黄金の掲示板と、バナーレな選択
宿屋『大猪のあくび亭』の朝は早い。
一階の食堂には、これから仕事に向かう職人や日雇い労働者たちが詰めかけ、ガチャガチャと食器を鳴らす音が響いている。
「……おはようございます、ストラーノさん」
向かいの席についたクリスが、どこか恨めしそうな顔で挨拶をしてきた。
「おう、おはようバナーレ君」
俺がニヤリと笑って返すと、クリスはガックリと肩を落とした。
「……やっぱりその名前、変えませんか? 意味を知ってる人がいたら笑われますよ。『平凡』だなんて」
「名前なんてただの記号だ。目立たなけりゃ何でもいいんだよ。……な、リベルタ?」
「ん! りべるた、パンおかわり!」
ロウェナは新しい名前が気に入ったのか、ご機嫌な様子で堅焼きパンをスープに浸している。
俺たちは簡単な朝食を済ませ、部屋に戻って装備を整えた。
足元はまだ、革のブーツのままだ。
王都に潜む「目」を誤魔化すため、しばらくあの青い脛当てはお預けだ。
「よし、行くぞ。まずは路銀の確保だ」
王都の中央広場に面した一等地に、その建物はあった。
『冒険者ギルド王都本部』
重厚な石造りの外観は、まるで神殿か巨大な銀行のようだ。
入り口は三つに分かれており、高ランク冒険者用、一般用、そして納品業者用と、それぞれの目的に合わせて絶え間なく人が吸い込まれていく。
「これが王都のギルド……カレドヴルフの三倍はありますね」
クリスが圧倒されたように呟く。
ロビーに足を踏み入れると、凄まじい熱気と喧騒が押し寄せてきた。
数百人はいるであろう冒険者たちの話し声、羊皮紙を捲る音、受付の呼び出し声。
それらが混じり合い、巨大な唸りとなって空間を支配している。
「ひとがいっぱい!」
ロウェナがキョロキョロと辺りを見回す。
俺は二人の肩を引き寄せた。
「スリに気をつけるんだぞ。ここは戦場と同じだ。ボヤッとしてると、財布どころか装備まで剥がされる」
俺は人波をかき分け、壁一面に設置された巨大な掲示板の前へと進んだ。
そこには、地方の支部とは桁違いの数の依頼書が張り出されている。
「さて、どれにするか……」
俺が品定めをしていると、クリスが一枚の依頼書を指差した。
「師匠、これなんかどうですか? 『街道に出没するオーガの討伐』。報酬もいいですし、僕たちなら……」
「却下だ」
俺は即答した。
「えっ? でも、近郊の依頼ですよ?」
「よく地図を見ろ。王都の『近郊』ってのは、ここから片道二、三日の距離のことを言うんだ」
俺は依頼書の詳細を指で弾いた。
「王都の周辺は、衛兵の巡回もしっかりしてるし、人通りも多い。魔物だって馬鹿じゃないから、そんな危険地帯には寄り付かねぇよ。つまり、魔物が出るような場所に行くには、それだけ遠出をしなきゃならん」
移動だけで数日。
現地での探索と戦闘、そして帰還。
下手をすれば一週間コースだ。
「今の俺たちの目的は、手っ取り早く王都での生活基盤を整えることだ。移動で時間を食う依頼は効率が悪い」
俺は討伐依頼のコーナーから視線を外し、地味な色合いの依頼書が集まる「採取・運搬」のコーナーへと移った。
そこから、数枚の依頼書を引き剥がす。
「こっちだ。『祝祭用の発光苔の採取』、それに『屋台の骨組み用木材の運搬』」
「……地味ですね。報酬も討伐に比べると……」
「普段ならな。だが、よく見ろ。今は『特別報酬』が上乗せされてる」
建国祭が近い影響で、街は資材不足に陥っているのだ。
飾り付け用の素材や、急造の露店を作るための木材。
それらの需要が爆発的に跳ね上がっている。
「討伐依頼よりも危険が少なくて、拘束時間も短い。それでいて、今の時期だけ報酬は倍近くになってる」
俺は依頼書をヒラヒラと振った。
「その時のタイミングと需要を見極めて、一番割のいい仕事を選ぶ。……それが、都会で『楽に』生きるコツだ」
「なるほど……。さすが師匠、抜け目がないですね」
クリスが感心したように頷く。
俺たちは依頼書を持って、長蛇の列ができている受付カウンターへと並んだ。
「はい、次の人」
事務的な声が響いた。
窓口に座っていたのは、眼鏡をかけた三十代半ばほどの女性職員だった。
隙のないスーツ姿に、きっちりと纏められた髪。
その鋭い眼光は、数多の荒くれ冒険者たちを黙らせてきた「鉄の女」の風格を漂わせている。
「依頼の受注ね。冒険者カードを出して」
俺は二人のカードと一緒に、自分のカードをカウンターに置いた。
「ああ、俺はストラーノ。こっちがバナーレだ。よろしく頼む」
俺が愛想よく言うと、女性職員――名札にはミネルヴァとある――は、眉をひそめてカードと俺の顔を交互に見た。
「……?」
彼女は眼鏡の位置を直しながら、冷ややかな声で言った。
「カードの名前は『エドワード』と『クリス』になってるわよ? 登録ミス?」
「い、いや、これは本名だが……呼ぶ時はそっちの『通称』にしてくれないか? ほら、規定でそういうのあるだろ? 通名登録とか」
「……そんな規定はないわ。ギルドは公的機関よ。書類も登録も、全て本名で行うのが規則です」
バッサリと切り捨てられた。
「うっ……」
言葉に詰まる俺の横で、クリスも「やっぱり……」という顔で青ざめている。
てっきり、そういう融通が利くものだと思い込んでいたが、どうやら俺の認識が甘かったらしい。
後ろに並んでいる冒険者たちから、「早くしろよ」という無言の圧力が突き刺さる。
ミネルヴァは大きな溜息をついた。
彼女の視線が、俺たちの少し事情ありげな様子と、背負った槍、そして停滞し始めた行列を瞬時に観察する。
(……訳ありね。いちいち事情聴取をして、行列を止めるのは非効率だわ)
そんな心の声が聞こえてきそうな顔で、彼女はペンを取り上げた。
「はぁ……。わかったわ。書類上の処理は本名で通すけれど、窓口での呼び出しは『ストラーノ』と『バナーレ』にしてあげる」
「ほ、本当か! 恩に着る!」
「勘違いしないでちょうだい。あなたがここで『規則だ、事情だ』と大声で騒ぐと、業務の邪魔だからよ。私の判断で処理するだけ」
ミネルヴァはクールに言い放ち、手際よく書類にスタンプを押していく。
「今回は特別よ。……さっさと手続きするわね」
彼女の機転に救われた。
さすがは王都の受付嬢、捌き方が違う。
手続きの間、ミネルヴァは手を動かしながら淡々と口を開いた。
「この時期は人が多いから、変な依頼には関わらないことね。……今年の建国祭は、あの『勇者一行』も凱旋パレードに来るらしいから、街中が浮き足立ってるわ」
ピクリ。
その単語が出た瞬間、隣のクリスの肩が強張ったのが分かった。
「……へぇ、勇者様御一行か。そりゃあ賑やかになりそうだ」
俺は何でもない風を装って相槌を打った。
「ええ。警備も厳重になるし、ギルドへの依頼も増える。稼ぎ時だけど、巻き込まれないようにね」
ミネルヴァは手続きを終えると、依頼書の控えをカウンターに滑らせた。
「はい、完了。……頑張りなさい、『平凡』さん」
最後に少しだけ皮肉っぽい視線を向けられ、クリスは「は、はい……」と小さくなって頭を下げた。
ギルドを出ると、外の空気は相変わらずの熱気に満ちていた。
「……勇者、来るんですね」
人混みの中で、クリスがポツリと漏らす。
「ああ。だが、向こうは雲の上のパレードだ。こっちから近づかなけりゃ、会うこともないさ」
俺はそう言って、彼の背中を叩いた。
その時、俺の視界の端に、掲示板の隅に貼られた一枚のポスターが映った。
『王都武術大会 参加者募集中』
祭りのメインイベントの一つだ。
かつての俺なら、血が騒いで飛びついていたかもしれない。
だが今は、隣に守るべき弟子と、小さな女の子がいる。
(……今年は観客として楽しむか)
俺はポスターから視線を外し、二人に向き直った。
「さて、仕事だ。市場へ行って荷運びをするぞ。バナーレ君、その自慢の足腰を見せてやれ」
「もう、やめてくださいよその名前……」
クリスが苦笑いし、ロウェナが笑う。
華やかな王都の祝祭ムードの裏側で、俺たちの地道な生活がスタートした。




