琥珀色の酒と、仮面の剣聖
宿屋『大猪のあくび亭』の一階。
夕食を終えた俺たちは、部屋に戻ろうと階段へ向かっていた。
「へへっ、ストラーノの旦那」
その時、ほろ酔い加減の宿主が、カウンターの中から親しげに声をかけてきた。
「今年の『武術大会』はどうするんで? またあの時みたいに、ド派手に優勝さらっていくんですかい?」
俺は足を止めた。
この親父、昼間から飲んでいるのか、口が軽くなっている。
「……おい親父、声がでかい。俺はただの観光客だ。人違いだろう」
「へへへ、またまた~。俺の目は誤魔化せませんぜ。あんたの背中、昔とちっとも変わってねぇもの」
「昔の話だ。……行くぞ、バナーレ」
俺はクリスの背中を押し、逃げるように階段を上がった。
「師匠、武術大会って……?」
「ただの世間話だ。気にするな」
俺は適当にはぐらかしたが、入り口付近の柱の陰に、見慣れたスーツ姿の女性が立っていたことに気づかなかった。
彼女――ミネルヴァの眼鏡の奥の瞳が、鋭く光ったことを。
部屋に戻り、ロウェナをベッドに寝かしつけた後のことだった。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「こんな時間に誰だ?」
クリスが警戒して扉を開ける。
そこに立っていたのは、書類の束と、高級そうなワインボトルを二本抱えたミネルヴァだった。
「こんばんは。……夜分にごめんなさいね」
「ミネルヴァさん? どうしたんですか、そんな荷物を持って」
「『完了報告書』に不備があったのよ。サインが一つ抜けていたわ」
彼女は書類をヒラヒラと振った。
「そんなもん、明日の朝でいいだろう」
俺が呆れて言うと、彼女は悪戯っぽく笑った。
「ギルドの事務員は几帳面なのよ。……お詫びに、いいお酒を持ってきたわ。入れてくれる?」
完全に確信犯だ。
俺はため息をつきつつ、ドアを開けた。
「……入れよ。ちょうど寝酒が欲しいと思ってたところだ」
部屋の小さなテーブルを囲み、木製のマグカップに赤ワインが注がれる。
芳醇な香りが部屋に満ちた。
「乾杯」
俺とミネルヴァ、そして少しだけクリスも付き合ってグラスを合わせた。
一口飲む。深いコクと滑らかな舌触り。
安宿で出る酒とは別次元の代物だ。
「……で? わざわざ高い酒を持ってきた理由はなんだ?」
俺が単刀直入に切り出すと、ミネルヴァはグラスを回しながら言った。
「さっき、下で宿主と話しているのを聞いたわ。……気になって、ギルドの記録庫を調べてきたの」
「仕事が早いな」
「私の特技よ。……ねえ、十数年前の話よ。この王都の闘技場に、彗星の如く現れた謎の剣士がいたわ」
ミネルヴァは語り始めた。
その剣士は常に『仮面』をつけて素性を隠し、圧倒的な実力で名だたる騎士や冒険者をねじ伏せた。
派手な技も魔法も使わず、ただ研ぎ澄まされた剣技だけで。
「彼は三年連続で優勝し、観客から**『仮面の剣聖』**と呼ばれた。でも、四度目の大会を前に、忽然と姿を消したの」
クリスがゴクリと唾を飲み込む。
「最近では『仮面の剣士』って呼ばれているわね、それで、その名にあやかった偽物が時々現れるわ。でも、どれも実力が伴わない人ばかり」
ミネルヴァは眼鏡の位置を直し、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「……本物が戻ってきたとなれば、ギルドとしても見過ごせないわね。ストラーノさん?」
沈黙が流れた。
俺は苦笑し、残りのワインを一気に煽った。
「……参ったな。そこまで調べがついているなら、隠しても無駄か」
「師匠、やっぱり……!」
クリスが目を輝かせて身を乗り出す。
俺は空になったカップを置き、天井を見上げた。
「二十歳の頃だ。当時、俺はヴェステリア公爵の護衛として、王都に長期滞在していたんだ」
「ヴェステリア公爵……! 先代のですよね? 領都の領主様で、文武両道の方だという……」
「ああ。滞在期間は三年ほどだったかな」
俺は懐かしむように目を細めた。
「当時は若かったし、血の気も多かった。『自分の剣が王都でどこまで通用するか試したい』なんて、青臭い野心もあったんだよ」
だが、一介の衛兵が、王都の騎士や有名冒険者を公衆の面前で叩きのめせば、主君である公爵に迷惑がかかる。
「だから仮面をつけて、正体を隠して出場したんだ。……ま、結果はあんたの言った通りだ」
「二回目あたりから話題になりすぎて、歩くのも大変だったわね」
「違いない。三回目の優勝の後、公爵の任期が終わって領都へ帰ることになった。いい潮時だと思って、そのまま仮面を捨てたのさ」
俺は肩をすくめた。
「ただの若気の至りだよ。名誉なんて興味なかったしな」
話を聞き終えたミネルヴァは、満足そうに頷いた。
「やっぱり、私の目に狂いはなかったわけね。……どう? 今年は出ないの? 本物の剣舞、私に見せてくれないかしら」
「断る」
俺は即答した。
「俺の時代は終わった。それに、もう目立つのは御免だ」
「えぇ……。師匠、僕も見たいです。師匠の本気の試合……!」
クリスまで食い下がってくる。
「ダメだ。俺たちの目的はあくまで『旅』だ。これ以上、無駄に目立って足止めを食らうわけにはいかない」
俺が頑として首を横に振った、その時だった。
「んぅ……」
話し声で目が覚めたのか、ベッドの毛布がもぞもぞと動いた。
ロウェナが眠い目をこすりながら顔を出す。
「……えど、たたかうの?」
完全に寝ぼけている。
ミネルヴァが一瞬眉を動かしたが、何も言わずに微笑んでいる。
「いや、戦わないぞ。寝てなさい、ロウェナ」
俺が優しく言い聞かせると、ロウェナはクリスとミネルヴァの顔をキョロキョロと見て、何かを察したように俺の服の裾を掴んだ。
そして、上目遣いで言った。
「……ろうぇな、みたい」
「ん?」
「えどのかっこいいところ、みたい! 仮面、かっこいい!」
その純粋無垢な瞳による直撃攻撃。
俺の心臓にクリティカルヒットが入った。
「うっ……」
「だめ……?」
うるうるとした瞳で見つめられる。
俺の鉄の意志が、音を立てて粉砕されていくのが分かった。
「……はぁ」
俺は深い、深い溜息をついた。
「今回だけだぞ。……ったく、しょうがないな」
俺が頭をかくと、ミネルヴァが「ふふっ」と勝ち誇ったように笑った。
「やっぱり、女の子には弱いのね」
彼女は手元の書類の束から、一枚の羊皮紙をスッと差し出した。
『武術大会 参加登録用紙』。
最初から用意していたらしい。
「……準備がいいな」
「事務員ですから」
俺は渋々ペンを取り、サラサラとサインをした。
王都の闘技場に、再び『仮面』の伝説が帰ってくることが決まった夜だった。




