7、彼女への恋
雄太の野球を通じて小百合に近づくことに成功した向坂は休みの日には球場を訪れて雄太の応援を小百合と一緒に頑張る。そんな経緯を経ていよいよ彼女に自分の正体を明かす瞬間がやってくる。はたして小百合の反応は?
翌月の日曜日、向坂は再び福井ミラクルボーイズの試合が行われている金沢の野球場に来ていた。ここで試合が行われていることはホームページで確認できていた。高宮雄太の試合を応援に来たのはこれで4試合目だった。そのたびに母親である高宮小百合に声をかけ、近況について話をしている。毎回のように応援に来るのでチームメートの保護者達には従兄弟と伝えているようだった。雄太には遠い親戚のおじさんという事にしているらしい。でも感受性の鋭い少年には嘘だとバレているだろうと感じていた。
セールスマンの体なのでドローンについての話もしたが、すぐに雄太の野球の話になった。最近は変化球に対応できていなくて、追い込まれてからカーブやフォークで三振する場面が目立つ。相手投手の投球パターンを読み、次来る球の予想をつけることと、タイミングの取り方を少し小さくすることで対応したほうがいいとアドバイスしたが、母親に伝えてもどれだけ雄太に伝わるか疑問だ。試合後に雄太に直接話をすることにして、向坂は彼女の最近の生活の様子について話題を振った。
「仕事の方は順調ですか。どんなお仕事をなさっているんですか。」と聞くと
「接客業ですが、雄太が帰ってくる時間までには家に帰っていたいので、短い時間だけ働いています。でも雄太が中学生になってからは少し遅くまで働けるようになったかな。」と笑顔で話している。なかなかマッサージ嬢とは言いにくいようだ。
「生活が苦しいとか言っていましたが、収入は十分ですか。」と込み入った質問をすると
「何とかやっているわ。贅沢さえしなければ、母子家庭でも大丈夫よ。雄太が野球で有名高校から特待生で来てくれと声がかかれば、学費だっていらないし寮費だっていらないこともあるというじゃないですか。頑張ってほしい。」と息子に大きな期待をかけている。
「雄太くんがプロ野球選手になれたらいいですね。」と明るい未来を口にすると
「そうなってほしいわ。私たちの貧困生活から抜け出すには、そういう事でもないと抜け出せないのよ。私の子供だからそんなに頭がいいわけじゃないから勉強では勝負できないでしょ。体を張って働いて稼ぐしかないと思うの。」と誰のことを言ってるのか疑問に思わせる言い方だった。
試合が終わり監督とのミーティングが終わって、雄太君が母親の所に戻ってくると向坂は彼に話しかけてみた。
「雄太君、最近の君のバッティング、相手ピッチャーの変化球にタイミング狂わされていることがあるね。タイミングの取り方を少し変えてみるとどうだろうね。」と言うと彼は胡散臭そうに向坂を見ながら
「おじさん誰なの。どんなタイミングの取り方が良いの?」と聞いてきた。
「おじさんは君たち親子の遠い親戚筋なんだよ。君のタイミングの取り方は足を大きく上げてピッチャーの投球モーションに合わせているだろ。そのやり方はそれでいいんだけど、変化球だった時に対応できていないから、変化球が来た時に上げた足をすぐにおろさないで上げたところで少し間をおいて、球を見極めてからおろしていくと打てるようになるかもしれないね。『1,2,3』で打つんじゃなくて変化球は『1,2の3』なんだよ。」と一呼吸置くことをアドバイスした。すると彼はカバンに挟んでいたバットを取り出し、バッティングの姿勢を取り、素振りを始めた。
「1,2の3だよね。『の』に合わせて足を少しだけ止めるんだね。」と言うので
「『の』で上げた足の膝を少しだけ内側に入れて行くのもいいかもしれない。おじさんは現役時代は内側に入れていたよ。」と言うと
「おじさん、野球やっていたの?」と聞くので向坂は
「高校までだけどね。そんなに強いチームじゃなかったからせいぜいで2回戦どまり」と昔のことを語った。
「おじさん有難う。少しだけど今度から打てそうな気がしてきたよ。」と目を輝かせている。さっきまではどこのおじさんかわからず、お母さんを狙って近づく怪しい男として警戒していたのに、急に親近感を持ってくれたようだった。
その様子を見ていた小百合さんは自分ではどうしようもないことをアドバイスしてくれた向坂に良い父親の姿を見たような気がして少しうれしくなった。
「今日はありがとうございます。いつも仕事で忙しいだろうに、毎週のように応援に来てくれて雄太も喜んでいるわ。」と笑顔で話してくれた。
雄太が白い軽自動車に乗り込んだことを確認して向坂は準備してあった紙きれを渡した。小百合は突然のことで驚いたが、その紙きれを雄太に見つからないようにスカートのポケットにそっと仕舞い込んだ。小百合は急に動悸がしてきた。こんなどきどきはいつ以来だろう。まともな恋愛をしてこなかった小百合は純粋な恋の芽生えは初めてだったかもしれない。35歳の子持ちの女は乙女のような恥じらいを感じていた。
小百合は家に帰るとすぐに
「雄太、洗濯物出しなさい」と大きな声で指示した。雄太もその声に呼応して野球バックからユニフォームを出して洗濯籠に入れて、家着に着替えるとテレビの前に寝そべって携帯で友達からのメールをチェックし、ゲームを始めた。
雄太がゲームに夢中になっていることを確認すると小百合はスカートのポケットに忍ばせた例の紙切れを出して中身を確認した。
『向坂健三 40歳 090-2098-〇〇○○』と書かれている。彼は自分に気があるのかもしれないと感じ、嫌な気はしなかったが、名古屋で別れてきた元夫のことを思うと
もう二度と男と付き合うのは嫌だとも感じていた。しかも自分がマッサージ嬢であることを話せるわけもなく、良い人かもしれないけど自分には無理だとあきらめてしまっていた。ただ、時々会って話をするだけならいいじゃないかと言う気持ちもあり、あの時すぐに紙を見て、電話番号を確認したら携帯で電話をかけて、着信履歴を残しておけば自分の連絡先を教えることもできたのにと思い、残念な気持ちが少し湧いて来ていた。
「雄太、あのおじさん、来週も応援に来るかな。来週の試合、どこだったっけ。」と息子に聞いてみた。息子は何のことか分からないが、寝そべってゲームをしながら
「来週は土曜が富山だけど、日曜は福井県営球場だったんだけどフェニックス球場に変わったんだ。監督がさっき言ってたよ。」と教えてくれた。
「大事なことは早く言わなきゃダメじゃないか。」と雄太に文句を言ったが、小百合は内心少し喜んだ。ホームページには月ごとの予定が出ているが、変更分は掲載されないかもしれない。向坂がホームページを見て県営球場に行ってしまうとかわいそうだから、彼に連絡してあげる口実が出来るからだった。
しばらくして雄太が部屋で宿題をやり始めた。小百合は普段はほとんど干渉しないし、勉強を強制もしない。しかし今日は冷蔵庫からオレンジジュースを出してコップに入れ、クッキーを皿にいくつか並べてお盆に乗せると、雄太の部屋の扉をノックした。
「雄太、勉強頑張っているの?」と言って部屋に入ると持って来たクッキーとオレンジジュースを机の端に置き、我が子の顔を眺めて
「疲れているのに感心だね。頑張ってね。」と言って部屋を後にした。滅多にない母の行動に雄太は唖然としたが、オレンジジュースは冷たいうちに飲みたいと思い、一気に飲み干した。
居間に戻ってきた小百合は雄太が勉強していることを確認できたので、向坂が渡してくれたメモをもう一度出した。雄太の部屋とつながっている居間から台所に出て、向坂に電話をかけるのだ。息子に差し入れをしたのは息子が急に出てこないかを確認するためだった。番号を間違えないように紙を見ながらボタンを押し、発信ボタンを押す前にもう一度番号を確認した。間違いなさそうだった。意を決して発信ボタンを押した。数回発信音がなったのち、彼が電話を取ってくれた。
「はい、向坂ですけど。どちら様ですか。」彼の声は発信者がわかってないので警戒している感じがした。小百合は連絡先メモをもらったから喜んですぐに電話かけてきたと思われないように、冷静な声を装って
「高宮ですけど。今日は応援や息子への指導、ありがとうございました。実はもしなんですけど、もし来週も応援にいらっしゃるお気持ちはありますか。」とまず聞いてみた。すると彼はすぐさま
「はい。来週の日曜日。空いてますから県営球場ですよね。他に用事もないし。」と落ち着いた声で話してくれた。小百合は少しせき込みながら
「実は今日お電話したのは、来週の試合会場が変更になったからなんです。私もつい先ほど、息子から聞いたんですけど、県営球場じゃなくてフェニックス球場を使うそうです。もし、万が一、向坂さんが応援に来てくれたとして、県営球場で他の試合をしていたら申し訳ないなと思って、ご連絡差し上げたんです。」とうれしそうな様子を出さないように気をつけながら伝えた。向坂は
「ご連絡ありがとうございます。連絡先を書いた紙なんか渡してごめんなさいね。びっくりしたでしょ。高校生みたいだなって反省したけど、早速電話してくれて嬉しかったです。この電話は小百合さんの携帯ですよね。連絡先に登録させていただきます。」と意気揚々とした感じで話している。小百合も高校生の頃の純粋な恋愛をしていたころに戻ったような感じがして、黙っていても顔がにやけて来てしまっていた。ただ
「連絡先をもらったからうれしくてすぐに連絡したわけではありませんから、誤解なさらないでくださいね。」といらないことまで口走ってしまったと反省した。向坂は
「では来週はフェニックスに行きますが、今度は僕から電話しますね。」と言ってくれた。小百合は思わずうれしくて
「はい。」と同意の返事をしてしまった。電話を切った小百合が居間に戻ると雄太が小百合の方を見ている。
「お母さん、誰と電話してたの? なんか声が嬉しそうだったよ。」と見透かされていた。
向坂が小百合の電話番号をゲットして2日たった火曜日、会社では間もなく経営者3人による経営戦略会議が始まる時間になっていた。向坂は2人が社長室に入ってくるまで、いつものように白山方向を見ながら下の駐車場を見ていた。10時前に2人が社長室に入ってきた。井川が
「社長、今日も彼女が現れないか見張ってるんですか。」と言うので
「今週は来てないね。毎朝10時に見てるんだけど、あの車は来てないように思うよ。」と言うと桂田は
「確かにきれいな人だったけど、火遊びにならないように自制してくださいよ。」と促してきた。2人がソファーに座ろうとした時駐車場の入口からSUVが入ってきた。向坂は
「今日は青い車の方が先に入ってきたよ。」と言うと2人も窓の方に寄ってきた。しばらく様子を眺めていると、予想通りあの白い軽自動車が入ってきて、何事もないように平然と青いSUVに乗り込むとすぐに出て行ってしまった。井川が少しいかがわしい声で
「また彼女は御出勤ですかね。今日も真昼間からどこかの社長とホテルの部屋で会うんですね。どんなことをするんでしょうか。」と少し嘲笑するような感じで話すと向坂は
「そんな言い方するなよ。彼女だってそんな仕事したくてしてるわけじゃないんだ。とてもいい人なんだけど、生活が苦しいんだ。マッサージ嬢を見下した言い方はしないでくれ。」とやや感情的になってしまった。そこで桂川が
「社長、完全に彼女に気持ちが入ってますね。大丈夫ですか?」と戒めた。しかし向坂は意に介せず
「僕は彼女の仕事を卑しい仕事だと差別するわけではないけど、なんか気持ち的に彼女にこの仕事を続けてほしくない。僕の純粋な気持ちだ。」と言うと桂川は
「社長はもう大人なんだから、私たちがどう言おうと聞く耳は持たないでしょうね。だったら、少し応援したほうがいいかな。2人をリチャード・ギアとジュリア・ロバーツに仕立てて差し上げましょうか。」と今度は煽ってきた。井川は
「とりあえず、彼女を一度この部屋に招待したらどうでしょうか。そして彼女たちの貧困を解決する道を探りましょう。」と提案してくれた。向坂はとにかく彼女が他の男とホテルの部屋で2人きりでいることが我慢できなかった。おそらく今日の仕事は4時ごろには終わるので、5時ごろに電話をしてみようと3人で話がまとまった。
会社の就業時間の5時が近くなると、各部署で後始末が始まる。作業台に部品を並べていた開発チームはきれいにかたずけて清掃を始める。生産ラインの人たちは道具をきちんと元の場所に戻し、ごみを捨てたり床を掃いたりしている。事務系の人も出しっぱなしの書類を片付けコピー機やパソコンの電源を落とし、ごみ箱のごみを集めたりする。社員全員が時間を守り定時退社しようとするのは、若い人たちが多いベンチャー企業の特徴かもしれない。
経営陣の3人はどうかと言うと、いそいそと社長室に集まってきて相談している。向坂が高宮小百合に電話をする様子を2人が見届けようとしているが、向坂は電話しにくいから部屋から出ろと言っている。高校生の集団のような光景だ。しかし意を決して向坂が携帯電話を手にして電話をかけ始めた。電話番号は携帯の連絡先に登録されている。着信音の後彼女が電話に出た。
「もしもし、向坂さん? 高宮ですけどどうしたの。」高宮も向坂の電話番号を登録してくれたようだ。向坂は
「今度の日曜日はフェニックス球場へ行く予定だけど、その前に一度会えないかな。少し話したいことがあるんだけど。仕事もあるかもしれないけど出来れば午前中に会いたいんだ。午前10時、どうかな。空けてくれないかな。」とかなり無理なことを頼んだ。しかしマッサージはその日出勤予定を入れなければ良いことを向坂は知っている。予約さえ入っていなければ、休もうと思えば休めるはずだ。そう踏んでいた。
「え、明日ですか。急に言われても休めるかな。」とためらっている。向坂は
「どうしても君に話しておきたいことがあるんだ。それは君のためなんだ。信じて欲しい。」と頼み込んだ。すると彼女は
「それじゃ、わかったわ。行くわ。何処へ行けばいいの。」と言うので
「迎えに行くよ。君の家で待っていて欲しい。」と言って電話を切った。
そこからは3人の作戦会議が始まった。作戦は彼女を会社の社長室に連れてくるとだましていたことがバレるし、社長室から観察していたことも尾行していたこともバレる。彼女は怒り出すことも考えられたので、その対応法と彼女の誇りを傷つけずに貧困から救い出す方法を考えた。特に桂川は同じ女性として彼女の気持ちを類推してくれた。
翌日10時はすぐにやって来てしまった。9時40分には井川と桂川が社長の向坂を見送った。向坂は自分のベンツで彼女の住む郊外の集合住宅へ向かった。会社から郊外への道を進み、大きな道路から細い路地に入ると彼女の住んでいる集合住宅があった。道路に車を停め、彼女の部屋のインターフォンを押すとすぐに返事があった。
「はい、どなたですか。」甲高い声で小百合さんだとすぐわかった。
「向坂です。お迎えにあがりました。」と言うと
「はい、すぐ出ますから少しだけ待ってください。」と言って声が切れた。まだ化粧が済んでいなかったのだろうか。それとも朝ご飯の食器が洗ってなかったのか。いろいろ考えていたが彼女はすぐにドアを開けて出てきた。
「お待たせしました。」と言って出てきた彼女は今日は黄色とひざ丈のスカートに白い薄手のブラウスを合わせている。足元は夏らしいかかとの高いサンダルを履いている。仕事用ではなさそうなのであまり高価な感じの服装ではなかった。貧困そうなので仕方ないが、低価格の装いを身にまとっても彼女が着ると美しく見えた。
「向坂さん、この車なの。ベンツじゃない。あなたセールスマンと言っていたけど、本当は何者なの?」と車を見て少し驚いている。普通のセールスマンならさすがに1000万以上はする大きなベンツは買えないだろうと思ったようだ。
「大したことありません。会社の車です。」
確かに嘘はついていない。社長が乗っているが会社の資金で買っている。個人ではなかなかこのクラスの車は買えない。
「気にせず、どうぞ乗ってください。」と言って助手席のドアを開けて彼女をエスコートした。小百合は味わったことのない、お姫様になったような気分で助手席に乗り込んだ。
「向坂さん、どこへ連れて行くの。どんなお話なんですか。」とこの先への不安もあることを正直に打ち明けた。35歳とは言え、美しい彼女が40歳の男に拉致監禁されることがあってもおかしくはない。彼女は自分の身の危険を感じるとともに、向坂に期待するところも大きく、不安定な気持ちのまま助手席で彼の顔と車の前方を交互に見ながら、行先を予想していた。車は小百合が良く知っている道を走っている。国道に入り、大きなショッピングセンターに近づいてくると、彼女にとってもよく利用するパチンコ屋の駐車場が近づいてきた。『ここよく来るんです。』とも言えず静かにしていると、車はその隣の駐車場に入っていった。
「ここですか。この会社なんですか。」と小百合が聞くと向坂は
「そうです。ここが僕たちの会社でドローンを作っています。」と説明してドアを開けて外に出ると、彼女もドアを開けて降りてきた。彼女をエスコートしながら会社の中に入っていき、エレベーターの前に立つと社員の一人が向坂にお礼をして立ち去った。
「あの人、部下なんですか。お辞儀していきましたよ。」と小百合が言うと
「そうです。営業のメンバーですね。」とその場をごまかした。エレベーターに乗り込み5階のボタンを押すと扉が開いてエレベーターに乗り込んだ。小百合はまだ何も聞かされていないので、5階になにがあるのか、そこでどんなことが起こるのか、向坂とはどんな人物なのか、いろいろな妄想が頭をよぎり、不安に押しつぶされそうになってきた。
5階につきエレベーターの扉が開くと、向坂は
『どうぞ』と言って先に降りて行った。彼に続いて小百合が歩くと廊下の奥に扉があり、その扉の奥に秘書室があった。その部屋の机には秘書らしき人が座っていたが、向坂を見ると立ち上がってお辞儀をしている。ネーム板には『KATURAGAWA』と書いてある。向坂がそのまま進むので、ようやく小百合も気が付いた。
『この人、社長なんだ。』
前を歩く向坂は桂川と言う秘書に目で合図を送ると、そのまま進み大きな扉を開けた。そこには大きなガラスの窓が壁一面に広がり、東側に向けて広がっているので、朝の太陽が全面に降り注ぎ、部屋の明るさは眩しいほどだった。正面には大きな白い山が見えるし、中に入ってみると真下にはいつも通いなれたパチンコ屋の駐車場が良く見える。
「この部屋はあなたの部屋なの?」と小百合が聞くと向坂は
「そうだよ。」と答えた。
「それじゃ、あなたはこの会社の社長ってことなの?」まさかと思いながら高宮小百合が聞くと向坂は
「僕は嘘は言ってません。確かにこの会社の社長は僕だけど、君の家を訪ねた時、ドローンを売るセールスマンだと言っただろ。社長は一番のセールスマンだよ。君の家にドローンを売りに訪問販売に行ったんだ。」と悪びれずに言った。
小百合はやはり仕組まれたものだと感じ取り、
「向坂さん、どうして私に近づいてきたの。どうもおかしいんだけど。」と疑いを向坂にかけてきた。そしてついに彼女が
「もしかして、この部屋から私のことを見ていたんじゃないの?」と核心をついてきた。向坂は嘘をつくのは彼女に失礼だと思い
「はい。午前10時ごろに真っ赤なドレスを着て、車から降りたところをこの部屋から見ていました。すごく素敵だった。一目で君に興味を持ってしまった。」と一目ぼれしたことを告白した。すると小百合は
「どうやって私の家がわかったの? 尾行したってことですか。」とやや怒りを込めて追及し始めた。するとその時、社長室のドアをノックして桂川がお茶を持って入ってきた。
「高宮さん、落ち着いてお座りください。驚かれたでしょうね。私は社長秘書の桂川ですが、以前から社長には火遊びならば女性に失礼ですから、手を引いてくださいと申し上げていたんですが、社長はかなり本気だったみたいです。どうか怒らないでやってください。」と社長への理解をお願いした。しかし小百合の疑いの心は晴れない。
そんな小百合に向坂が
「自己弁護に聞こえるかもしれないけど、君を騙したわけではないんだ。毎回赤いドレスで現れる君に興味がわいたことは本当だし、話してみて好意を持ったことも事実だ。でも、君の生い立ちを聞いて現代社会が抱える格差の問題を感じてしまったんだ。」
そこまで話した時、小百合が口を挟んだ。
「向坂さん、私のことをどこまでご存じなんですか。好意を持っていただいたことはうれしいけど、何か誤解があるのではないかと思うんですけど。」と話を戻した。その時、社長室のドアを開けて井川が入ってきた。
「あ、あなた、確か井川さんですよね。」
以前、お客さんとして指名してくれた井川のことを思い出したのだ。井川はお互いに言いにくい事に立ち入るために、途中で入っていく準備をしていたのだ。
「久しぶりですね、小百合さん。僕もこの会社の人間なんです。」と打ち明けると、小百合は自分の身の上を向坂がすべて知っていることを悟り
「向坂さんはすべてご存じで私たち親子に近づいてきたんですね。井川さんに偵察までさせて、私たちのことを笑っていたんですね。」と少し悲しそうな表情でつぶやいた。向坂は彼女に寂しい思いをさせたくはなかったので
「あなたがマッサージ嬢だという事も知っていましたし、マハラジャと言うお店に所属していることも知っています。でもマッサージ嬢を差別しているわけではありません。」と彼女の生き方に一定の理解を示した。すると小百合が向坂の目を見つめながら涙目で
「誤解のないようにお話ししますが、私はマッサージ嬢ですが性的サービスだけはしていません。息子が堂々と生きて行けるように健全なマッサージ嬢でいる事を信条にしてきました。でも風俗関係の仕事には間違いありません。そんな私のことを知っていて、それでも向坂さんは好意を寄せてくれるんですか。」と聞き返してきた。向坂は真剣な表情で眉一つ動かさず答えた。
「そうだよ。最初はこの部屋の窓からぼんやりと白山を見ていたら、君が軽自動車から真っ赤なドレスで現れたからびっくりしたんだ。」と事の発端も説明した。
「好意を寄せていただけることは女ですからとてもうれしい事なんですけど、貧乏そうだから可哀そうだと同情されるなら大きなお世話です。私たち親子は貧しいながら元気に楽しく生活してますから。」と気丈に答えた。
ここで桂川は3人の作戦通りにある話を持ち出した。
「小百合さん、実は社長はマッサージと言う仕事を軽蔑しているわけではありませんが、好意を寄せる女性がよその男性と1対1でホテルの部屋にいることが心配なんです。要するに妬いているんですよ。出来れば何か他のお仕事を斡旋したいと言っています。どうでしょうか。私たちと一緒にこの会社で正社員として働いてくれませんか。この会社は定時にしっかりと終りますからお子さんのお世話に支障はないと思います。お給料は社長と相談してください。」と提案した。小百合は思いもよらない話に驚いたが、正社員と言う言葉に気持ちが高ぶった。
「正社員なんて、私なんか何も出来ないんです。パソコンも触ったこともありません。こんなとりえのない人間でも正社員になれるんですか。」と問い返した。向坂は
「事務職員として採用しようとは思っていません。今開発中の新型のドローンの開発メンバーに入ってほしいんです。言葉が悪いかもしれないけど、あまり裕福でない人の目線でアイデアを出してもらいたいんです。プログラミングは開発メンバーがやりますが、生活者がどんなことに困っていて、その解決策にはどのようなことが求められるのかは、実際の生活者しか分からないんです。どうかお願いします。」と優しく頼み込んだ。すると小百合はしばらく考え込んで
「有難いお話だと思うんですが、私にも固定客がついています。毎週水曜日の10時30分に呼んでくださる80歳のおじいちゃんはお金持ちだけど家族がいないんです。他にも私との会話が唯一の楽しみだと言ってくださるご年配の方々がいるので、少し考えさせてください。」と言って向坂の方を見つめた。向坂は
「それでは良い返事をお待ちするとして、今日はこの辺でお宅までお送りしますよ。」と言って席を立った。小百合も持って来たバックを手に立ち上がり、向坂に促されて部屋を出た。井川と桂川は小百合に軽く会釈をして一緒に部屋を出た。
向坂と高宮小百合は車で高宮の家に向かったが、途中高宮が
「向坂さん、私みたいな女のどこが良かったの?私なんか貧乏な30代の子持ちよ。」と自虐的なことを話した。すると向坂が
「一生懸命生きているところかな。名古屋での地獄のような生活から逃れて、雄太と元気に生きているじゃないか。球場で雄太を応援する君は輝いているよ。」と答えた。小百合は嬉しかった。仕事で出会うお客さんたちはマッサージをする彼女に好意を寄せて彼女の身体を触ろうとしてくるが、仕事抜きにして言い寄ってくる男性はここ最近ほとんどいなかった。仕事中は女に戻るが、家に帰ると母親でしかなかったからだ。
ほどなく彼女の家の近くに向坂のベンツが到着すると
「ここでいいわ。」と言って小百合がアパートの前ではなく、大通りで降ろしてくれと頼んできた。アパートの前まで行って隣近所の人にベンツに乗った紳士に家まで送ってもらってきたことを見られたくなかったのだろうと察した向坂は
「わかったよ。ここでいいんだね。」と言ってゆっくりと車を大通りの路側帯に停車させた。
「今日はありがとうございました。お返事はまた今度させていただきます。」と小百合が助手席から運転席の向坂を見つめて話すと向坂は
「今度また近いうちに連絡入れるよ。」と言って彼女の手を握るとそっと抱き寄せてハグして頬を近づけた。突然のハグに驚いた小百合は息もできないくらい驚いたが、胸の鼓動の高鳴りを抑えきれず、少女のように慌てて車のドアを開けて外へ出た。ドアを閉めるとようやく我に返り、ガラス越しに向坂に向かって手を振りながら
「ありがとう」と小さな声で言ったが、彼にその声が届いたかどうかは疑問だった。彼も笑顔で小さく手を振って車を出発させた。見送る小百合は彼の車が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
小百合を自分の会社で雇用したいと言った向坂の気持ちを小百合はどう受け止めるのか。2人の愛は発展していくのか。