさそうに首の骨を鳴らした。
そして、ベッドの傍らで父の手を握る弟子へと、静かに視線を向ける。
「どうする、クリス。今の親父さんを無理に動かせば、確実に息の根が止まるぞ。……見捨ててずらかるか、ここで迎え撃つか」
突きつけられた、冷徹な二択。
エドは決して手を差し伸べることはせず、ただ静かに弟子の決断を待った。
クリスはベッドへ視線を落とした後、ゆっくりと立ち上がった。
「……逃げません。ここで迎え撃ちます」
その声に、迷いは一切なかった。
かつて重圧から逃げ出した青年はもういない。
愛する家族を背に庇い、どれほどの絶望が迫ろうとも一歩も退かない、一人の戦士の顔がそこにあった。
「……そうか」
エドの口の端が、不敵な弧を描く。
「たまには泥臭い籠城戦も悪くない。手伝うさ」
エドは迷うことなく、先ほど吹き飛ばした分厚いマホガニーの扉の残骸へと歩み寄った。
大人三人でも持ち上がらないような重厚な木材と鉄の塊を、事もなげに蹴り上げ、引きずり、寝室の入り口に積み上げていく。
瞬く間に、入り口の半分を塞ぐ強固な『バリケード』が完成した。
さらにエドは、床で気絶しているウォルシュ子爵の襟首を掴むと、無造作に引きずってバリケードのすぐ内側へと放り投げた。
「こいつを盾に置いときゃ、大がかりな道具や弓は使えねぇはずだ」
狭い扉の枠と、積み上げられた残骸。
そして足元に転がる雇い主。
どれほど大軍で押し寄せようと、この部屋に入るには、必ず二、三人ずつしか通れない死地を抜けなければならない。
「来るぞ」
エドが低く告げると同時に、廊下の角から武装した傭兵たちの先頭が姿を現した。
「あそこだ! 扉が壊されてるぞ!」
「ネズミ共を皆殺しにしろ! ……待て、足元に子爵様が倒れてるぞ!」
血走った目をした男たちが、入り口の惨状を見て一瞬だけ足を止める。
だが、その隙をクリスが見逃すはずがなかった。
低く腰を落とし、積み上げられた扉の残骸の隙間から、愛用の槍を真っ直ぐに突き出す。
――ガキンッ!
「ぐあっ!?」
先頭の男の膝の関節を、石突が正確に打ち砕く。
悲鳴を上げて前のめりに倒れ込んだ男の背中を、後続の傭兵たちが止まりきれずに踏みつけ、入り口付近で無様な玉突き事故が発生した。
「ええい、邪魔だ退け!」
体勢を立て直した別の傭兵が、子爵を踏まないようにバリケードを乗り越えようと飛びかかってくる。
だが、その顔面に、エドの無造作な拳が深々と沈み込んだ。
鈍い破裂音と共に、男の意識が刈り取られ、バリケードの外側へと弾き飛ばされる。
倒れた男たちの体が新たな障害物となり、さらに敵の進行を阻んでいく。
「矢は射るな! 子爵様に当たるぞ!」
「押し込め! たかが二人だ!」
怒号が飛び交い、無数の刃が狭い入り口に向けて無差別に振り下ろされる。
クリスは槍の長さを最大限に活かし、敵が剣を振りかぶるその一瞬の隙、鎧の関節部や手首を正確に突き崩していった。
命を奪うためではない。
確実に戦闘能力を奪い、無力化するための冷徹な槍捌き。
エドもまた、突き出された槍の柄を素手で掴み取ると、強引に引き寄せて相手の鳩尾に膝蹴りを叩き込み、奪った武器の柄で次々と後続を打ち据えていく。
終わりの見えない、血みどろの防衛戦。
十分、あるいは二十分が経過しただろうか。
床には優に二十を超える傭兵たちが折り重なって倒れ伏し、うめき声を上げている。
だが、邸内のあちこちから増援が駆けつけ、敵の数は一向に減る気配を見せない。
クリスのこめかみを、滝のような汗が伝い落ちる。
槍を握る手のひらはとうに擦り切れ、呼吸は火を噴くように熱い。
隣で戦うエドの顔にも、明確な疲労の色が滲み始めていた。
(……くそっ、キリがない)
エドが小さく舌打ちをした、その時である。
「ええい、退け! 埒が明かん!」
後方から響いた、指揮官らしき男の苛立った声。
押し寄せていた傭兵たちが左右に割れ、入り口の前に分厚い鋼の大盾を持った屈強な男たちが数人、横一列に並び立った。
「大盾隊、前へ! 子爵様を踏まないように気をつけながら、部屋の奥へ力で押し潰せ!」
じり、じり、と。
鉄の壁が、圧倒的な質量を伴ってバリケードごと押し込んできた。
隙間がない大盾に対しては、クリスの槍の突きも致命打にはならない。
エドが素手で盾を押し返すが、数十人の男たちが背後から一斉に押してくる圧力は凄まじく、二人の足が少しずつ、寝室の奥――ベッドの方へと後退させられていく。
押し潰されるのは、時間の問題だった。
絶体絶命かと思われた、まさにその瞬間である。
――ドゴォォォォォンッ!!
盾を構える傭兵たちのさらに後方、廊下の角の向こう側から、屋敷全体を揺るがすような凄まじい爆発音が弾け飛んだ。
「なっ、何だ!?」
「背後から敵襲――ぎゃあっ!?」
混乱して振り返ろうとした大盾隊の背中に、暗闇から放たれた無数の矢が、雨霰と降り注いだ。
急所を避け、正確に手足を貫く恐るべき狙撃。
盾を支えていた男たちが次々と悲鳴を上げて崩れ落ち、鉄の壁が脆くも崩れ去る。
立ち込める土煙と硝煙の向こう側から、幾つもの影が悠然と歩み出てきた。
「……待たせたな、雇い主」
ニヤリと笑ってボウガンを下ろしたのは、煤と泥にまみれた白髪交じりの男。
その背後には、同じく泥だらけになりながらも、鋭い眼光を放つ三人の仲間たちが控えている。
そして。
彼らの中央から、見慣れた細身の青年が、抜き放った剣を片手に駆け出してきた。
「兄上ッ!!」
アーサーだった。
宿屋で陽動と護衛を任せていた彼らが、包囲網を完全に突破し、この本邸の最奥まで辿り着いたのだ。
「外の猟犬どもは、あらかた片付けてきたぜ。……これでお前ら、完全に挟み撃ちだ」
Bランク冒険者たちが、冷酷な笑みを浮かべて残る傭兵たちを包囲する。
前方には、死の山を築き上げた底知れぬ二人の戦士。
後方には、無傷で殺気を放つ歴戦の冒険者パーティ。
完全に退路を断たれ、圧倒的な力量差を見せつけられた傭兵たちの心から、最後に残っていた戦意がポキリと音を立てて折れた。
カラン、カラン……。
誰かが落とした剣の音が引き金となり、次々と武器が床へ投げ出されていく。
男たちは両手を上げ、その場に力なく膝をついた。
制圧の完了。
重苦しい静寂が戻った廊下を抜け、アーサーが真っ直ぐに寝室の中へと飛び込んでくる。
床に転がるウォルシュ子爵には目もくれず、アーサーはベッドの傍らへと歩み寄り、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
ベッドの上。
侯爵の顔色はまだ青白いが、その胸は、先ほどよりも僅かに力強く、確かなリズムで上下を繰り返していた。
命の危機は、去ったのだ。
「父上……」
震える手でシーツを握りしめ、アーサーの瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
その後ろ姿を、クリスは槍を杖代わりにして立ちながら、静かに見下ろしていた。
全身は埃と汗にまみれ、呼吸は荒く、足は鉛のように重い。
だが、その横顔に浮かんでいたのは、かつてないほどの安堵と、やり遂げた者だけが持つ確かな誇りだった。
「……遅くなって、悪かったな」
不器用な兄の声に、アーサーは振り返ることなく、ただ何度も何度も首を横に振って嗚咽を漏らした。
部屋の隅。
エドは壁に背中を預け、ずるずると腰を下ろしながら、大きく息を吐き出した。
(……やれやれ。とんだ大立ち回りだったな)
疲労で重くなった瞼を、ゆっくりと閉じる。
粉砕された窓の向こう。
長かったハイモア領の暗い夜が、終わりを告げようとしていた。
東の空が白み始め、柔らかな朝日の光が、傷だらけの兄弟と、彼らを守り抜いた泥だらけの戦士たちを、等しく温かく照らし出していた。




