九、早さの違い
「ぐっ!」
「痛っ」
夢から覚め跳ね起きると、頭に強い衝撃を受けた。涙目で振り返ると、立葵が顎を擦りつつ、私の頭を見ている。
後ろから抱き抱えられていたことを忘れたせいで、頭突きをかましてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい、石頭で……」
「いえ、平気です」
かなり痛かったに違いないのに、まだ赤い顎から手を離した立葵が、何でもないと手を振ってくれる。
「コホン。立葵さん、酷いじゃないですか。先に教えて欲しかったです」
「一体、何のことですか?」
首を傾げた立葵が、スッと離れ、音もなく羽ばたいて浮いた。
「卑怯ですっ 戻って来てください!」
「卑怯って、お茶を入れるだけですよ。それに夏乃さんだって凰じゃないですか」
(そうだった!)
「凰、私は凰……凰になれぇ」
入れてもらってばかりでは申し訳ないので、手伝いついでに飛んでみようと、呪文とは言えない文句を唱える。
「って、全然凰にならないんですけど!」
元から凰だと言われて簡単に考えていたのが甘かった。
「言ってみれば、夏乃さんは産まれたばかりの雛ですからねぇ」
存外難しくて、きぃーっといきりたっていると立葵にあっさり宥められた。確かに、孵ってすぐに翔べる鳥はいないだろう、二十三にして雛である。
頭の中で、燕の雛が口を開けてピィピィ鳴いた。
「うわぁ。あれと一緒かぁ」
「訓練次第だとお伝えしたでしょう。自分で変化するには暫くかかりそうですね」
「昨日はすぐになれましたけど?」
「あれは、ツガイの私が干渉したからです」
そう言って、立葵が自分の額を指す。
「で、ご両親にお会いしてどうでした?」
結局、立葵にお茶を入れてもらいながら唸っていると、苦笑した立葵が話を促してくれた。
「そうだった、こうしてはいられない」
この間にもあちらの時間は流れているのだから。
「向こうではもう一週間も経っていると言われました。私がこちらに来てまだ三日目なのに」
あちらは倍以上の早さで時間が流れると教えてくれていたら、両親をもっと早く安心させられただろう。
「ああ、そのことですか。すみません。お教えしようにも、夏乃さんを迎えに戻ったら直ぐに眠ってしまいましたし、昨日もそれどころではなかったですから……」
「そうでしたね……ごめんなさい」
「いえいえ」
「でも時間の早さが違うなら、大急ぎで練習しないと。あっという間に父さん達に会えなくなっちゃう……」
両親は五年後には還暦を迎える。そう遠くない未来を思うと胸が刺されたように痛い。
「わかってます。これから忙しくなるでしょうが一緒に練習しましょう」
「ありがとう。それと時々は、夢で両親に会わせて欲しいです」
「もちろん構いませんよ」
「よかった。じゃあ、さっそく練習を」
「夏乃さん、待ってください。先にこれからのことをお伝えしないといけません」
それもそうだ、と大人しく立葵に手を引かれ長椅子に並んで座る。
「いいですか、夏乃さん。これからすぐ、私の伴侶として使用人達に顔見せし、側仕えと護衛を選んで頂きます。その後は長への挨拶と、新しい凰として一族への御披露目があります」
「きゅ、急すぎません? 」
のらりくらり先延ばししようと思っていたのが、バレたのだろうか。
「仕方ありません。あれだけ大騒ぎしましたからね。心の準備をして頂く為に、こっそり岩山に門を開いたのですが無駄にしてしまいました」
「ああ……」
確かに、叫んだり怒鳴って暴れたり……心当たりがありすぎた。あれだけ騒いでおいて、挨拶を後回しに出来ないのはわかる。
「まぁ一番は、本当に声が聴こえているとわかって喜びを叫んでしまった私ですね」
「立葵さんのせいじゃないですか! 私の反省を返して」
「嬉しかったので仕方ありません」
(あの話を聞いたから、ツガイが見つかったことが嬉しいのはわかるけど、でもそれだけで直ぐに好きになれるもんかなぁ?)
身長以外は平々凡々だと自信があるだけに、大好きだという立葵の気持ちを信じられない。
「夏乃さん、どうしました?」
ぼーっと考えていると、間近に立葵の顔があった。
「うわっ! 何でもありません。そうだ、これは叫んだバツです」
羽を毟る真似をして誤魔化した。
「誰か」
パンパンと立葵が手を叩く。
「立葵様、お呼びでしょうか」
そこが部屋の出入口なのだろう、スッと人影が差した。
「木槿か。構わぬ、入れ」
さっきまでの柔らかい顔を消して、尊大な態度をみせる立葵に驚く。
目を丸くして立葵を見ていると、木槿と呼ばれた黒髪の男性が音もたてずに部屋に入って来た。年の頃は三十路半ばくらいだろうか、何処か懐かしい雰囲気のある、落ち着いた感じの人だ。
「夏乃さん、私の従者の木槿です。何かあれば彼に仰ってください。彼は、最も長く仕えてくれている者なので、信用していただいて大丈夫ですよ」
「わかりました」
「木槿、こちらが私の伴侶だ。夏乃という。直ちに彼女に仕える者を選ぶように。合わせて皆への紹介も頼んだぞ」
(あ、まだ覚悟も出来てないのに伴侶だって紹介されちゃった……)
「承知致しました。 ──奥様、お初にお目にかかります。立葵様にお仕えしております、木槿と申します。どうぞお見知りおきくださいませ」
「はい。木槿さん、宜しくお願いいたします」
どうしてだろう? 顔を上げて私を見た木槿さんが眉を下げて立葵に視線を移した。
「夏乃さん。彼は私達に仕える者ですから、敬称も頭を下げる必要もありません」
仙界は主従関係がはっきりしているらしい。
(そっか。立葵が主人なら、同じ「さん付け」にするのはまずいよね?)
「わかりました。む、木槿。これから宜しくね」
見知らぬ男性に呼び捨てでタメ口なんて。人界では馴染みのなかった遣り取りに、内心狼狽えながら挨拶を返す。
「此方こそ宜しくお願い申し上げます」
呼び捨てにされて笑顔になった木槿さんに、ちょっと複雑な気持ちになったけれど、慣れていくしかなさそうだ。
「では奥様、此方へおいでくださいませ。皆にご紹介させていただきます」
立ち上がり、木槿さんについていこうとして振り返る。ベッタリだった立葵が座ったままで動こうとしない。
「立葵さんは来ないんですか?」
「今回は夏乃さんお一人でどうぞ。きっとその方がわかりやすいですし」
「?」
どういう意味かわからなかったけれど、木槿さんが扉を開けて待機しているので、大人しく部屋をあとにした。