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欲望が企業を生む

 1518年5月。


 私がこの世に生を受けてから、何年もの時が過ぎていた。私は、ヤンカラン・インカ――ただの「インカ」を名乗る一市民に過ぎなかった。


 クスコでの私の痕跡は、いつしか人々の記憶からも薄れていた。王子として扱われたのも、ほんの一時のことでしかなかった。候補が消えれば、また次の候補が現れる。勢力争いに明け暮れる人間たちの振る舞いなど、時代が変わっても何ひとつ変わらないのだ。


 一方で、鉄は確かに歴史を動かしつつあった。静かに、だが抗いようのないうねりとなって、タワンティンスーユの地に広がっていた。


 ラマコチャはマルコナ鉱山を視察したのち、その存在を中央評議会に報告した。王を欠いたクスコの行政は保守的であり、彼の言葉を一笑に付した。しかし、使者が持ち帰った鉄製の斧槍を手にした瞬間、その場の空気は変わったという。


 刃は青銅器をはるかに凌駕する鋭さを持ち、柄に走る冷たい感触が彼らの背筋を粟立たせた。試しに青銅の小刀に鉄の刃を打ち付けたところ、小刀は無惨に欠けてしまった。


 私は、表面上、彼と手を組むことになった。鉄が企業カンパニャを誕生させたのである。村長のウィラヤはクスコに派遣され、ラマコチャは鉱山の本格開発に乗り出した。ラマコチャは評議会の一部の行政官を巧みに取り込み、物流と人の流れを、まるで織物の糸を操るように自在に動かし始めていた。


 マルコナは、やがて一つの鉱山都市へと変貌を遂げた。

 未来のポトシ銀山を先取りするかのように、その地には各地から人々が流れ込み、粗末な小屋が密集し、露天の市場には叫び声と喧噪が渦巻いていた。


 都市の中心に鎮座するのは、あらゆる存在を圧倒する巨大な露天掘り鉱山――まるで大地がぽっかりと口を開けたかのような、黒々とした裂け目だった。段々状に穿たれた斜面は、幾重にも折り重なって地の底へと続き、その深さは眼で追うことさえままならず、視界の果ては霞んで見えた。


 岩肌には幾筋もの人影が張りつき、荷を背負った労働者たちが絶え間なく列を成し、喉を嗄らすような怒号と掛け声が鉱脈に反響していた。風が吹き抜けるたび、赤錆びた鉄の匂いと鉱塵が舞い、街の隅々にまで染み渡っていく。


 陽が昇れば、坑口の縁には黒い影が帯のように伸び、夕暮れには採掘車や荷運びのリャマが、その影の奥へと沈むように姿を消していった。


 私は、さらに改革を進めた。以下は私がその数年で導入した代表的な技術である。


  「活版印刷」

 最初の印刷機は、木の枠と焼き固めた粘土板で試作された。だが、文字の崩れや摩耗が早く、安定した複製には程遠かった。やがて私は鉛と錫の合金で鋳型を作り、それで文字を刷り始めた。それこそ、かつて歴史を変えた活版印刷の技術であり、アルファベットの使用と相まって、書物や知識の量は爆発的に増えることになった。


「ネジと歯車」

 鉄の棒に螺旋を刻み、それを穴にねじ込んで回転させる。単純な構造でありながら、全ての工業の土台となる。あらゆる機械、粉砕機、風車、水揚げ機、織機がネジと歯車によって誕生した。


「 飛びとびひ付きの織機 」

 機織りはかつて、巫女たちが原始的な器具を用いて手作業で行っていた。ジョン・ケイによって開発された飛び杼付きの織機により、生産速度は急激に上昇し、布の原料の綿花の供給が追いつかなくなるほどだった。


「紡績機」

 滑車と回転軸を組み合わせた機械が、羊毛や綿を一定の太さと強度で紡ぎ出す。熟練の手作業に頼らずとも、少女がひとり機械の横に立っているだけで、糸は途切れることなく生み出される。機織機とも合わさり、布は豊かになり、衣服は贅沢から実用品へと姿を変えた。

 

 私は毎日、収支を紙に記録していた。しかし、数字が示す現実は予想とは異なっていた。そんな折、ラマコチャは私に隠れて取引を行うようになっていたのだった。


 気づけば、ラマコチャは一大経済圏を築きつつあった。ナスカからアバンカイ、チンチャ、さらにはトゥンベスに至るまで、交易路は拡大していた。彼は新たな町を北に築き、そこから鉄資源を積んだバルサ船が次々と出航していた。もはや彼の活動は、私の掌の上ではなかった。


 従者の一人が私に言った。


「インカ様……改革の果てに、かつてのあなたの立場が失われてもよいのでしょうか?」


 だが、私は静かに首を振った。


「いや、むしろ、彼の行動こそが私の望んだ改革そのものだ。欲望は、自由は、時に思想よりも雄弁に世界を変える。私はその火を絶やさぬよう、ただ風を送るだけだ」


 私はプキオの地に製紙工場を築き、文化の革命に乗り出した。そこに新たに大学のような学問と議論の場としての教育施設を設けた。そこでは、ルミ・ウルマをはじめとする私の教えを受けた者が講師を務めることとなった。


 『孫子』は戦術と統治の原理を示し、『戦争論』(クラウゼヴィッツ)は戦争と政治の連続性を論じている。アリストテレスの『政治学』とプラトンの『国家』は統治の本質を深く探求し、モンテスキューの『法の精神』は法の働きとその意義を明らかにする。スミスの『国富論』は経済の動きと社会の繁栄を分析し、マルクスの『資本論』は資本主義の構造を分析した。

 

 あらゆる書物をケチュア語に翻訳し、人々に配ることで、信仰ではなく思考を重んじる姿勢を示した。理論と知識の力は、人々の視野を押し広げ、目に見えぬ鎖を断ち切るための刃となった。


 さらに、ナスカの地では、鉄そのものが租税として認められるようになった。官僚たちはラマコチャに従い、もはや古き神殿に膝をつく者は減っていった。


 だが――信仰を失った者たちは、どこへ向かえばいいのか?


 ヤチャチクは、もともと出世のために神官の道を選んだ男だった。それでも、彼は日食を前にして本当の信仰の意味を知った。信じるという姿勢そのものこそが、彼の中に神を宿したのである。


 彼の信仰は変質していた。もはやそれは、神という人格存在に向けられたものではない。彼自分が「観察し、意味を問い、記録する」という姿勢の中に、信仰と呼ぶべき芯を見出していた。科学の姿勢と、彼の信仰とは、本質的には同じだった。


 ヤチャチクとその一行は、いつの間にかナスカの地を去っていた。彼らは自らの意思で信仰の再構築のために旅立ったのである。彼らは、いまや筆と観測器を手に取り、古き信仰の芯を洗い出し、新たな教義へと磨き上げる作業に没頭していた。


 こうして、国家宗教としての太陽信仰は、静かに力を失いつつあった。


 処女の館は存続していたが、そこに暮らす巫女たちでさえも、飛び杼と紡績機を使って布を織っていた。新しい知識は、文書というかたちで彼女たちに届いていた。ララ・オクリョら巫女たちは、かつて神託のために与えられていた学びの時間を、今や製造と経済の知に費やしていたのである。


 ただし、男たちが処女の館に入ることは、今なお厳格に禁じられていた。


 ヤチャチクらのことについては、いずれ再び語られることになるだろう。彼らは歴史の因縁に導かれ、再び私たちの前に姿を現すことになる。


 ここまでの改革は、すべて順調に見えるかもしれない。だが、それは本当ではない。


「歴史を塗り替える三つの凶器――銃、病原菌、そして鉄」


 我々は、鉄を手に入れた。だが、病原菌を避けることができない。かつて百万の命が、ひとつの病に倒れた。鉄で病を防ぐことはできない。


 攻めるだけでは不十分であった。守ることも必要であった。しかし、タワンティンスーユはいまだ分裂を抱えたまま、内部には火種が残っていた。


 私は未来の青写真を、ナスカの半紙に描きながら、クスコの政治の動きと、北部戦線の風向きを案じていた。

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