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本当の神が生まれる

 チャンカ族の兵士が全滅してから二週間が過ぎ、食料はほぼ底をついていた。北部のクスコからやってきた、マイタ・カパック・ユパンキ軍は得意の土木技術で簡易的なダムをつくり、アンデス山脈の雪解け水が集まるナスカ渓谷の上流で川をせき止めた。


 そのダムは高さ十五メートル、幅約八十メートルの石積み構造物であった。一個あたり二トンを超える切り石を千個以上積み上げ、隙間を小石と粘土で埋めた堅固な障壁だった。三千人の労働者が交代制で昼夜を問わず働き、一週間で完成させたこの建造物は、ナスカ渓谷の狭隘な通路を完全に遮断していた。


 もちろん、彼らは物理や工学に基づいた手法を用いたわけではなかった。彼らは、いつも通り、大勢の人間で一トンを優に超える岩の塊を引いて思い通りの場所に運んだ。そして、水の運動エネルギーは町から失われ、水車は甲高いハンマーの音を響かせるのを止めてしまった。


 機織機や紡績機も、止まってしまった。もはや、それらはガラクタのようであった。ナスカの町からは、科学がもたらした文明の息吹が消えかけていた。


 水路は干上がり、かつて水が通っていた溝はひび割れた土で埋まっていた。壊れた歯車や放棄された炉が路地に散乱し、機械工たちの作業場は、瓦礫と沈黙の支配する廃墟と化していた。


 極限状況の中で、私たちは一つの結論に達した。


 撤退。


 それは、この地の鉄というあまりにも大きい資源を捨てることに等しかった。鉄は文明を築いた。十九世紀のイギリスでは蒸気機関を生み出し、鉄道を走らせ、産業革命を牽引した。二十世紀のアメリカでは、鋼鉄が摩天楼を天へと押し上げた。鉄なくして近代文明は存在しなかった。そして、鉄を持たない人々がどのように滅ぼされたのかもすでに見てきた。


 しかし、私は限界の渇きと空腹に達しても筆をとる若者に胸を撃たれていたのである。彼は、ニュートンの運動方程式 F = ma から導き出される砲弾の軌道計算式を用いて、敵陣に砲弾を命中させるための砲の角度を計算していた。


 ボロボロの紙に書かれた稚拙なギリシャ数字の中に、私がこの地で成してきた全てが詰まっていた。


 この若者の頭脳には、鉄よりも輝く原石のような才能が宿っていた。人間の中に埋もれた才能を最大限に活かすことが自由な社会のなせる力であった。共産主義が百年も存続しなかったのもそのせいであった。


 私は再び各民族のリーダーたちを招集し、北部のチムー海岸へ向かうことを提案した。そこには、我々に賛同するだろう人々がいたからである。


 だが、他の者たちは反対した。


 コジャ族の長老ワマンが言った。


「北部に行ってもここよりも貧しい土地が広がるばかりでなにもない。この土地は乾いているが、鉄がある。鉄は富の源であり、力である」


 チャンカ族の唯一生き残った戦士が拳を振り上げた。


「我らが誇り高き戦士が失われた今、逃げることなど考えられぬ!死んだ者たちの魂が安らかに眠ることはないだろう」


 アタカマ民族のカウチが苦々しく呟いた。


「セチュラ砂漠は生き物の土地ではない。海から、魚こそとれるが、農地となるような場所はほとんど存在しない。我々は何を食べて生きるのだ?」


 元奴隷のパカリが腕の古い傷跡を撫でた。


「私は奴隷であったが、ここで死ぬ気は無い。タワンティンスーユに歯向かう人間たちは最後には、岩で身体を砕かれるか、ピューマに食い殺されるのである。反逆者は生きたまま皮を剥がれ、太陽に晒される。内臓を抜かれ、鳥の餌にされる。そんな、惨めな末路を辿るくらいなら、武器を手に戦って死ぬ方がましだ」


 彼の腕に刻まれた鞭の傷跡が、月明かりの下で青白く光っていた。


 商人階級のイルパが諦めたような声で言った。


「科学を盲信しすぎたのだ。ヤンカラン・インカこそが神の声を伝える者だと言って……今はワスカルたちの方も科学を使っているではないか!数でも、武器でも勝ち目はない」


 話し合いはまとまらず、時間だけが過ぎた。


 しかし、その時になって、ルミ・ウルマが強く言った。私は驚いた。ここに来て、彼は初めて私たちに見せたことのない、激情に満ちた顔を見せた。


「自由とはそんなに価値のないものなのでしょうか?あなた方は自由を信じ、そして、勇敢なチャンカ族の兵士たちを見殺しにしたのではないですか!?」


 彼は続けた。


「私も決めました。私は科学を司るこの世界の大きな真理の神に誓ったのです。彼を知るためにこの一生を捧げると。このような場所で死ぬわけにはいかないのです」


 ルミ・ウルマは今まで常に冷静で理知的だった。しかし、この瞬間、彼の内に秘められた信念の炎が爆発した。


「真に憎むべきは無知です。本当の敵とは、人間の可能性を踏み躙る専制です。我々は運命に打ち勝たなければいけない。自らの選択で、自らの意志で歴史を変えるのです。科学こそが、神が人間に与えた最も偉大な贈り物なのです!我々が戦うのは、ただ生き延びるためではありません。この戦いに勝つことは、未来の人々に道を残すことです。科学が迫害されず、才能が虐げられず、誰もが真理を追い求めることを許された世界——そんな未来を、私たちが最初に築くのです。神なき神々の時代が来るでしょう。そこでは、神の代わりに人間の叡智が世界を照らすのです。」


 その声で各民族がまとまり始めた。私は、松明に揺れる、ルミ・ウルマの紅潮した顔を見ながら、こぶしを握り締めた。彼は痩せこけ、頬がややこけていた。だが、そんなものは微塵にも感じさせない力強さがあった。彼の瞳には、まるで星の光のような輝きが宿っていた。


 さらに、極限状態はもう一つの変化を人々の間に産んでいた。


 セム語系の唯一神信仰のように、科学信仰(サイエンス教)は、唯一神信仰に似た構造と倫理を備え始めていた。異なる民族、異なる言語を有する人々が同じ真理の神の元に統一されつつあった。


 誰かが、私の言葉を書き留めていた。それにはこんな風に書いてあった。


 「真理の神は言った。『汝らは知識を求めよ。知識こそが自由への道なり』


 真理の神は言った。『科学は神を知るための聖なる方法なり。観察し、実験し、思考せよ』


 真理の神は言った。『ヤンカラン・インカこそ、我が知識を世に伝える選ばれし者なり』


 真理の神は言った。『自由のために死ぬことは尊い。死せる者は空に上り、永遠の真理の中に生き続けることができる』


 真理の神は言った。『火薬を信じよ。銃を放て』」


 聖書が教科書となり、科学こそが神を知るための方法となった。この新しい信仰は、絶望的な状況下でも人々に希望を与え続けていた。学生たちは夜中でも膝を地につき、数式を唱えるように暗唱していた。彼らにとって、万有引力の法則は祈りの言葉であり、燃焼反応式は賛美歌となっていた。


 「作戦を立てよう」──私たちは立ち上がった。


 私たちは石をチェスの駒に見立て、地図の上に配置していった。もしこれがボードゲームであれば、あまりにも不公平な盤面だった。


 敵の進軍速度や兵力を見極め、最も成功の確率が高い作戦を考える。シミュレーション。数学的モデルを使い、様々なパラメータを変更して結果を予測した。敵軍の移動速度、補給路、地形の利点と不利点、天候の影響——全てを数値化し、計算した。


 それは、一晩中続いた。


 夜が明けた。東の山並みから昇る太陽が、血のように赤い光を放っていた。朝の冷たい風が頬を撫で、遠くでコンドルの鳴き声がかすかに空を裂いた。


 火薬は全て動員され、弾丸に変貌した。即席の火縄銃が製造され、全部で百丁ほどになった。砲身は、機織機で織られたばかりの布で丁寧に掃除された。一丁一丁、丁寧に火薬の残滓を拭い取り、新しい火薬を装填した。


 若い戦士たちは、それぞれ自分の銃に名を刻んでいた。「雷鳴」「天罰」「自由の槌」——それらの銃は、彼らにとって単なる武器ではなく、絶望の闇を切り裂く光だった。

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― 新着の感想 ―
>火薬を信じよ。銃を放て エラく俗っぽいというか物騒な聖句があったもんですなw
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