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日食

 約束の日、それは、雲ひとつない晴天の朝であった。日食当日の早朝、海岸から吹きつける風が乾いた大地を走り抜け、砂ぼこりを立てていた。


 前日、神官たちは得意そうに私たちに告げた。

「明日、全てが明らかになる。悔い改めるのであればこれが最後の機会だ……」


 ナスカの村には、クスコから派遣された兵士たちが到着していた。村のあちこちに彼らのテントが張られ、夜には松明の灯りが村を不自然に照らし出していた。


 夜明けの光の中、私の目は赤く充血していた。眠れぬまま迎えた朝。村は異様なほど静まり返り、遠くから川のせせらぎと水車の回転音だけが風に乗ってかすかに聞こえていた。


 太陽を前にしても、私の心は平静を保てなかった。私は、1513年の世界に転生して以来、最大の選択を迫られていたのだ。


 改革はまだ道半ばだった。歴史を変えるという志も、夢のように遠のいていく。民の中に芽生えた不安と反発は陰謀の種となり、私たちを押し潰そうとしていた。


 鉄の力をもってすれば、反対者を屈服させることはできる。だが、暴力によって築かれる秩序に、果たして意味はあるのか。私はその答えを持たなかった。


 苦悩の末、私はルミ・ウルマに助言を求めた。


「お前は科学を信じているな。だが、科学と人々との間には、越えがたい溝がある。私はどうすればいいと思う?」


 ルミ・ウルマは少し考えてから、静かに答えた。


「はい、私は科学を信じています。科学は世界と神を知るための道です。それは恐れるものではなく、理解し、共に生きるための知恵です」


 しばしの沈黙ののち、彼は慎重に、しかし確かな意志で語り始めた。


「科学とは、自由への手段なのです。あなたが教えた道具や文字、紙は、人々が自ら考え、語るための力です。その力が誰かを支配するために使われてはならない。私はあなたの言葉で自由の入口に立てたのです」


 そして、かつて私が助けた売春婦について語った。彼女の名はキリャ(月)であった。バルサ船の難破で親族を失い、流れ着いた土地で生きるために身体を売るしかなかったという。


 私は彼の話に深く打たれた。キリャもまた、もし違う時代に生まれていれば、その才をまったく別の形で社会に還元していたかもしれない。


「インカ様……あなたのおかげで人々は自由を知ろうとしています。しかし、それは単なる『解放』ではありません。もっと大きな、見えない力が動き始めています。神官に与する者たちにとっては、それが恐怖なのです。しかし、不安も疑問も、自由の一部なのです」


 私は気づいた。歴史の主人公は、私ではなく、この時代に生きるすべての人々であった。私は傍観者に過ぎなかった。


 私は従者たちに命じ、武器を川へ投じさせた。太陽の下、剣や槍が静かに水底へと沈んでいった。


 そして、自ら縄を取り、両の手を縛らせた姿のまま、神殿へと向かった。


 神殿前には神官と村人が集まり、周囲を数百の兵士が囲んでいた。中にはクスコから来た首長ラマコチャの姿もあった。


 私が現れると、神官たちはどよめいた。


「私はあなたたちに危害を加えるつもりはない。私は太陽を取り戻そうとしているだけだ。歴史クロニカから忘れられてしまった誇りを……」


 神官のひとりが叫んだ。

「まやかしは通用せぬ!お前たちは古き価値を壊し、堕落を招く者だ!武器を密かに作り、反乱を画策している。我らにはすべて分かっている!」


 私は必死に語りかけた。

「神官よ、私を信じてくれ。私は太陽に使命を託されたのだ。この帝国を守るために。やがて東の果てより邪悪が訪れる。あなたたちは、その恐ろしさを知らない!」


 ヤチャチクが冷笑を浮かべた。

「言葉遊びはやめろ。お前が逃げなかったことだけは認めてやる。だが、日食など起こらぬ」


 兵士たちは静まり返り、やり取りを見守っていた。


 時が過ぎる。太陽は照りつけ、風が吹き、砂が足元を這った。コンドルの鳴き声が空に響いた。汗が首筋を伝い、布を濡らしていく。


 隣にいた従者のひとりは、手を組みしきりに祈っていた。私はその肩に手を置き、静かに言った。

「私を信じてくれ……」


 私は平静な顔を保ちながらも、胸の内では嵐が吹き荒れていた。私もまた、試されていたのだ。信仰とは何か、信じるとはどういうことか。


 周囲では誰もが息をひそめていた。鳥の声さえ止み、村には風の音だけが残されていた。兵士たちは無言で槍を握りしめ、額には汗が滲んでいた。神官たちは装束の裾を風に翻しながらも、その目は虚ろに宙をさまよい、やがて天へと引き寄せられていった。


 子どもは、母の影にすがるように身を寄せていた。誰もが言葉を忘れ、太陽を見守っていた。


 風がひときわ鋭く吹き抜けた。砂埃が舞い上がり、布がばたついた。

 

 忘れもしない。その瞬間こそが始まりであった。兵士の一人が手から槍を取り落とした。乾いた音が響き、緊張の空気に裂け目を入れた。人々はそちらを振り返ったが、その目はすぐに、空に釘付けにされた。


 太陽が揺らぎ始め、世界は色を変えた。光が少しずつ薄れていき、村の空が、音もなくゆっくりと暗転していった。辺りは青黒い闇に包まれ、色を失った風景の中に、残ったのは人々の荒い呼吸と、ざわめく心音だけだった。


 人々は息を呑んだ。神官たちも言葉を失い、兵士たちは顔を見合わせた。ヤチャチクも何かを叫ぼうとしたが、月に隠れた太陽を見て、声を出すことができなかった。


 私は鉄の短剣を抜き、地面に円を描いた。それは地球だった。その一角に我らがタワンティンスーユを記し、さらに彼方の「スペイン」と呼ばれる土地に印をつけた。


「太陽は動く。月も、星も。そして、地は丸い……」


 神官たちは互いに顔を見合わせ、沈黙した。


 ひとりの神官が歩み寄った。

「おまえは神を捨て、新たな神を語ろうというのか……?」


「いいえ。私が語るのは神ではない。しかし、このままでは世界は滅びる。私は、それを変えるために、この時代に送り込まれたのだ」


 私はすべてを語った。鉄と知識、言葉という「目に見えぬ力」が、いかに未来を切り開くのかを。


 若い神官の一人が、そのすべてに耳を傾け、何度も質問を重ねた。やがて、静かに言った。


「私は分かった気がします。科学サイエンスという真理が、この世にあること。そして、あなたがその導き手であることを……」


「違う」私はゆっくりと首を振った。


「科学は、絶対の真理ではない。

 それは、真理の一端に触れたにすぎない。

 そして、それをどう使い、何を生むのかは、私たち自身の責任に委ねられている。


 神と科学の違いは、実のところ、本質的には存在しないのである。

 どちらも、信じる者の手によって姿を変え、時に救いとなり、時に災いともなる。


 私もまた、かつてその問いから目を背け、多くの命を奪ってきた。

 民を顧みず、自らの正義に酔い、破壊と犠牲を正当化していた。


 私は、選ばれた者ではない。

 過ちの果てに、ただ『選び直す』機会を与えられたにすぎない。


 今、こうしてここに立っているのは罰を受ける者としてだ……」


 太陽が再び顔を出した。光が戻り、人々の顔を照らしていた。


 私は地面に描かれた数式や図を見ながら、かつて英国人が言った言葉を思い出していた。

 

「ペンは剣よりも強し」


 それは随分と皮肉的な話であった。だが、手に握られた鉄製の剣の感触を確かめながら、私は覚悟を決めていた。私はただ道を照らすにすぎない。歩むかどうかを決めるのは、彼ら自身だ。


 誰一人、言葉を発しなかった。静まり返る中、砂の上に描かれた地球の円と、その片隅に記された『スペイン』の印だけが、朝の太陽に照らされ、微かにきらめいていた。

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