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開戦前夜

 1532年11月15日、その日は朝から晴れ渡り、青空には白い雲が淡くたなびいていた。昇る太陽は山の稜線に遮られ、紺色の影が盆地を包み込む。しかし、やがて太陽が峰の向こうから姿を現すと、大地は再び光を浴び、静寂の中に眠っていた世界が目を覚ます。


 石を幾重にも積み上げた神殿は、広場に荘厳な影を落としていた。太陽が天頂へと昇るにつれ、その影はゆっくりと形を変えながら、まるで時を刻むかのように地を這う。黄金の装飾が陽光を受けて輝き、揺らめく光が石壁を照らす。人々はその光景に、神の存在を改めて確認する。


 私は朝から温泉に入って身体を休めていた。湯はこんこんと湧き、硫黄の香りが立ちこめる。石造りの浴槽の底からは小さな気泡がゆっくりと浮かび上がり、湯面をかすかに揺らしていた。熱い湯が肌を包み込むと、昨夜までの疲れがじんわりと溶けていくようだった。


 遠くでは兵士たちの笑い声が聞こえたが、この湯の中ではすべてが霞んで感じられる。私は湯に身を沈めながら、目を閉じた。蒸気の向こう、揺らめく景色の中で、私の未来がぼんやりと浮かび上がる。王冠を戴く自分の姿が湯気とともに消えては現れた。


 正午ごろ、使者が報告をもたらした。彼によれば、「肌の白い者たち」は順調にインカ道を進んでおり、夕方にはカハマルカに到着する見込みだという。


 カハマルカの郊外を兵士たちのテントの群れが占拠している。通りでは、ほぼ裸同然の男たちが仲間と談笑している。側には彼らが戦で使用する槍や棍棒、投石機といった武器が置かれている。それらは単なる戦具ではなく、踊りの際にも使用される神聖なものであった。


 私の指揮下にある兵士たちは、北部のキト周辺から集められた者たちだった。彼らにとって、南部クスコ周辺で繰り広げられる王座争いは他人事に過ぎず、多くは戦の終結とともに一刻も早く故郷へ帰ることを望んでいた。

 

 夕刻の冷たい風が広場を吹き抜ける。遠くの山々の稜線は橙色の光に染まり、太陽が西の峰へと沈みつつあった。


 使者たちの報告により、スペイン人がついにカハマルカの町へ入ったことを知った。しかし、私は部屋を出ることなく、何の指示も下さなかった。


「私は断食中である。今日は会うことができぬと伝えよ」


 使者の声には焦りが滲んでいた。彼の話では、スペイン人の使者が複数の獣に乗った兵を伴い訪れたという。通訳として北部の先住民を従え、態度はあくまで友好的だったと伝えられた。

 

「主君。彼らはあなたへの謁見を求めていますが、慎重に対応されるべきかと」


 私は使者を下がらせた。自ら歩み出てスペイン人たちに会おうなどとは思わなかった。すでに夜も更け、外では雨音が響いていた。それに、彼らに対してこちらが下手に出ることは何としても避けなければならなかった。


 しかし、しばらくすると外のざわめきが大きくなった。兵士たちが興奮し、何かを話している。風が強まり、横殴りの雨がテントを叩きつける。


 間もなく、使者が慌ただしく駆け込んできた。スペイン人たちが監視の目をかいくぐり、こちらへ向かっているという。少数ながら、獣に乗っているらしい。


 私は急ぎ従者に支度をさせ、建物を出た。外は暗闇に包まれ、松明の炎がちらちらと揺れている。光の中で兵士たちがせわしなく動き回っていた。彼らは一様に同じ方向を見つめ、どこか落ち着かない様子だった。


 警護兵たちが素早く私の周囲を囲む。彼らは私に指示を求めることなく、私が歩けば共に歩き、私が止まれば共に止まった。


 私は兵士たちの視線の先に目を凝らした。暗闇の奥から、ぼんやりとした巨大な影が現れる。一瞬、血の気が引くような感覚に襲われた。それが馬に乗った人間だと即座に理解することはできなかった。馬は、私がこれまでに見たどんな動物よりも大きかった。


 私が歩くと、従者たちは素早く布を広げ、雨から私を守る屋根を作る。さらに、床几を運び、広場の中央に据えた。彼らは私が何も命じずとも行動した。私は床几に腰を下ろし、ついにスペイン人たちと対峙することとなった。


 群衆の中から、一人の男が馬に乗り、ゆっくりと近づいてきた。傍らには通訳を従えている。将軍や兵士たちは私の指示を待っていたが、私は何も言わず、男を近づけた。


 彼は堂々とした態度で、銀色の胸当てを身に着けていた。その隙間から覗く肌は白い。やがて彼は馬を止めた。


 私はベール越しに、馬の太い脚を見つめた。その瞬間、我々が崇めるビラコチャの神話が脳裏をよぎる。遠い昔、白い肌をした男が現れ、トウモロコシの栽培法や家畜の飼い方を教え、東の海へと去っていったという。馬は、まるで神の使いのように見えた。


 私は表情を崩さず静かに座っていたが、そばに仕える女たちは震えているのが分かった。やがて馬上の男はゆっくりと降り、私の前へと歩み出た。周囲では兵士たちが警戒を強め、今にも剣を抜かんばかりの気迫を漂わせている。


 スペイン人が口を開くと、通訳がそれを従者に伝え、さらに私へと告げた。


「主君。彼らは友好的な関係を求めているとのことです」


 私はすぐには答えなかった。すると、スペイン人の男は銀色の指輪を外し、従者へ差し出した。友好の証としての贈り物だと言う。


 私はそれを受け取り、従者に礼を述べさせた。しばらくして、兵士たちが再びざわめき始める。もう一人のスペイン人が馬に乗ったまま、私のすぐそばまで進み出た。


「主君。彼らは公式の謁見を求めています。明日、彼らの君主を交え、改めて会合を開きたいとのことです」


 私は神聖な太陽の子としての威厳を保ち、顔を上げることはしなかった。そして静かに命じた。


「酒でも飲んでいけと伝えよ」


 余裕を示すために、あえてそう言った。通訳とスペイン人たちはしばらく言葉を交わした。彼らがこの申し出をどのように受け取るべきか、迷っているのが分かった。


 最初は遠慮したが、再び勧めると、ついにそれを受け入れた。女たちが黄金の器にトウモロコシで作ったチチャ酒を注ぐと、スペイン人たちは慎重にそれを口にした。その表情には警戒が浮かんでいたが、やがて味を称賛し、再び友好を強調した。


 だが、それはあくまで計算された態度に過ぎない。彼らの内には抑えがたい欲望が巣食い、チチャ酒の奥に黄金の味を感じ取っていた。その味は、血と略奪の記憶を呼び覚まし、彼らが本来持つ残忍な性を揺り動かしていた。


 彼らは笑みを浮かべ、甘い言葉を紡いだ。しかし、それが真実の仮面にすぎないことを、私は気づいていなかった。

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