湯の暖かさ
広大な草原を、俺とロウェナはゆっくりと歩き始めた。
抜けるような青空の下、風が草を揺らす音が心地よい。
森の中の張り詰めた空気とは全く違う、解放感のある景色だった。
ドレイクとの戦闘、そして森を駆け抜けた疲労がどっと押し寄せてくるのを感じる。
それでも、隣にロウェナがいることが、足を進ませる理由になっていた。
残っていた干し果物の小袋を取り出し、ロウェナに渡す。
ロウェナは小さく頭を下げ、一粒、また一粒と大切そうに口にした。
俺も一つもらって食べる。
マルコにもらい、森に入る前に足した干し果物。
この素朴な甘さがここまでの道のり……あの森での激闘と、この草原での安らぎを繋ぐ、小さな思い出になっている。
歩きながら、俺はロウェナに話しかけ続けた。
一方的な会話だが、ロウェナはちゃんと俺の声を聞いてくれている。
「森に来る前は、どこにいたんだ?」
ロウェナは何も言わず、ただ首を横に振る。
「捕まる前のこととか、覚えてないか?」
再び、ゆっくりと首を横に振る。
「…そうか」
無理に思い出させる必要はないだろう。
忘れられることなら、忘れた方がいい過去なのかもしれない。
「これから、何か行ってみたい場所とか、あるか?」
今度も首を横に振る。
「会いたい人とか、いるか?」
同じように首を横に振る。
ロウェナは、過去にも、未来にも、何も思い当たる節がないらしい。
まるで、数日前に俺が森で拾ったばかりの、真っ白な存在のようだった。
まあ、仕方ないか。
「よし。じゃあ、取り敢えず、ノーレストの街まで行こう」
俺はそう決めて、ロウェナに伝えた。
「あの森を抜けた先にある、大きくて賑やかな街らしい。そこで、これからどうするか、ゆっくり考えよう」
俺の言葉を聞いて、ロウェナは何も言わなかったが、小さく頷いた。
そして、俺が羽織っている外套の裾を、小さな手でキュッと掴んだ。
まるで、俺の存在を確認するように。
俺は立ち止まり、ロウェナの頭にそっと手を乗せた。
「大丈夫だよ」
優しく撫でてやる。
ロウェナは少し擽ったそうに、でも嬉しそうに、俺の手に頭を擦り付けた。
そんなことをしながら歩いていると、遠くに見えていた建物が、徐々に大きくなっていく。
点だったものが線になり、やがて個々の建物として認識できるようになった。
近づいてみると、それは街道沿いにある宿場だった。
黒葉の森の入り口手前にあった宿場と同じような規模だが、もっと開けていて、賑わっているように見える。
宿場の一番目立つ場所にある、二階建ての大きな宿を目指した。
綺麗で、何より暖かい湯が期待出来る。
森を駆け抜けて、体は汗と埃と返り血でベトベトだ。
ロウェナも、いつから身体を洗えていないかわからない。
多少、値が張っても構わない。
今日は贅沢をしよう。
宿の受付で声をかける。
愛想のいい女将さんらしき人物が応対してくれた。
「部屋を一つ。それと、湯を二つ、部屋に運んで欲しいんだが」
女将さんは手慣れた様子で受付してくれる。
部屋代に加え、湯の手間賃と、森を抜けてきて汚れていることへの心付けとして、少し多めにお金を払った。
宿屋は、こういう場所では情報が集まるし、顔を売っておいて損はない。
「それと、この子の着替えを探しているんだが、この辺りで子供服を扱っている店はあるか?」
ロウェナをちらりと見て、尋ねる。
女将さんはロウェナのボロボロの服を見て、少し気の毒そうな顔をした。
「ああ、それならこの道をまっすぐ行ったところに、小さな仕立て屋があるよ。既製品もいくつか置いてるはずだ」
女将さんに教えてもらった仕立て屋の場所を頭に入れ、部屋の鍵を受け取る。
「湯は部屋を準備したらすぐ運ばせるよ。ゆっくり休んでおくれ」
宿の階段を上り、指定された部屋へ向かう。簡素だが、清潔で、温かい空気が満ちている。これだけで十分だ。
ロウェナを部屋に置いて休ませようとしたが、どうにも俺から離れようとしない。
仕方なく、連れて仕立て屋へ向かった。
仕立て屋は、女将さんの言った通り、宿場の中にぽつりと建っていた。
店内には、様々な布地や仕立て中の服が並んでいる。
年配の店主が温かく迎えてくれた。
ロウェナに合いそうな服を何着か見繕う。
地味な色のものを選ぼうとしたが、ふと、明るい色の服に目が留まった。
旅に出るなら、少しは明るい方がいいかもしれない。
「これでいいかな?」
ロウェナに服を見せると、ロウェナは必死に首を横に振る。
どうやら、自分に服を買ってもらうのが申し訳ないらしい。
「いいんだよ。君に必要なんだ」
俺は構わず、ロウェナに似合いそうな、少し明るい色のチュニックと、丈夫なズボン、それに下着などを数着選んだ。
ついでに、ロウェナの小さな背中に合いそうな、丈夫な革製の背囊と外套も一つ買った。
これからは、自分で荷物を持たせた方が良いだろう。
「服は自分で持ってるんだぞ、ロウェナ。これからは君のだ」
新しい服と背囊・外套をロウェナに手渡す。
ロウェナは、申し訳なさそうにしながらも、とても嬉しそうな、複雑な笑顔で頷いた。
宿に戻ると、部屋には湯気の立つ大きめの桶が二つ用意されていた。
湯の温かい匂いが部屋中に広がっている。
「さあ、まずはお前が綺麗になるんだ」
ロウェナに、湯が張られた桶を示す。
ロウェナは少し戸惑いながらも、服を脱ぎ始める。
ボロボロになった服を脱ぎ捨てると、その痩せた体が露わになった。
全身に、森の中を逃げてきた際にできたであろう擦り傷や、古い傷跡が痛々しい。
ロウェナは湯に浸かり、ぎこちない手つきで体を洗い始める。
だが、慣れていないのだろう、上手く洗えていない。
「貸してみろ」
俺は近くにあった手ぬぐいを湯に浸し、優しく絞る。
そして、ロウェナの背中にそっと触れた。
「……ん…」
ロウェナが、首を振る。
「いいんだ。気にするな」
俺は構わず、手ぬぐいでロウェナの背中を優しく洗い始めた。
泥汚れや汗が湯に溶け出し、やがて湯の色が変わっていく。
髪も、湯で丁寧に流してやる。
長い間洗えていなかったのだろう、泡立ちが悪かった髪が、洗うにつれて少しずつ柔らかくなっていった。
全身を綺麗にしてやると、ロウェナの顔色が、見違えるように明るくなった。
大きなタオルで全身を拭いてやり、仕立て屋で買ってきた新しい服を着せる。
少し大きいが、これならしばらく着られるだろう。
ロウェナが綺麗になったのを見届け、俺も残りの湯を使って体を洗った。
熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい湯加減だ。
湯で身体を拭いながら、ここ数日の出来事を思い返した。
ドレイクとの激闘、ロウェナとの出会い。
気ままな旅のはずが、まさかこんなことになるなんて。
湯から上がり、体を拭いて、新しい下着と清潔な服に着替える。
ボロボロになった革鎧は手入れが必要だ。
二人とも小綺麗になり、用意されたベッドに横たわる。
柔らかいシーツの感触が心地よい。
ここまで張り詰めていた緊張が、フッと解けた気がした。
横を見ると、ロウェナはもう目を瞑っていた。
安らかな寝息を立てている。
新しい服を着て、暖かい部屋で、安全な場所で眠れる安堵を感じているのだろうか。
俺もゆっくりと目を閉じた。
食事は後でいい、今はゆっくりと眠ろう。
明日は準備をして、それから、ノーレストの街へ向かうおう。




