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5、訪問セールス

高宮小百合の尾行を終えて彼女の勤め先などを突き止めた向坂は自身で彼女への接触を試みる。向坂はセールスマンを装って彼女の家を訪ねる。彼女の生活や家族関係などを調べる。彼女はどうして福井に来ることになったのか。雄太の父親はどんな男だったのか。謎が紐解かれる。

翌日、出社した井川は10時からの経営戦略会議の前に社長室に出向いた。出来れば桂川が社長室に来る前に社長に彼女のことを報告しておきたかったからだ。社長室に入った井川は前日の“小百合”さんとの会話の内容を報告した。向坂社長は

「名古屋の人だったんだね。何で福井に来たんだろうね。結婚した相手の男性が福井の人だったのかな。」とその場で新たな妄想を膨らませた。

「彼女の家庭環境を調べて見たくないかい。」

社長が井川にストーカーのような発言をした。井川副社長は危険を感じ

「社長、彼女のプライバシーに入り込んだらストーカーですよ。犯罪行為と紙一重だと思いませんか。お金を出して遊ぶ程度なら許されますが、一線を超えてはいけないんです。」と真剣な表情で忠告した。社長の行き過ぎを停めるのも副社長の役割だと考えていたからだろう。社長はなおも考えを改めずに

「彼女が好きだとか、興味があるとかいう問題ではないんだ。世界中で経済的な格差の問題は広がっているだろ。アメリカは資本家層は益々富裕化しているし、貧困層の暮らしは益々落ち込んでいる。中国でもロシアでもヨーロッパでもその傾向は広がって来ていて、資本主義の終焉とまで言われている。デフレに見舞われ失われた30年と揶揄されている日本だけど、インフレを抑えてきた日本の方が健全だったのかもしれない。しかしそんな日本にも経済格差の波は押し寄せて来た。IT長者や投資家は数十億の資産形成に成功しているけど、社会的弱者の貧困層は、非正規雇用に甘んじて安い給料で使い捨てられている。その格差の問題を生の視点で観察して見て、今後の会社の経営に生かしていきたいんだ。」

社長の言葉に井川は何もこの女性に貧困層の全てを当てはめなくても、もっと他にもいるような気がしたが、社長の思うようにやらせてみようかとも思った。


 翌日は午後から社長は休暇を取って外出していた。あらかじめ聞いていたので、桂川は社長室の前室である秘書室で社長の予定の調整をしていた。すると15時ごろ井川がノックして入って来た。

「桂川さん、面白いものを見に行きませんか。」

井川は含み笑いをしながら桂川に無人の社長室に入るように手で合図した。桂川は怪訝に思いながらも

「何かあったんですか。面白いものって。」と言って井川の後に続いて社長室に入った。2人は社長室の大きなガラス窓の際に立っていつものように隣のパチンコ屋の駐車場を覗き込んだ。井川は駐車場の端を確認すると人差し指でその駐車場の端を指さして桂川に示した。そこには向坂社長のベンツが待機している。その近くにはいつもの白い軽自動車が停まっていた。

「あら、今日も営業中なのね。」

桂川がそう言うと井川副社長は

「ここからが本番さ。」と小声で言って下の駐車場に注意を集中した。その時、道路から駐車場にいつもの青いSUVが入ってきて白い軽自動車の隣に停まり、赤いワンピースの女性が車から降りるとSUVの男性に手を振って別れを告げると、自分の物と思われる白い軽自動車に乗り込んで駐車場から出て行った。すると近くに泊めていた社長の黒い大型のベンツが動き出して、白い軽自動車を追いかけて出て行った。青いSUVはそんな事とも思わず、反対側の出口から出て行った。

 その様子を見ていた桂川はびっくりして井川に

「井川さん、社長何やってるんですか。これではあの女性の家を特定してしまうじゃないですか。ストーカー行為と言われても仕方ないですよ。」

顔色を変えて社長のことを心配した。しかし井川は

「僕も止めたけど、仕事の参考にすると言って聞かないんだ。見守るしかないよ。」と言ってあきらめ顔だった。


向坂は自分の車でパチンコ屋の駐車場に14:45ごろには入り、女の白い軽自動車が停まっている場所が見渡せるところに駐車した。自分がやっていることの正当性がないことは十分に分かっている。格差問題の調査なんて言うのは詭弁だと言われることも理解している。本音は彼女への興味関心が一番かも知れない。ただ会社のことを考えれば不祥事を起こしてはいけないので、自制しなくてはいけない。一線は越えないつもりだった。

 いろいろ考えているうちに予想通り彼女を乗せた青いSUVが彼女の車の脇に停まった。彼女は今日も赤いワンピースを着て大きなサングラスをしている。車を運転してきた店長は柄物の派手なアロハシャツを着ている。運転席から彼女の方を見て手を振っている。また明日も頼むねと合図しているように思えた。

 彼女は自分の車に乗り込むと、この駐車場には用はないとばかりに颯爽と走り出して公道に出て行った。向坂は青いSUVの店長に悟られないように少し間をおいてから彼女の車を追って発進させた。公道に出るとすぐに彼女の車を確認した。前方20mの交差点で信号待ちをしている。彼女の車の2台後方に付け待っていると、信号が変わり彼女の車は左折して国道に入った。どうやら郊外の方に向かうようだ。向坂も彼女の後を気づかれないように尾行して5キロほど進んでいくと、大きな川を越えて郊外型の店舗が立ち並ぶ風景になってきた。大きな中古車センターのある信号で彼女の車が左折した。郊外の国道わきはしばらく行くとすぐに田園風景に変わっていき、新興住宅や集合住宅が目立つ地域に入る。その中の一つの2階建ての集合住宅の駐車場に彼女の車は入っていった。

 向坂は車を近くの道路に停め、車の中から彼女がどの部屋に入っていくかを確認した。この集合住宅は2階建てでそれぞれ2世帯ずつ、4世帯の集合住宅になっている。彼女は1階の西側の部屋に入ったようだった。しばらく車の中で待機していたが用意していたブリーフケースを取り出し、背広姿のまま車外に出た。自分では訪問販売のセールスマンに扮装しているつもりだった。ただ車がベンツだったので住宅の駐車場には入らず、公道に駐車したままにしておいたのだ。

 怪しまれないように彼女の家の隣の玄関に近づき、チャイムを鳴らした。しかし反応はなかった。まだ3時過ぎなので仕事に行っていて留守なのだろう。向坂にとってはその方が都合が良かった。すぐに隣の目的の家のチャイムを押した。しばらく返事を待つ間に表札を見た。『高宮小百合・雄太』と書いてある。一瞬に小百合が先に書いてあって雄太が後という事は雄太は夫ではなく息子だろうと直感した。するとチャイムに呼応して中の“小百合”から返答があった。

「はい、どなたですか。」

初めて聞く“小百合”の声はソフトな響きで、子供のような甲高さがなく、艶めかしい色気が漂うような声だった。向坂はインターフォンに向かって

「サンライズと言うドローンを販売する会社から来ました。格安の物もありますからパンフレットだけども見ていただけませんか。」と信じられない自己紹介をした。彼は嘘はつきたくなかったのだ。一般家庭にドローンを売りに来るセールスマンなんていないが、化粧品のセールスに化けたらこの後顔を合わせる事ができないと思ったからだ。ただ社長だという事は言えないと思い、セールスマンという事にしたのだ。しばらく待っていると彼女が玄関を開けて出て来てくれた。

「どういったご用件ですか。」

彼女は赤いワンピースから部屋着の上下ジャージ姿に変わっていた。

「このあたりをセールスでまわっていますが、ドローンには興味ありませんか。」

向坂が場違いな質問をすると彼女は呆れたような表情で

「貧乏なのにドローンなんて買う訳ないじゃないですか。何に使うんですか。」と言っている。向坂は

「小さなドローンなら3万円くらいからありますよ。でもそんなに貧乏なんですか。」と聞いてみたいことに話を進めた。彼女は

「母子家庭で生活するだけでカツカツなんです。息子の野球にお金がかかるので、余分なお金はありません。帰ってください。」と聞いてないことまで話してくれた。

「息子さんは少年野球ですか。それとも中学生のボーイズ野球ですか。」とさらに話を進めると

「中学生のボーイズ野球でグローブもバットもスパイクも硬式用だから、バカにならないんです。でも頑張っているから応援したくて。」と屈託ない笑顔になってきた。向坂も中学まで野球をやっていたので

「ボーイズだと道具は高いし、遠征費もかかりますよね。僕も中学生の頃、やってたから大変なことはわかります。何処のチームですか。」と同調すると一気に彼女の気持ちが緩やかになってきた。

「福井ミラクルボーイズです。遠征は毎週末に関西や名古屋に行ってます。遠征がない時は福井で試合です。私も週末は一緒に応援に行くのが楽しみになっています。」

生活は厳しいが、中学生の息子の野球応援が彼女の生きがいになっているようだった。

「では頑張ってください。」

向坂は彼女を応援して訪問セールスを終えた。



 向坂は次の週末に福井運動公園を訪れていた。駐車場に車を停めると歓声が聞こえる野球場を目指した。前日、福井ミラクルボーイズのホームページを閲覧すると、今週末福井運動公園で県外チームを招待して、練習試合を行う計画が書かれていたのだ。

 1塁側内野席の入口の階段を昇り、内野席に入ると美しい緑色の芝生と茶色の土のコントラストが鮮やかなグランドが見えてきた。マウンドでは背が高いがまだ、か細い少年がキャッチャーに向けてなかなか速い球を投げ込んでいる。胸のロゴマークから愛知県のチームのようだ。打席に入る選手の胸には福井ミラクルボーイズと書かれていた。得点ボードを見ると5回を終えて福井が1点リードしていた。球場内は両軍ベンチからの選手たちの声がこだましていたが、それ以上に観客席に陣取った家族と思われる応援団の熱烈な応援の声が球場内に響き渡っていた。

 ホーム側の1塁側内野席を見渡すと白いジーンズに真っ赤なTシャツを着た高宮小百合がサングラスをかけ幅広の麦わら帽子をかぶって陣取っているのが見えた。向坂は偶然を装って彼女の席の少し後ろの席に座り、試合を観戦した。場内アナウンスはないが、応援の保護者たちの声を聴いていれば打席に立つ少年の名前はわかった。

 2アウト1,3塁のチャンスで福井の少年が打席に向かった。観客席のどこかのお父さんが高宮小百合の方を見て

「雄太、一発撃ってくれるといいんですがね。」と言っている。向坂はこの打席の少年が高宮雄太だと知る事ができた。大きなヘルメットをかぶっているのではっきりとは分からないが、日焼けしたたくましい顔だが、小百合さんと似た感じがしてイケメンであることがわかった。

「雄太、落ち着いて狙い球を絞って思い切りいきなさい。」

高宮小百合がその場に立ち上がり、拡げた両手のひらをラッパのように重ねて、力の限りの大声で息子に向けてアドバイスを送った。打席の息子は一瞬観客席を見て母親の存在を確認すると、軽く頷いたように見えた。

 2ボールからの3球目、彼は狙いすましたようにストライクを取りに来た相手投手のストレートを、耳の後ろでまっすぐ立てたバットを最短距離に出すことで振り遅れず、しかもミートポイントから前を大きくとって力強く振りぬき、打球を左中間へ運びフェンスまで転がった。硬式ボールなので乾いた打球音が球場中に響き、観客の歓声が一気に盛り上がった。

 高宮小百合の周りの保護者たちが彼女の周りに集まって、彼女とハイタッチをしている。みんな嬉しそうな表情で、小百合もうれしさのあまり少し涙ぐんでいる。周りの多くの保護者からの祝福に応えるため、小百合は前後左右を見回してみんなに挨拶している。その時、3列ほど後ろの段に座っていた見覚えのある男に彼女は気がついた。男は先日のようにスーツ姿でネクタイだけを外して野球観戦していた。

「あれ、この間のドローンのセールスの人ですよね。どうしたんですか。」

高宮小百合はその男が球場にいることに違和感を感じて、そこにいる理由を聞いてしまった。

「息子さんが福井ミラクルボーイズにいるって聞いたので、暇だったから来てしまいました。」

男の言葉に高宮小百合は少し身構えた。お店のお客さんに彼女の普段の姿がバレてしまうと付きまとわれることもあるので、プライバシーは明かさないが、セールスに来た人に付きまとわれたら面倒くさいと感じたのだ。

「私たち親子に興味があるなら迷惑なので困ります。」

高宮ははっきりと拒絶の姿勢を見せた。しかし向坂は諦めることなく

「先日、母子家庭で貧しいとおっしゃいましたね。実は私は格差社会について会社の新商品開発に生かそうと考え、いろいろな方にお話を伺っているんです。お時間は取らせませんからどこかで10分ほどお話しさせていただけませんか。」と思い切って言ってみた。すると彼女は警戒のバリアを少し下げて表情を緩めた。

「それじゃ、この試合が終わった後、監督が選手に話をする間、私たちは子供を待ってるので、その時にこの球場のスタンドの下でどうですか。」

彼女が話を聞かせてくれることになった。試合はそのまま7対2で福井が圧勝した。


 ゲームが終わり、両チーム同士のホームプレート付近での挨拶が終わると、選手たちは応援席前に一列に並んで保護者席に一礼した。この時も保護者たちは大声援を送り、選手である我が子たちに次の試合に向けての意欲を高めるための拍手や歓声を送る。選手がベンチに消えてミーティングを始めると、親たちは横断幕を外したり、メガホンや呼子を片付けたりして荷物をまとめて球場外へ出て行った。すぐに帰る人もいたがほとんどの人はチームの選手たちが解散した後、子供を連れて帰るために遠巻きに監督と選手の円陣を見ながら待っている。

 そこに向坂がスタンドから降りて現れると高宮小百合が手を上げて合図を送ってきた。少し離れたところにベンチがあるのでそこへ来いという事らしい。周りにたくさんの人がいるので女性と2人でベンチに座る事にはやや抵抗があるが、たくさんの人が見ているからこそ高宮小百合は安心して応対してくれるのだ。2人きりだったらまず承諾してくれなかっただろう。

 高宮小百合がいるベンチに座った向坂はインタビューの意図をまず話した。

「私たちの会社はドローンを作っていますが、今の時代はAIの進展でドローンにもAIを搭載します。しかしそのAIにどんな仕事をさせるかは私たちがどのようなプログラムを組むかにかかっています。そこで人々がどんなニーズがあり、どんなドローンを作れば人々の生活を豊かにできるかを考えなければいけないんです。そこで、生活に困っているという方々の生の声を聴きたいんです。」と話すと彼女は目を見開いて

「なんか難しい話は分からないけど、私が貧困層の代表で話せばいいのかな。」と問いかけてくれた。向坂は首を縦に振りながら

「貧困層代表と言うわけではないんですが、だいたいそんな感じです。母子家庭代表の方がいいですかね。」と言いなおした。そして質問を続けた。

「母子家庭になったいきさつを教えていただけませんか。」

聞きにくいことからダイレクトに聞いてしまった。彼女は

「あまり話したくないけど、私は名古屋の出身で、元夫とは高校で知り合ったんです。高校卒業と同時に同棲し始め、しばらくすると雄太が生まれたの。私はコンビニで働いていて、元夫は自動車会社の派遣社員だった。工場で夜勤しながら働くと月30万円くらいのお給料にはなった。でも派遣社員は1年で期限が切れるから、また雇ってもらえるかどうかはその時の経済情勢によるの。名古屋の自動車会社は景気がいいから仕事にありつけないことはあまりなかったけど、同じ部署に同じ派遣が長期間いると正社員がやりにくくなるから、定期的に契約を切らないといけないの。」

そこまで話した時向坂が

「今30代の人から40代の世代の人たちは派遣をやっている人が多いですよね。バブル経済真っ最中の1986年に労働力不足を補うために労働者派遣法が出来て、必要な時に必要なだけ労働者を雇えることになったんですよね。」と口を挟んだ。彼女は

「どんな形で派遣が始まったなんてことは知らないけど、私たちの世代までは高学歴の人以外は派遣が多いわ。だからどんなに働いてもお給料は上がらないの。だから結婚もできないし、子供も産めない。少子化を作ってしまったのは私たちの世代ではなくて、派遣制度だと思うわ。」

彼女は苦労してきた同棲生活を語り始めた。向坂は

「ご主人とはどうして別れてしまったんですか。」と核心をつく質問に移った。高宮は

「暮らしてみてわかったんだけど、あいつはクズだったの。給料は少ないのにギャンブルはするわ、育児は協力しないわ、挙句に借金してどうしようもなくなって風俗で働いてくれって言うから、子供を連れて離婚したの。それからは出来るだけ知ってる人がいないところって考えて福井に来たのよ。」

彼女の壮絶な結婚生活を聞いて向坂は子供時代のことも聞きたくなった。

「実家はどんな感じだったの。」

高宮小百合は一瞬顔を曇らせたが

「名古屋駅裏の実家の父と母はもっと壮絶だった。私が物心ついた時には父はほとんど家にいなかった。時々返ってくると母にお金を無心して、母が渋ると母を殴っていた。なけなしのお金を財布から取り出して父に渡すと、父はまた出て行ってしばらく帰ってこない。幼い私はスーパーのレジで働く母と二人で貧しく生活していたの。高校生くらいになった私はとにかくあの生活から抜け出したくて、元夫との暮らしに夢を託したのよ。」

貧困の連鎖の話が向坂の胸を押しつぶしそうになった。

 向坂はもう少し話したいと思ったが、監督と選手たちのミーティングは終了して子供たちが円陣から解放されて親の元に出てきた。それぞれ親を探して出てきたので、親たちも子供を迎えている。

「あ、雄太が来たからもういいかしら。それじゃね。」

簡単に挨拶して彼女は息子の方へ歩みだし、彼を笑顔で迎えるとタイムリー2塁打のご褒美に息子の頭をなで、そのままハグして振り返ると車に向かって歩き出した。息子の雄太は母と話し込んでいた男の存在に気づき、目線を向坂の方に向けて警戒している雰囲気を醸し出した。彼にとって母は大切な存在で、母に近づく男は敵なのかもしれない。


 野球場を後にして家路についた親子を見送った向坂は黒いベンツで自宅マンションへ向かった。しかし土曜の夕方、一人で夕食を食べるのも味気ないので、携帯で井川と桂川と向坂の3人のグループラインに『土曜日、独身会お誘い』とタイトルをつけた夕食会の提案した。2人のリアクションは待っていたかのように素早く、

『どこで集合ですか』と井川からレスポンスがあった。桂川も

『独身会良いですね。すぐに行きます。どちらへ行きますか。』と書き込まれた。向坂は自分のマンションの駐車場に車を停めてから行くので

『向坂マンション1階、弥生に集合』と打ち込むとすぐに

『了解』と入った。マンション地下駐車場に車を停めるとそのままマンションの1階で営業している和食の店『弥生』に入った。向坂が常連として利用する店で、魚料理を中心に寿司・天ぷら・お刺身がおいしい。

 カウンターに陣取ってマスターに挨拶してお絞りで手を拭いていると、お通しの野菜の煮つけの小鉢が出された。瓶ビールを頼んで軽く飲み始めた。1杯目を飲み終え、2杯目をグラスに注いだ時、2人がそろって店に入ってきた。2人ともこの店には何回か来たことがあったので、マスターとも顔見知りだった。2人は向坂の隣のカウンター席に座るとマスターに挨拶し、マスターからコップを渡されるとすぐにビールを注いでもらって飲み始めた。

「今日はあの女に接触出来たんですか。」

井川が早速その話題に触れた。桂川も一番聞きたかったことだ。

「会ったよ。いろいろ話も出来た。彼女は名古屋の生まれだった。」そう向坂が話すと桂川は

「どうやって接触したんですか。接点なんかないでしょ。」と胡散臭げに勘繰った表情で尋ねた。向坂はビールを一口飲んで

「彼女の車を尾行した時に、ドローンの訪問販売のセールスマンとして彼女の部屋を訪れたんだ。そしていろいろ聞いているうちに彼女の息子が中学のボーイズ野球をしていると聞いたんだ。それで今日、県営球場で招待試合をしているところに見に行ったのさ。そうしたら彼女もいたから少しだけ時間を作ってもらって話をしたんだ。」

向坂は彼女との接触について語り始めた。すると井川は

「尾行したことは話したんですか。」と言うと

「尾行のことは話してないよ。たまたま訪問販売で来たセールスマンだからね。彼女の身の上は実に可哀そうだった。子供の頃は父親がヒモみたいな奴で、お金の苦労をしたから早くそんな家を出たかったらしい。高校生の時に出会った男を頼って、卒業と同時に同棲を始め子供もできたけど、その男も稼ぎが少なく彼女に風俗で働けって言ったらしい。それで男から逃れるために福井へ来たらしいんだ。母子家庭で息子を育てているけど、子供の野球はなかなかお金がかかるらしい。」

彼女から聞いた話をかいつまんで2人に話した。井川は

「彼女が苦しい生活だという事はわかったけど、彼女が福井の出張マッサージ嬢であることを我々が知っていることも秘密なんですね。」

井川の問いかけに桂川も頷いて向坂の方を注目した。

「言ってないよ。彼女はそんなことは知られたくないだろうし、話したくないだろうからね。でも彼女が風俗で働いている背景には貧困がある事は間違いない。格差が広がってしまった今の世界は一部の富裕層と大部分の貧困層に分かれてしまい、多くの人が苦しい生活を強いられているんだ。どうしたらいいのかな。」と現代社会の大きな話にしてしまった。井川は現代の経済の歴史が好きなので

「資本主義と共産主義が対立していた冷戦の時代、両者は均衡がとれていたけど、1989年の東ヨーロッパ諸国の民主化でベルリンの壁が崩壊し、1991年にはソビエトが崩壊して、分離独立したロシア共和国が成立して、民主化が進んだ。その頃からアメリカを中心に多国籍企業が増え、国際化が進み地球は狭くなってきたと言われてきた。企業の国際的な競争が激しくなり、強い力を持たないと外国企業に駆逐される恐れが出て来て、1991年以降のバブル経済崩壊で日本企業は徹底したコストカットに走るようになった。典型的な例が人件費カットのためのリストラ、言い値で作らせる下請けいじめ、そして人件費を抑えるために派遣職員を採用するようになる。どの政策もその当時は最良の手立てだと信じて心を鬼にしてやってきたんだ。でも今となっては、派遣制度を導入したことが甚大な格差を生んでしまったんだけどね。」と自説を展開した。3人が力を入れて話し込んでいるとマスターが

「ビールだけじゃなくて何か食べませんか。」と言うので向坂は

「マスターにお任せするから、何かおいしいものをお願いします。」と寿司屋のような注文になった。

「それじゃ、お造りから出しますね。」と言ってお魚の身を切り始めた。

「貧困と格差の問題は世界中に拡がっていて、欧米でもアジアでも社会問題になっていますね。時代の流れを捉えて利益を上げている会社は世界を相手に巨額の利益を上げているらしいわ。だから最近の高額所得者は若い起業家の人が多くて、その額も数百億円とか数千億円の資産を所持している人がいると聞いたことがあるわ。」

桂川が経済雑誌の情報を披露すると向坂が

「電子マネーの売買をやっている会社が外部からネットのシステムに侵入されて、顧客の大量の電子マネーが盗まれた事件があっただろ。あの時、被害にあった会社の社長が顧客の損害を会社のお金と社長個人の資産で補填するって発表しただろ。あの社長は個人資産が500億円くらい持ってたんだよ。昔からの財閥系の富裕層でもそんな金額を現金で持っている人はそうはいないよ。一流企業と呼ばれる上場企業でもポンと500億出せる会社はそうないと思うよ。それくらい今の若い起業家の中には荒稼ぎしている連中が多いのさ。」と解説した。井川はその話を聞いて

「社長だってその若い起業家の一人じゃないんですか。」と言うと

「僕なんかまだまだだよ。新しい技術革新でうちの会社のドローンが飛ぶように売れることになれば私たち3人とも大富豪になれるかもしれないさ。」と話をはぐらかした。

「時代的に転換点だと思うんです。企業が成長することは大切だけど、貧困の拡大を見過ごすことは出来ないでしょ。アダム・スミスの『国富論』でも富の再分配が必要だと言っていますよ。現在の再分配は税金という方法で、富裕層からは多く集め、貧困層からは少なく集めているわ。」と桂川が言うと井川も

「地方交付税交付金も都市に集中する富を地方に分散するということで、富の再分配になると学生の頃に習ったよ。」と話した。

 お造りに続いて天ぷらが出された。今日の天ぷらはエビとキスと春の野菜のようだ。カラッと揚がったエビを食べて向坂が

「マスターが揚げる天ぷらは極上だね。すばらしい。」と褒めた。井川もキスの天ぷらを美味しそうに食べて

「高宮親子のことはどうするおつもりですか。富裕層の単なる火遊びでは相手は怒るかもしれませんよ。単なる興味だけなら手を引いたほうが賢明だと思いますけど。」と話題を元に戻した。桂川も心配そうな顔つきで

「野球場に現れただけで、ストーカーだと思われます。会社経営者が風俗の女性に興味を持って近づくなんて『プリティーウーマン』のリチャード・ギアを気取ってるみたいです。」と厳しく注意した。しかし向坂は

「初めは赤いドレスの彼女が神秘的だったし興味本位だったけど、貧困が抱える社会的な問題が会社の開発計画に活かせたらという気持ちもあった。でも今日、彼女と直接会ってみて、彼女の生まれつきの不幸と貧困を救ってあげたいというような気持ちも湧きあがってきたんだ。」とぽつぽつと話し始めた。


彼女の息子の雄太をきっかけに彼女に近づくことに成功した向坂。ここから彼はどうするのか。彼女は向坂に心を許すのか。

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