潮が引くように、熱は去り
吹き抜ける風が、焼けた肌を無慈悲に、それでいてこの上なく心地よく撫でていく。
排熱シャフトの奥から溢れ出したのは、カレドヴルフの深部を巡る冷却用の冷気だった。
数時間前まで肺を焼くほどに熱かった空気は、今や秋の夜長を思わせるほどに涼やかで、乾いている。
「……はぁ。助かった」
俺は剣の柄から手を離し、その場に深く腰を下ろした。
噴き出していた汗が瞬時に冷え、濡れた衣類が氷のように肌に張り付く。
その不快感さえ、今は生きている実感を伴う報酬のように感じられた。
「あはは、つめたい! 見て、お口から白いのが出るよ!」
ロウェナがはしゃいだ声を上げ、何度も白い吐息を吐き出しては、それを手で掴もうと空を仰いでいる。
クリスもまた、乱れた呼吸を整えながら、白く濁る自分の息を珍しそうに眺めていた。
「……本当に、地下にこんな冷たい風が流れていたんですね。信じられない」
「ああ。街全体を冷やすための循環機構が、ようやく目を覚ましたんだ」
ドランが煤けた手でバルブの最終調整を終え、満足げに鼻を鳴らした。
バラム率いる『鋼の轍』の面々も、武器を収めてその場に座り込んでいる。
大盾使いのバラムは、俺の隣で無造作に胡坐をかくと、自らの水袋を差し出してきた。
「……飲め。いい仕事だったぞ、エド」
「恩に着るよ。あんたたちの陽動がなきゃ、あの袋を放り込む隙もなかった」
差し出された水を一口含む。
ぬるいはずの水が、乾ききった喉を驚くほど滑らかに潤していった。
バラムは俺の横顔をじっと見つめ、やがて短く問うた。
「あの爆炎袋……ただの商人や、そこらの冒険者が持ち歩く代物じゃない。投げるタイミングも、俺たちの動きに合わせた間の取り方もだ。あんた、本当は何者だ?」
「ただのしがない旅の冒険者さ。……コールベルクの街に寄った時、たまたま道具屋で見つけてな。採掘用だっていうから、いつか何かに使えると思って買っておいただけだ」
俺が言葉を濁すと、バラムは深く追求することはせず、ただ一度だけ力強く俺の肩を叩いた。
「……だろうな。まあいい。あんたみたいな『食えない』野郎と組むのは、嫌いじゃない」
地上へと続く長い階段を登り、鉄の扉を押し開けた瞬間、俺たちは言葉を失った。
数時間前まで、陽炎が揺らめき、暴力的なまでの熱気に包まれていたカレドヴルフの街は、今や幻想的な白い霧に包まれていた。
建物や石畳が蓄えていた熱が、地下から供給され始めた冷気によって急激に冷やされ、結露となって街全体を覆ったのだ。
街灯の火が霧に滲み、ぼんやりとした光の輪を作っている。
通りには、殺気立っていたはずの職人たちが、力抜けたように路肩に座り込んでいた。
ある者は霧の中で深く眠り、ある者は隣り合う仲間と一つの水桶を分かち合っている。
「……静かだな」
俺が呟くと、クリスが深く頷いた。
「ええ。さっきまでのあのトゲトゲした空気が、潮が引くみたいに消えています」
些細なことで殴り合いを演じていたドワーフたちが、今は互いの肩を叩き合い、「暑すぎたんだな」「全くだ、頭が沸騰していたぜ」と苦笑いを浮かべていた。
物理的な「熱」が去ることで、街に理性が戻ってきたのだ。
冒険者ギルドへ足を踏み入れると、そこは任務の完遂を待ちわびていた職員や、避難していた冒険者たちでごった返していた。
俺は報酬を受け取ると、早々にその場を立ち去ろうとした。
「後の手続きは任せるよ。手柄は『鋼の轍』のものにしておいてくれ」
受付の職員にそう告げ、背を向けようとしたその時、背後から丸太のような腕が俺の肩を掴んだ。
「……おい、エド。逃げるなと言ったはずだぞ」
バラムが呆れたような顔で立っていた。
「分を弁えない謙遜は、俺たちの誇りを汚すことになる。それに、このドランの爺さんが、お前さんを逃がすなとうるさくてな」
「当たり前だ! あの土壇場で、わしの愛した設備を救ってくれた恩人を、そのまま帰せるか!」
ドランがレンチを振り回しながら詰め寄ってくる。
結局、今回の功績は二つのパーティーによる「共同完遂」として正式に記録されることになった。
目立ちたくない俺の思惑は、ドワーフたちの実直なまでの感謝の前に、あっさりと粉砕されたわけだ。
「……仕方ないな。祝杯くらいは付き合うよ」
俺が降参して両手を上げると、ギルド内に歓声が上がった。
カレドヴルフの名物酒場『燻る鉄槌亭』
冷気が戻ったことで、厨房の巨大な竃も本来の活気を取り戻していた。
「さあ、食え! カレドヴルフ特製、厚切り岩塩肉の炭火焼きだ!」
給仕が運んできたのは、三センチはあろうかという分厚い牛脂の乗った肉塊だった。
炭火で焼かれた表面はカリリと香ばしく、滴る脂が爆ぜる音だけで食欲を暴力的に刺激する。
俺はナイフで切り分けた肉を、一口で放り込んだ。
鋭い岩塩の塩気が肉の甘みを引き立て、噛みしめるたびに濃厚な肉汁が溢れ出す。
それを、地下水でキンキンに冷やされた『黒麦酒』で流し込む。
喉を焼くようなホップの苦みと、その後に来る麦の芳醇な香り。
「……っ、美味い……!」
クリスも、言葉を失って肉を頬張っている。
ロウェナは甘いベリーの果実水を大事そうに飲みながら、柔らかい肉を小さく切ってもらい、幸せそうに頬を緩めていた。
「なあ、エド。あんた、これからどこへ向かう?」
バラムが大きなジョッキを傾けながら聞いてきた。
「しばらくはこの街に滞在する予定だ。ある腕利きの職人に、用があってな」
俺は、クリスのために新調したい武器のこと、そしてこのカレドヴルフに来た本来の目的を思い出す。
バラムは「そうか」とだけ言い、再びジョッキを飲み干した。
「……もしその職人が見つからなかったら、俺を訪ねてこい。この街の『裏』まで知っている奴を紹介してやる」
「覚えておくよ」
プロ同士の、短くも確かな信頼。
祝宴の喧騒は、夜が更けるまで続いた。
酒場を出ると、霧は晴れ、カレドヴルフの夜空には満天の星が広がっていた。
心地よい疲労感と、適度な酔いが体を包んでいる。
「エドさん、今日は本当に……いろいろありましたが、楽しかったです」
クリスが満足げに笑う。
俺の服の裾を掴んだロウェナは、歩きながら今にも寝落ちしそうな様子で船を漕いでいた。
宿の入り口が見えてきた、その時だった。
建物の影から、一人の小柄な影がふらりと現れた。
昼間の荒れ狂っていた職人たちとは違う。
そのドワーフは、どこか浮世離れしたような、澄んだ、それでいて底知れない眼光を宿していた。
「……あんたか」
そのドワーフは、俺の顔をじっと見据えた。
「あんたが、地下の栓をぶち抜いた人間か? ……風の流れが変わった。あんたが持ち込んだ『爆発』の音が、この街の澱みを吹き飛ばしたようだ」
エドは無意識に、眠りかけたロウェナを背に庇い、一歩前に出た。
「……何の話だ?」
「腕利きの職人を探しているんだろう。……ついてきな。あんたが投げたあの爆炎よりも、熱い場所を見せてやる」
ドワーフはそう言い残すと、夜の静寂へと背を向けた。
厄介ごとの予感に、俺は深く溜息をつき、首筋を掻いた。
「……勘弁してくれ。俺はただ、ゆっくり寝たいだけなんだがな」
だが、そのドワーフが放つ圧倒的な「匠」の気配を、俺の直感が無視することを許さなかった。




