閑話 鉄の女の、淡く苦い記憶
武道大会が始まる前の隙間のお話です。
静まり返った夜のギルド宿直室。
私は手元にある、一枚のメモ――昼間、エドに渡した地図の控えを眺めながら、赤ワインの入ったグラスを揺らしていた。
「……ふふ。やっぱり、変わらないわね」
ぶっきらぼうな物言いに、面倒くさそうな態度。
けれど、いざという時は誰よりも頼りになる、その背中。
アルコールが回ると共に、意識の底に沈殿していた古い記憶が、泡のように浮かび上がってくる。
それはまだ私が『鉄の女』なんて呼ばれる前の、未熟で、弱くて……自分の無力さに打ちひしがれていた頃の話だ。
◇
十数年前。
ギルドに入局して半年が経った頃の私は、焦っていた。
事務処理能力はあっても、現場を知らない。
冒険者たちからは「温室育ち」と陰口を叩かれる毎日。
だから私は無理をして、王都近郊の調査依頼の『記録係』に志願した。
それが、間違いだった。
「――逃げろぉぉッ!!」
王都近郊の森だと高を括っていたのが運の尽きだった。
遭遇したのは、季節外れの魔物の群れ。
同行していたCランクパーティは統率を失い、散り散りに敗走した。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
私も無我夢中で走った。
木の根に足を取られ、眼鏡がどこかへ飛び、制服は泥だらけになった。
それでも止まることはできなかった。
後ろから聞こえる魔物の咆哮が、死神の声に聞こえたからだ。
どれくらい逃げただろうか。
体感で、三日は経っていたと思う。
水も食料もない。方向も分からない。
寒さと飢えで限界を迎えた私は、大きな木の根元にうずくまり、震えていた。
(私は、ここで死ぬの……? まだ、何も成し遂げていないのに……)
ザッ、ザッ、と草を踏む音が近づいてくる。
魔物だ。見つかったんだ。
私は悲鳴を上げようとしたが、乾いた喉からはヒューという音しか出なかった。
「……なんだ、人間か」
頭上から降ってきたのは、呆れたような男の声だった。
恐る恐る顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。
年齢は二十歳そこそこだろうか。
王都の煌びやかな騎士鎧とは違う、見たこともない意匠の、実戦的な鎧を身につけている。
目つきは鋭いが、どこか気怠げな雰囲気を纏った男だった。
「死にかけてるな。……ほらよ」
男は腰の水筒を無造作に投げてよこした。
「飲め。生き返るぞ」
私は震える手でそれを受け取り、貪るように喉に流し込んだ。
ただの水が、甘露のように感じられた。
「あ、あなたは……?」
「森で迷子になった冒険者達を探してる衛兵だ。行くぞ、街道まで送ってやる」
男はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。
近くで演習をしていた地方貴族の部隊が、逃げ延びた冒険者から話を聞いて、捜索隊を出してくれていたのだと後で知った。
◇
私はふらつく足で、男の後ろをついて歩いた。
ガサガサッ!!
街道まであと少しというところで、茂みが大きく揺れた。
飛び出してきたのは、私たちが遭遇した群れのボス格――巨大な牙を持つ魔獣だった。
「ひっ……!」
足がすくんで動けない。
魔獣が私を目掛けて飛びかかってくる。
死ぬ。
そう思った瞬間、男が私の前に立った。
彼は剣を抜いた。
名剣でも聖剣でもない、ごく普通の鉄剣。
彼は叫びもしなければ、気合を入れることもしなかった。
ただ、スッ――と。
半歩だけ、前に踏み込んだ。
魔獣の爪が、男の鼻先を掠める。
それは偶然ではない。計算され尽くした「見切り」だった。
攻撃が空振り、魔獣の体勢が崩れたその一瞬。
男の剣が、最短距離を走った。
ズンッ。
正確無比なカウンターが、魔獣の急所を貫いていた。
「おーい! こっちだ!」
「加勢するぞ!」
直後、草木をかき分けて、他の衛兵たちが駆けつけてきた。
男は剣を引き抜き、血振るいをしながら、何事もなかったように言った。
「遅いぞ、お前ら。もう終わった」
その背中は、恐怖に震える私にとって、あまりにも大きく、そして美しく見えた。
その後、私は捜索隊の野営地に保護された。
温かいスープを貰い、人心地ついた私は、お礼を言おうとあの男を探した。
けれど、彼は上官らしき騎士に「引き渡したぞ」とだけ報告し、名乗ることもなく衛兵たちの輪の中へ戻っていってしまった。
◇
王都に戻った私は、助けてくれた衛兵を探し回った。
けれど、「地方の領都の衛兵」ということ以外手がかりがなく、見つけられないまま月日が流れた。
そんなある日。
同僚に誘われ、気晴らしに『武術大会』を見に行った時のことだ。
「ねえミネルヴァ、知ってる? 今年の注目株」
「いいえ。誰なの?」
「謎の『仮面の剣士』よ。今年で三連覇がかかってるんですって」
闘技場のリングに、その男は現れた。
顔の上半分を覆う仮面。
口元だけが露出している、不気味な出で立ちだ。
「……あれ、ルール違反じゃないの?」
「それがねぇ。本人が『これは兜の一種だ』って言い張って、規定の盲点を突かれたのよ。顔が見えないなんて興醒めだって運営も言ってるんだけど、防具として認めざるを得なくて……」
同僚が呆れたように言った。
試合が始まった。
対戦相手の猛攻に対し、仮面の剣士は動かない。
そして、相手が大振りの一撃を放った瞬間。
スッ――。
彼は半歩だけ動き、流れるような動作でカウンターを決めた。
私の心臓が、早鐘を打った。
あの動き。あの、無駄のない所作。
森の中で私を守ってくれた、あの衛兵の背中と完全に重なった。
「ねえ、あの人……名前は!?」
私は思わず同僚の袖を掴んだ。
「え? ああ、登録名は偽名よ。住所も適当。去年も一昨年も同じ手口でね……こいつのせいで、今年から参加審査が厳重になったのよ。まったく、迷惑な男よね」
結局、その剣士は危なげなく三連覇を成し遂げ、優勝賞金を攫って姿を消した。
そして、演習に来ていた公爵一行も領都へ帰還し、全ての手がかりは途絶えた。
◇
――そして、現在。
私はグラスに残ったワインを飲み干し、窓の外の月を見上げた。
ずっと探していた。
あの時の衛兵を。仮面の剣士を。
そして今、目の前に「エド」という男がいる。
仕草、口調、あの一歩踏み込む剣技、そして何より醸し出す雰囲気。
すべてが一致した。
彼こそが、私の命の恩人であり、私が追い求め続けた「理想の戦士」だ。
「……ふふ。お礼、まだ言えてなかったわね」
私は空になったグラスをテーブルに置いた。
明日からの試合、そしてその後の勇者との対面。
彼がどんな顔をするのか、今から楽しみで仕方がない。
これは、鉄の女と呼ばれる事務員が胸に秘めた、誰にも言えない淡く苦い記憶。
ちょっとした閑話です。
ミネルヴァの過去編?的な感じで書きました。
ミネルヴァがエド達に親しくしたがるのか補足ですね。




