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第二話 街へ降り、腹ごしらえ

飯を食うだけ

 着いたところは街の入り組んだ路地裏。じっとりとした空気が、人通りの多い道から吹き込んだであろう乾いた風で流されていく。

 後ろを振り返れば花畑やガゼボは見る影もなく、扉が一つ閉ざされているのみだった。

 アルはいくつもの角を迷いなく進んでいく。少しずつ喧噪が大きくなり、何かを焼くにおいもしてきた。ぐう、と腹が鳴けば、ほほ笑んだアルに撫でられた。


「店に行く道中で買い食いでもするか?」

「いいの?いや、でも、ちゃんと店まで我慢するよ」

「分かった。少し急ごうか」


 お腹が減ったからって、食べに行く最中に買い食いなんてはしたない。子供じゃあるまいし。なんて考えたところで、子供らしく抱きかかえられていることを思い出した。人に見られるのはちょっと恥ずかしい。


「アル、俺街では自分の足で歩きたいなあ、なんて」

「ん?やめておけ。人ごみに流されるどころか、お前の小ささでは潰されてしまうかもしれないぞ。ほら」


 路地裏から一歩出れば喧騒はより大きくなった。活気のある街だ。立ち並ぶ屋台は客寄せのために声を張り上げている。あ、あれおいしそう。

 大勢の様々な種族が武具や盾を身にまとい、大きな荷物を引っ提げて行き交っていた。確かにこれでは俺のようなサイズの人間は荷物の陰に隠れてしまって危険だろう。少し恥ずかしいけれど言うことは聞いておいたほうがいいかもしれない。


「やっぱり、このままで…」

「ああ、それがいい。店は私の選んだところでいいか?」

「うん、アルお店知ってるの?」

「街にはたまに降りているからな。今は昼前だし、それほど混んでいないだろう」

「そっかぁ」


 返事をしつつも、視線はずっとあちこち彷徨っている。ドラゴン肉の串焼き、フェニックスの卵の目玉焼き、水玉カエルのフリッター。気になるに決まっている。

 人々もだ。腕の代わりに翼が生えている者。よく見れば足も鳥のようだ。先の尖った大きな耳、美しい風貌。まさに魔女らしいとんがり帽子。獣の耳が頭から生えているほぼ人間もいれば、獣が二足歩行しているような者もいる。どちらも獣人というやつだろう。


「目新しいか」

「うん、ゲームとか漫画の中みたい…!」

「この国はほかの国と比べても珍しいんだ。多種族が集まって暮らしているのはこの国だけだからな」

「ほかの国は種族ごとってこと?」

「ああ。種族の長が統治している。身体的な違いが大きいからな。同じ種族で固まったほうが諍いも少ない。…ほら、着いたぞ。ここだ」


 アルに降ろされ、俺は初めてこの街の地面に足をつけた。

 この地域は過ごしやすい気候のようで、大きな店に壁は無く、屋根とウッドデッキだけの開放的な空間が広がっている。屋根がある部分とは別に、庭にテラス席(全面テラス席な気もするが)も用意されているようだ。そちらの奥には大きな花壇が見える。雨が降ったらどこの席も濡れそうだが、あまり降らないのだろうか。

 アルの言った通りそれほど混んではいないが、陽気な客が多いらしくかなり賑やかだ。お酒も提供しているのかもしれない。

 入口の上にかかっている黄色い看板には『はすとっど』と書いてある…気がする。この世界の文字が読める、というよりなんとなく平仮名に見えなくもない形をしているのだ。読めなさそうでぎりぎり読めている。多分。

 しかし間違っていたら恥ずかしいので口は噤んでおこう。


「ここは『ハストッド』という老舗なんだ。肉料理が主で裏に畑があるから野菜も新鮮で美味い。…連れてきておいてなんだが、肉は平気か?」


 合っていた。まじか。

 過去、文字のなかった時代に、俺のように転生やら転移やらした日本人がいて持ち込んだのかもしれない。あとで聞いてみよう。


「あ、うん、俺は肉大好きだよ」

「そうか。ならよかった」


 思考の海に沈みかけていた。慌てて返事をし、自分の背丈ほどのスイングドアを押して店内に入る。


「いらっしゃい。お席は外と中どっちがいい?マ、どっちも外みたいなもんだけど!」


 あっはっはと豪快に笑う女性は両手に料理がたくさん載ったトレーを持っていた。あれ、どうやってテーブルに配膳するんだろう。


「中で頼む。…できれば角がいいんだが」

「あいよ!ちょっとこれ運んじゃうから待っててちょうだい」


 女性は器用にテーブルの間を抜け、注文したらしい客の前に行くと「さ、選んだ品とっとくれ!」とトレーを差し出した。なるほど。

 アルがしゃがみこみ、自身の耳をツンツンと指さすので、そっと耳を傾ければ「彼女は豪快だが、シェフの腕は確かだから安心してくれ」と囁かれた。彼女をガン見していたのが不安そうに見えたらしい。

 そうこうしているうちに給仕の女性が戻ってきた。


「おまたせ。角の席だったね。案内するよ」


 案内されたのはテラス席に近い角の二人席。外の見晴らしがよく、予想通り風通しもいい。しかしわざわざ角でなくてもよかった気がする。


「どうして角の席にしたの?」


 受け取ったメニューに目移りしながら尋ねれば、アルは困ったように眉を下げ「今に分かるさ」と呟いた。


「料理はいいんだがな…」

「え?」

「ほいお水。今日のオススメはガド乗せオープンバーガー、付け合わせはコロネギと曲がり卵のステーキだよ」

「あ、ありがとうございます」


 聞いたことのない食材にドキドキしつつお礼を言えば「偉いね坊主!」と豪快に頭を撫でられた。


「うちは初めてかい?」

「はい」

「あーじゃあびっくりしちゃうかもねえ。角選んで正解だね」


いったい何があるというのだろう。少し怖くなってきた。


「マ、そんなすぐには始まらないから安心して選びな」


 始まるって、本当に何が…!?

 しかしアルは答えてくれなさそうなので大人しくメニューを見る。どうやらハンバーガー屋のようだ。かぶりつくのではなく、ナイフとフォークで切り分けて食べるタイプの。ハンバーガーなんてかぶりついて口の周りを汚してこそだろうと思ったが、溢れんばかりのソースが売りらしく、なるほどこれは素手では食べられないなと納得した。

 メニューはとてもおいしそうなイラスト付きで描かれている。ガドは絵を見る限りアボカドのようだ。アボはどこ行ったんだろう。

 他の食材はわからなかったので、とりあえずオススメのランチセットを頼むことにした。間違いはないはずだ。アルはテタ乗せオープンバーガーのセットを頼んでいた。テタ、ってなんだろう。

 注文し終えたところで、アルが「さて」と切り出した。


「何から話そうか…。何か聞きたいことはあるか」

「え、うーんと、あ、過去に俺みたいに転生とか転移とかした人っているの?」

「ああ、たまにいるぞ。もっとも、こちらに来た瞬間に分かるわけではなくて、私が仕事をするとき、つまり死んだときによその世界から来ていたとわかる。だから、話をするのは初めてなんだ。」

「そっか…。じゃあ今もその辺にいるかもしれないね」

「かもな。…ところでメニューを読めていたようだがこの国の言語がわかるのか」

「うん、ちょっと違うんだけど、俺のいた国の文字と似てるんだ。読みも一緒みたいだし。でもそれが何を指しているのかわからないものもあるよ。テタ、とか」


 読めなさそうで読めるけどちょっと読みづらい文字。なんだかギャル文字を思い出す。クラスの女子の間ではやっていたような。なんでこんなことは思い出せるのだろう。ギャル文字より自分のことを思い出したい。


「テタは…牛や羊の乳を発酵させて…すまない、作り方は知らないんだ。粘度があって、塩っ気のあるソースだ」

「チーズに近いのかな…なんとなくわかった、ありがとう」

「ああ」


 返事をしたアルはそのまま考え込んでしまった。今の会話で何か気になることでもあったのだろうか。

 なんとなく聞けずにそわそわしていると、こちらに気が付いたアルが「ああいや、なんでもない」と濁した。絶対なんかある。隠し事下手か?けれど、言いたくないなら聞かないほうがいいだろう。仕方がないので、話を変えようと口を開いた。


「そういえばアル以外に神様っているの?」

「ああ、説明しなければな。ん」

「ハイお待ちどー!ガド乗せとテタ乗せね。坊主、熱いから触っちゃだめだからね」


 タイミング悪く料理が届いてしまった。まあお腹も空いたし、食べながらでも聞けるだろう。

 目の前には鉄板のついた木皿、バンズの片側だけを乗せた小さな皿、具沢山のスープが並んでいる。鉄板のソースはじゅうじゅうと音を立て沸騰していた。付け合わせはミニサイズの玉ねぎと、曲がりくねった赤いナスの様だ。アルの鉄板には黄色いチーズソースらしきテタがかかっている。鉄板に垂れたテタが焦げを作ってはまた垂れて、を繰り返し独特な香りを漂わせている。おいしそう…。


「こっちのも一口食べるか」

「えっ、あっ、ごめん、つい…」


 気を使わせてしまった。身体に引っ張られて子供っぽくなっている気がする。前の世界では高校生ぐらいだったはずだから、もとから子供と言えば子供なんだけど。


「遠慮しなくて良いぞ。さ、食べようか」

「うん!いただきます!」

「…いただきます」


 おいしいものを目の前にして年齢なんて関係ないよね!

 ナイフとフォークで重なった肉と野菜とパンの群れを切り分ける。押しつぶされた一番下のパンから、しみ込んでいた肉汁やソースが溢れだした。

 フォークで刺せばまた肉汁が零れる。ああもったいない。零れきる前に早く、と気が急いてついさっき鉄板の上でソースが沸騰していたことを忘れ、一口でほおばった。


「あっふ!んん、んー!」

「ミ、ミカ、ほら水を飲め。大丈夫か?」

「んぐ、やけどした…」


 ひどい醜態をさらしてしまった。恥ずかしい。年齢なんて関係ないと言ったがあれは嘘だ。こんな失態子供しかしない。


「焦らずとも肉は逃げないぞ」


 わかってる…わかってるんだけど肉汁が…。


「肉汁ならバムがあるだろう」


 バム?この片側のバンズのことだろうか。ならばこのバンズは肉汁を吸わせるためにあるのか。ん?待って今、もしかして声に出てた?

 とりあえずまずはそのまま一口、と思ってバンズにかぶりついたと同時にアルが「あ」と声を上げた。


「…んぎぎぎぎぎ…かった!なにコレ」

「ふ、ああ、ふふ、すまない。それはスープに浸したり、最後ステーキのソースを絡めとって食べるんだ。…ふふ」

「ちょっと、笑いすぎだよ…」


 パンとは思えない予想外の硬さに顔をゆがめれば、どうやらツボに入ったらしく控えめにくすくすと笑っている。珍しく表情も緩んでおり、これならだれが見ても笑顔だとわかるだろう。それにしても本当に美人だな。

 照れ隠しでじとりとアルを睨みながらオープンバーガーを食べ進めていく。だって冷めたらもったいないからね。思っていた通りのアボカドと牛ひき肉の味。ソースの味付けも日本人好みだ。海外の味じゃなくてよかった。食生活には困らないだろう。

 やった落ち着いたらしいアルも食べ始めたようだ。一口飲みこんで、ふ、と緩んだ顔が、なんだか幸せそうに見えてむずむずした。


「おいしいね」

「ああ、そうだろう。ほら、食べると良い」


 そう言ってたっぷりのテタがかかったフォークを差し出された。あーん、されていいのかな。まあ子ども扱いだろうけど。美人にあーんされるなんて役得だ。もらっておこう。


「ん、おいし~!やっぱチーズだこれ」

「ミカの世界にも似たものがあるんだな」

「うん、割とまんまだよ。はい、アルも。あーん」

「ん、ありがとう。おいしいな」


 具材をまとめてフォークに突き刺して差し出せば、横髪を抑えつつ口を開けてくれた。あーんし合うなんて恋人のようだ、と少しドキドキしていたけれど、はたから見れば仲の良い姉弟か親子に見えていることだろう。

 ニコニコ照れ照れしながら食べていれば、急に店内が騒がしくなる。もしかしてさっき言っていた『何か』が始まるんだろうか。

 店の中央には大きなワイン樽が置かれ、屈強な男性客が酒を片手に集まっている。


「さあさお待ちかね、腕力対決の時間だよ!」


 ワッと盛り上がった客らは勢いよく酒を高く掲げた。中身が飛び散るのも気にせずに騒いでいる。中には歌いだす者までいた。

 眺めていれば店の厨房からひときわ屈強な男性が出てきた。恰好から見るにシェフの様だが、料理人には必要なさそうな筋肉のつき方をしている。


「制限時間は三十秒、店主に勝ったお客さんは今日のお代無料!挑戦者は誰だい!」

「いようし、今日こそ俺が勝ってやるぜ」


 なるほど、これは中央に近い席だと騒ぎに巻き込まれること間違いなしだ。酒をもって立ち見している客は冷やかしだろう。手を上げた男性は集まった客の中でもガタイが大きい。店主のほうがいくばくか大きいが。ちらとアルを見れば騒ぎには目もくれず黙々と食べ進めていた。


「レディ…ゴー!」


 給仕の掛け声にまた視線を戻す。やっていることは腕相撲の様だ。力が拮抗していると思ったが一瞬のうちに挑戦者は転がされてしまった。店主、強いな。

 咀嚼しながら眺めていると次の挑戦者を探す店主と目が合った。


「そこの坊主!ずっと見ているな、お前も挑戦したらどうだ!」

「ぐえっ」


 ずかずかと大股で近づいてきた店主に声を掛けられるや否や、返事をする間もなく首根っこをひっつかまれた。強制参加ですか。

 アルを振り返ればひらひらと手を振っていた。そんなあ。

冷やかしの客たちは「いやあちびっこには難しいんじゃねえか」「もしかしたら怪力かもしれんぞ」「あのちっこい腕でかあ?」などと好き勝手言いながら俺の背丈に合うよう木箱を集めて踏み台を用意してくれた。辞退できそうもない。店主を見上げれば「子供だからと言って容赦はしないぞ」と頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。

まあ子供らしく全力で頑張って負けるか、と諦めの境地で肘をつき、店主の手を握る。大きさが違いすぎて握りつぶされそうだ。


「じゃあいくよ。レディ…ゴー!」


 ぐっと力を込める。店主は余裕そうに笑って、と思ったが顔には焦りが見えた。さらに倒そうと押し込めば、プルプル震えながらもあっさりと倒されてくれた。


(子供だからサービスしてくれたのかな)


 店主はその場に崩れ落ち、「俺が…負けた…?こんな子供に…」と呟いている。観客たちは「こんな子供が…」「すげえ…」とざわめいていた。みんな演技派だな。 

 これは子供らしく大喜びしないといけないだろう。ちょっと恥ずかしいけどこんなにサービスしてくれたのだからやるしかない。


「やったー!勝ったよアル!ちゃんと見てた!?」

「ああ、見ていたぞ。さすがだな、ミカ」

 振り返ってアルを見れば口元を拭いていた。ねえ本当に見てた?

「店主、勝ったのだからミカの支払いは持ってくれるんだろう?次は私とやろうじゃないか」


 席を立ち、床に転がる店主へ手を差し伸べたかと思いきや挑戦の宣言をしだした。心配の目線を向ければ「なに、壊しはしないさ」などとのたまう。そんな心配はしてなかったんですけど。壊す可能性があるってこと?

 観客たちも「あの細腕で?」「いやでも弟があれなら」「有り得るな」と心配、というより期待でざわついている。いや、俺には手加減してくれてたよね。演技じゃなかったの。

 立ち上がった店主は突如自分の顔を勢いよく叩いた。気合を入れなおしたらしい。ドン、と無言で肘をつけばアルもそれに倣う。


「それじゃ、いいかい。レディ…」


 途端静かになり緊張が店を支配した。ゴクリ、と誰かが生唾を飲み込む音がする。


「ゴー!」


 合図に合わせてワッと盛り上がる。店主が歯を食いしばり震えているのに対し、アルは涼しい顔だ。店主はさらに力を入れ顔を真っ赤にしたが、アルは嬉しそうに口元を緩めた。


「…成長したな」

「な…に、を…」


 相対している店主と、真横にいた俺ぐらいにしか聞こえていなさそうなほどの小さな呟き。

 アルはまるで本でも閉じるかのように店主の腕を倒す。力尽きた店主はそのままへたり込んだ。大きかった歓声はさらに大きくなった。


「すげえや二連勝!」

「ほんとに勝っちまった!」

「俺は負けた…」

「やりぃ!今日は大勝ちだ!」


 どうやらいつの間にか賭け事をしていたらしい。人の店で自由だな。


「ミカ、私も勝ったぞ」

「うん!アルびくともしなかったね。すごい」

「ああ。さて、店主。私の分も持ってくれるな?」

「…もちろんだ。そういう決まりだからな。なあアンタ、もしかして…」


 いまだ座り込んでいる店主は胡坐をかきなおし頷くと何かを言いかける。アルは小首をかしげ、「さあな」と言いつつ人差し指を口に当てた。


「さあ、少し冷めてしまったが、残りを食べよう」

「ほらあんた、いつまでそんなとこに座り込んでんだい邪魔だよ!さっさと厨房戻りな!」


 俺の返事は給仕さんの声にかき消された。肩をたたく、バシィンという良い音が響く。この店最強は間違いなくこの人だろう。

 席に戻って続きを食べながら声をかけてくるほかの客の相手をする。どうやって強くなったのかと聞かれ、俺は手加減されていたと伝えるが信じてもらえない。アルは「うちの家系は子供のうちから怪力なんだ」と、スープでふやかしたパンを腹に収めながら話した。俺怪力だったの?もしかして、使徒になった影響だろうか。

 ごちそうさまでした、と声を合わせたところで、アルと二人で会話していないことに気が付いた。


「ほかの神様について聞くの忘れてた…」

「ああ、そのことなんだが、今日は宿に泊まるから、宿で話そう。人の耳が多いと話しづらい」

「そっか、じゃあ次は服かな」

「何か好みはあるか?」


 服の好み。前世はどんな服を着ていたんだろう。高校はたぶん制服だったから、あまり私服を着る機会もなかったし、無頓着だったような気もする。


「んー…。動きやすければ何でもいい、かな」

「わかった。あまり派手でないものを選ぼうか」

「うん、無難なので!」


 次の予定を確認し、店を後にする。また来たいけど、腕相撲は絶対回避しようと心に誓うのだった。



***



 『ハストッド』を営む店主、ジョエルはここ数日上の空であった。先日来店したとある美人な姉弟について考えているからだ。というのも、容姿に心奪われて、とかではない。

 毎日午前と午後に一度行われる腕力対決。なかなか勝てないほど強いからこそ、勝てばその日の食事をタダにしている。しかしジョエルは姉弟にあっけなく負けた。

 周囲の人間からは負けたショックで上の空だと思われているが、負けたこと自体はさほど気にしていない。もちろん次は勝つぞと日々の筋トレを欠かさずいるが、それよりも姉の『アル』が気になっていた。


 ジョエルは昔、いじめられていた。理由はただ、ひょろ長いというだけ。筋骨隆々な今のジョエルしか知らない人は、昔の写真を見ても本人だとは思わないほどやせ細っていた。

 ある時、いじめっ子に大事な本を奪われ、さらには立ち入り禁止の山の奥に捨てたと言われ、そこまで取りに行ったことがある。実際はその子の家の裏に捨てられていたが、その本は亡き祖母の形見だったため、村の掟を破ってでも取り返したかったのだ。

 立ち入り禁止の山はもちろん道などなく、擦り傷をたくさん作りながら進んだ。しかし本はいじめっ子の家の裏にあるわけで、あてもなくもなく彷徨ったジョエルは当然遭難した。

 月明りだけが頼りの山の中、物音に怯ええぐえぐと泣きながら木のうろに身を寄せたジョエルが魔物に遭遇しなかったのは奇跡と言えるだろう。

そして、とある人物と出会う。


「坊、なぜこんなところにいる」

「ひっ」


 人がいるはずのない山で出会った人間がそんなところで何をしているか。一瞬のうちに頭をよぎった答えに血の気が引いた。


「怖がらせたいわけではないんだが…。一人では帰れないだろう。家まで送ろう」


 ほら、と手を差し伸べる、闇に溶け込むような暗い色の服を着た大人の男。逆光で顔も見えず、恐怖は倍増するばかりであった。しかしここで一人夜を越したとしても、帰れる算段はない。

 もはや恐怖で声も出せず、震えながら手を取れば瞬く間に抱きかかえられてしまった。しばらく歩き始めた男に運ばれるままであったが、本の存在を思い出したジョエルはあっと声を上げた。


「ほ、本が」

「本?」

「本、探さなきゃ」


 男は立ち止まり、その場にジョエルを下ろし、極力怖がらせないように屈んで尋ねた。

 その時ジョエルは男の顔を見て、初めて人の顔を見て美しいと思った。闇夜のような黒髪に、売れた果実のような赤い目。一瞬呆けたジョエルであったが慌てて事の成り行きを説明し、本を見つけるまでは帰れないと訴えた。

 しばし思案した男は、「私に任せておけ。見つけたらお前の家まで届けよう」と提案し、ジョエルは渋々承諾した。恐怖心はいつの間にか消え去っていた。

 山を下りる道中、と言っても子供の足で半日歩いたほどの距離なのでそれほど長くはなかったが、いじめっ子にどう対抗したらいいかを話し合った。最終的に、見た目で分かるほど肉体的に優位に立てばいい、という何とも脳筋な結論に至るが、けして男が脳筋だったわけではない。背が高いのだからそれを活かそうとのことだった。

 無事村の近くまでたどり着き、男が村へは入れないと言うので、その場でお礼を言った。名を訪ねれば「アル、…アルヴィンだ」と吃りながらも答えてくれた。

 家に帰れば、こんな時間までとこっぴどく叱られたが、アルヴィンと相対した時の恐怖心と比べればへっちゃらだった。

 翌日、いじめっ子が泣きながら本を返してきた。何があったのかジョエルは知りもしないし知ろうとは思わないが、アルヴィンが何かしてくれたのだと思っている。

そしてその日から、ジョエルは筋トレの鬼となった。


 美人だが髪も目も色は違うし、性別も違う。しかしどうしても気になった。『アル』という呼び名、そして記憶が正しければアルヴィンとまったく同じ暗い色の服装。さらに人間離れした腕力。極めつけに「成長したな」という意味深な発言。

 ジョエルは彼、あるいは彼女が生命神アルモート様なのではないかと疑っている。しかしこんなことは誰に言っても荒唐無稽だと笑われるだろう。自分自身でも半信半疑だ。確かめる術もない。

 しかしなんとなく、狐につままれたような、不思議な気持ちから抜け出せないでいる。



***



次回、服を買う

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