数を数える
マルクスとエンゲルスが理論として完成させ、レーニンがそれを現実のものとした社会主義は、かつて人類が思い描いた最も平等な社会の理想であった。その後、ソ連や中国が行ったのは、むしろその理想を裏切るものであり、平等どころか新たな支配と格差を生み出す体制へと変質してしまった。だが、それでもなお、社会主義の本質的な理念、すなわち、「搾取なき共同体の構築」という思想には、否応なく心を揺さぶられる力がある。
興味深いことに、私が見た未来では、ロシアも中国もいずれ社会主義の旗を掲げる国家となっていたが、今この世界線においては、どちらの国も民主的な制度のもとにある。つまり、歴史の流れは決して一本の筋道ではなく、無数の岐路が交差しているのだ。
話をタワンティンスーユに戻そう。マルクスは、資本主義の成熟によって労働者階級が団結し、やがて社会主義革命が起きると予言した。だが実際には、最初の社会主義国家は資本主義の成熟とは無縁の、伝統的な政治構造の中から現れた。そして、タワンティンスーユは、まさにそうした原型の一つだった。
短期的には、社会主義体制が資本主義に勝る場面もある。例えば、ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク」を打ち上げた時、その科学的成果は世界を驚かせた。
私がこの村の統治を任されたのは事実だが、それだけでは人心を掌握することはできない。統治とは、単に力を振るうことではなく、その力をいかにして正当化するか、その術を持たねばならない。
私は再び偶像を持ち出した。
「先ほどの奇跡は、太陽が私を選んだからこそ起きた。太陽がこの短剣に力を与えたのだ」
私はそう語り、自らを選ばれし者として村人たちに示した。それは古き信仰に依拠した方便でもあったが、同時に、新たな物語を創り出すための第一歩でもあった。
村長はこの主張を受け入れ、改めて私への協力を誓ってくれた。地方の村長たちは、しばしば神官と深いつながりを持ち、民の信仰を左右する立場にあるからだ。
だが、村人全体の心を動かすには至らなかった。特に、子を持つ母たちは頑なだった。彼女たちにとって、安定した日々を捨てる理由などどこにもなかったのだ。
ある母親は、子供の手を引きながら静かに言った。
「巻き込まないでほしい。私たちは、今の暮らしで十分なのです」
それは、まさしく生活者としての直感だった。確かに、乾いた土地での暮らしは厳しいものであったが、少なくとも予測可能であり、安全だった。
それでも私は説得を試みた。短剣を右手に握りしめながら彼らの目を見つめ、訴えた。
「私はこの地に水を引き、作物を実らせ、子らの未来を保証する。たとえ困難であっても、必ずこの村を変えてみせよう」
それでもなお、彼らの目は曇っていた。しかし、私は一つの約束を差し出すことで、ようやくわずかな信頼を得た。
「子供には一切の危害を加えない。それをここに誓おう」
ようやく、彼らはうなずいた。いずれにせよ、すべての責任は私と、私の仲間たちが背負うことになるのだ。
翌日、私はすぐさま作業に取り掛かった。最初に行ったのは、人口の把握だった。
タワンティンスーユでは、労働人口は十進法に基づき、「10」「100」「1000」といった単位で管理され、情報は「キープ」と呼ばれる縄の結び目によって記録されている。
本来、こうした人口データは行政官の管理下にある「行政センター」に保管されている。だが、昨日対峙した行政官に協力を仰ぐことはできなかった。
私は村長にこの地域の人口について尋ねた。彼は一瞬言葉に詰まり、やがて口を開いた。
「さあ……私どもは、あちこちに散らばって暮らしております。川沿いには多くの者が住んでおりますし、オアシスのそばにも、小さな集落がいくつか……」
言葉を濁すその様子から、明確な数字を期待できないことはすぐに分かった。
「では、おおよその人数は? せめて百の単位ででも……」
私がさらに問うと、村長は困ったように眉をひそめ、目を泳がせた。彼は、十進法そのものを理解していなかったのだ。
集まっていた村人たちに同じ問いを投げかけても、返ってくるのは曖昧な表現ばかりだった。 「たくさん」「少し」「あそこには子供が多い」といった言葉が飛び交うだけで、数としての実感がなかった。
彼らにとって、数とは日常の中に存在しないものだった。知っているのは太陽の巡りによる一日の長さ、季節の移ろいで示される一年のリズム。時間の感覚はあっても、空間の中に数量を定位する感覚は、ほとんど育っていない。
さらに追い打ちをかけるように、彼らは「キープ」の使い方すら知らなかった。キープによる記録は本来、高度な会計知識を必要とし、それを扱えるのは特別に訓練された記録官だけだったのだ。
私は焦燥を押し殺し、別の手段を取ることにした。
村の空き地に人々を集め、石で地面に線を引き、数字の授業を始めた。0から9までのアラビア数字を刻み、それぞれに意味を与え、音として読ませた。
それは、おそらくアメリカ大陸の大地に、初めてアラビア数字が刻まれた瞬間だった。私はその行為の重みに、束の間の感動を覚えた。
初日の授業には、多くの村人が集まった。物珍しさもあったのだろう。だが、彼らの反応は鈍かった。数を表すなら、点を複数並べるだけでよいではないかとある老人が言った。彼らにとっては、線や記号というもの自体が抽象的すぎたのだ。
私の従者たちでさえ、混乱した様子を見せた。彼らもまた、文字や数字から遠ざけられた人生を歩んできた。記号を意味と結びつけるという行為が、どれほど困難で革命的なことか、私は痛感した。
やがて日が経つにつれ、授業に来る村人の数は減っていった。
それでも、他の作業の合間を縫って授業は続いた。子供たちは数字の概念を習得し、やがて四則演算を理解するようになった。そして、改革を始めてから一か月が経った頃には、人口の統計を作製することができた。
ナスカ村の常住人口はおよそ1040人であった。そのうち、成人女性が約450人、成人男性は約280人とやや少なかった。これは、多くの若い男性たちが強制労働で他の地方へ徴用され、一時的に村を離れていたためである。
子供は男女合わせて約260人で、年少(10歳未満)が約170人、年長(10〜15歳)が90人程度。高齢者(60歳以上)は50人ほどで、過酷な自然環境と医療の未発達ゆえに、長命な者は稀であった。
全体として、村の人口構成は女性と子供が多く、労働力として使える成人男性の不足が深刻であることが明らかになった。この構成は、今後の計画を立てる上で、最も重要な指針となった。