隠された青と、激流の運び屋
翌朝、雨はとうに上がっているのに、目の前を流れる大河ヴェルムは茶色く濁りうねっていた。
崩落した石橋の復旧作業は半ば程で進んでいない。
対岸へ渡る手段を失った多くの旅人と商隊が、この河原で立ち往生していた。
そんな停滞した空気の中、異様な熱気を持って動き回る集団がいた。
「昨夜の槍使いを探せ! まだ近くにいるはずだ!」
「特徴は『青く輝く足甲』だ! 怪しい奴は片っ端から足を見せさせろ!」
オーランド伯爵家の騎士たちだ。
彼らは血眼になってテント村を練り歩き、水汲みに来た旅人や、出発準備をしている冒険者を呼び止めては、強引にズボンの裾を捲り上げさせている。
感謝を伝えるためではないだろう。
名乗りもせずに立ち去った「無礼者」を割り出し、家の面子を保つための犯人捜しだ。
「……厄介だな。見つかれば、面倒事に巻き込まれる」
俺はテントの隙間からその様子を窺い、舌打ちした。
泥を拭き取れば、脛当ては一発で身元を特定される証拠品になる。
「外すぞ」
俺は短く告げた。
「えっ?」
「騎士たちの探している目印を消すんだ。クリス、ロウェナ、今のうちに予備の靴に履き替えろ」
俺たちはテントの中で、ようやく履きなれたばかりの相棒を足から外した。
ずっしりとした重みが消え、代わりに履き古した革のブーツに足を通す。
油紙に包んだ脛当てを荷袋の奥底へと押し込むと、クリスが心細そうに踵を鳴らした。
「……なんだか、足が軽すぎて落ち着きませんね。頼りないというか」
「我慢しろ。ここを抜けるまでの辛抱だ」
荷物を片付けていると、昨夜の商隊の主人が声をかけてきた。
「よう。……あんたら、ここを出たいんだろ?」
主人は荷造りの手を休めず、ニヤリと笑った。
その視線は、さりげなくクリスの槍に向けられている。
昨夜の戦いの話でも聞いて、事情は察しているのだろう。
「ああ。この騒ぎだ、長居は無用だと思ってな」
「なら、いい手があるぜ」
主人は声を潜め、下流の方角を指差した。
「こっから数キロ下ったところに、腕利きの『渡し守』がいる。増水した川でも平気で船を出す、命知らずの爺さんだ」
「……正規の渡し船じゃなさそうだな」
「組合には入ってねぇ『もぐり』さ。だが、腕は確かだ。……ただし、高いぞ。一人につき銀貨三枚だ」
俺は眉をひそめた。
本来、この橋の通行税は、馬車一台につき銀貨三枚程度だ。
徒歩の人間一人に銀貨三枚というのは、暴利と言っていい。
「高いな」
「安全基準を無視して船を出すんだ、危険手当込みってとこだろ。俺は商機を逃したくねぇから払うつもりだ。……どうする? 荷運びを手伝ってくれるなら、口利きしてやるよ」
俺は即決した。
「乗った。金で時間を買えるなら安いもんだ」
俺たちは商隊の荷車を押す振りをしながら、テント村の出口へと向かった。
だが、関門は避けて通れない。
街道へ出る細道には、数名の騎士が立ち塞がり、通行人を検分していた。
「待て! そこの槍使い!」
鋭い声が飛ぶ。
騎士の視線が、クリスの泥だらけの服と、背負った槍を射抜いた。
「その汚れ……それに槍。貴様、昨夜この辺りで戦っていたな?」
状況証拠は揃っている。
周囲の空気が張り詰めた。
だが、クリスは動じなかった。
「ええ。昨夜は商隊の護衛で、泥人形を追い払うのに必死でしたから」
クリスは真っ直ぐに騎士を見返し、事実のみを淡々と答えた。
嘘は言っていない。
騎士は怪しむように目を細め、そして言った。
「……足を見せろ」
決定的瞬間だ。
クリスは無言で、ズボンの裾を捲り上げた。
そこに現れたのは、泥にまみれ、革が擦り切れた、ありふれた茶色のブーツだった。
騎士たちが探している、鈍く青い輝きはない。
「……チッ、違うか。行け!」
騎士は興味を失ったように手を振った。
俺たちは頭を下げ、足早にその場を離れた。
背中でクリスが、小さく安堵の息を吐くのが聞こえた。
街道を外れ、川沿いの獣道を下流へと進む。
鬱蒼とした茂みを抜けると、やがてテント村の喧騒は遠ざかり、激しい水音だけが支配する世界になった。
俺は周囲を見渡し、人影がないことを確認して足を止めた。
「よし。ここならもう見えないだろう」
俺は荷袋を下ろした。
「着け直すぞ。この先の船旅、足元が軽いままだと不安だ」
俺たちは油紙を開き、再び『青剛鉄の脛当て』を取り出した。
カチン、カチン。
留め具を締める硬質な音が、川音に混じる。
クリスが何度かその場で足踏みをした。
「……これです。やっぱり、この重さがないと」
地面を噛むような確かな重量感。
それが、心に落ち着きを取り戻させてくれる。
さらに少し進むと、岩場の陰に隠れるようにして、粗末な小屋と船着き場があった。
そこには、平底だが頑丈そうな船が一艘繋がれており、無愛想な老人が煙管を吹かしていた。
「……今日は流れが速ぇぞ。振り落とされても知らねぇからな」
老人は俺たちの姿を見ても驚きもせず、ただ掌を出した。
俺は銀貨九枚を握らせた。
「頼む」
船が濁流の中へと押し出される。
ドォン!
いきなり船底が大岩にぶつかったような衝撃が走った。
激流が船体を木の葉のように弄ぶ。
「ひぃぃぃ! 荷物が! 荷物が落ちるぅ!」
商隊の主人が、真っ青な顔で荷車にしがみついている。
「わあ! はやい! みず、とんできた!」
対照的に、ロウェナは船縁を掴んで、顔に水飛沫を浴びながらキャッキャと笑っていた。
船は大きく傾き、波が甲板を洗う。
だが。
「……揺れますね」
クリスは、船の中央で仁王立ちしていた。
普通の靴なら滑って体勢を崩すところだ。
しかし、青剛鉄の脛当てが、船底に張り付くような安定感を生み出している。
重心が低く保たれているため、船の揺れに対して体が遅れることなく追従できているのだ。
「でも、足元は動きません。……これなら、船の上でも戦えそうです」
クリスは自分の足を見下ろし、確かな信頼を込めて呟いた。
やがて、船は激流を抜け、対岸の入り江へと滑り込んだ。
「あー……生きた心地がしなかった……」
商隊の主人が、よろめきながら陸に上がる。
俺たちは荷車を降ろすのを手伝い、そこで別れを告げた。
「高い金だったが、いい仕事だったよ。おかげで足止めを食らわずに済んだ」
「へっ、こっちこそだ。……あんたらの腕なら、王都でも食いっぱぐれねぇだろうよ。達者でな」
主人は手を振り、街道の方へと去っていった。
俺たちは川岸に立ち、一度だけ対岸を振り返った。
オーランド家の紋章旗はおろか、崩れた橋さえも見えない。
物理的にも、そしてしがらみという意味でも、俺たちは「向こう岸」を置き去りにしてきたのだ。
「行きましょう、師匠。王都へ」
クリスの声は晴れやかだった。
輝きを取り戻した足が、西へと続く道を踏みしめる。
邪魔者は撒いた。
王都までは、まだまだの距離だ。




