三、酔っぱらいの結婚
寝台に凭れお茶の香りを嗅ぐ。
「いい香り」
(やっぱり落ち着くにはお茶がいちばんよね)
血の気が引いて冷たくなっていた手に、立葵が握らせてくれた茶碗からじんわりと温もりが伝わってくる。
「お気に召して良かった」
鳥男が安心したように喜んだ。少し落ち着いたせいか、家主を差し置いて寝台を占領しているうえ、お茶を給仕させていることが急に恥ずかしくなった。
鳥男は寝台から離れ、おかわり出来るように茶器の横で待機しているが、その目は今もずっとこちらに注がれたままだ。
ここまで気遣われてまだお礼すら言っていない。
たとえ相手が鳥男でも、礼節を無視してはダメだ。だって、種族、もしかしたら生きている世界すら違うかも知れないが、凍死するところを救ってくれた相手なのだから。
帰る為に力を借りたいと思っているなら尚更問題だ。
(考えてみたら、言葉が通じるのは幸運よね)
ふと十歳離れた兄を思い出す。兄は何でもさらりとこなしてしまう人だ。ひきかえ、自分は似ているのは高い身長だけで、勉強も運動も人並みしか出来ないと僻んだことがある。
『お前はそう言うけどな、俺は高校に入るまで地獄だったよ。何をやっても頑張るってことがわかんなくてさ、皆が知ってる達成感ってやつが欠片もわからない。だから、囲碁も将棋もやったし、水泳にも剣道にも手を出した。でも表彰される度に、自分から何かが抜けてった。ずっと、そのうち空っぽになるんじゃないかって怯えてた。でもさ、高校でバスケの司令塔やってわかったんだ。一人だったからだ、って』
兄の話を聞いて憑き物が落ちてから、人と比べるのをやめた。かわりに精一杯やれるだけやって、あとは人として礼節だけは大事にしよう、そう思って生きてきた。なのに。
(身長が百七十六もあるせいでって、くだらない理由で泥酔したあげく、余所様に迷惑をかけるなんて)
「立葵さん、でいいんですよね?」
急に話かけられ慌てた立葵に寄って来られ、体が勝手にビクッとしてしまう。それに気がついたらしく、少し眉を下げて寝台の端ギリギリに腰かけてくれた。
(とにかく、鳥男でも何でも命の恩人には違いない)
「立葵さん、凍死寸前のところを助けていただき、本当に有り難うございました。動転していたとはいえ、お礼も申し上げずに失礼な言動までしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。どうかお話を聞かせてください」
まだ足が心許ないので、寝台の上で正座し頭を下げる。
「な、夏乃さん、やめてください! 夫が妻を守るのは当然でしょう。そんな他人行儀な真似をされると哀しいです。それに無理はいけませんよ。今日はゆっくり休んで、お話は明日にしませんか?」
気遣わしげにこちらの顔色を伺う立葵は、どうやら本当に心配してくれているらしい。再び現れた四枚の羽が、喋っている間中、ちぐはぐに動いていた。
(感情が羽に出るのかな? 犬の尻尾みたい……ン?)
「今、誰の夫だと仰有いました? 」
顔を赤くして立葵が器用に後ろの羽で私を指した。
「あなたと私が夫婦だとでも?」
「はい、もちろんです。夏乃さん」
頬を染めたままニッコニッコな立葵が、勝手に照れて、羽で自分を扇いでいる。
「あー照れますね、アツいです」
「……申し訳ないのですが、私は婚姻した覚えがありません。突然、夫婦だと言われても困ります」
貴方は人ですらないし。とは、良識が働いてくれて言わずに済んだ。
「……そうでした。夏乃さんは何も覚えていらっしゃらないのですよね。お酔いになってましたしね……」
立葵が羽までべしょんと垂れて悄気ている。
(酔っぱらった私が何か仕出かしたことは確かね)
「あの、昨夜、私が何をして何を言ったのか教えてもらえませんか?」
紫の目がじっと私を見詰めて頷く。
「では二度目まして。私の名は立葵と申しまして、羽族の者です。訳あって同族から妻を娶ることが出来ない為、人界で番を探しておりましたところ、夏乃さんを見つけました」
「申し訳ありません。すでにそこから覚えがありません」
「ああ、失礼しました……此れで如何でしょう」
立葵が高く結わえた髪をほどき、右側で一つに括って流す。
「若返ったマスター!」
我を忘れて夏乃は立葵を指してしまった。
「早上がりしたマスターと交代しただけですよ。でも、思い出してくださって嬉しいです」
うっすらだけど、ようやく思い出した。
歩けないほど酔っぱらった夏乃を、ロン毛のバーテンダーが背負って運んでくれていた。
『ロン毛は趣味じゃなーい』
と、結わえられた彼の髪を引っ張っていたような…………気がする。
「申し訳ございません!」
とんだ醜態に平伏して侘びるしかなかった。
「お顔を上げてください。あの時の夏乃さんは大変可愛らしかったですよ。気が急いて、新床の準備もせずに契りを交わしてしまったほどです」
(新床? 契り? って、まさか……)
「あの、立葵さん。誤解でしたら申し訳ございません。つまり、私達は夫婦といいますか、男女の営みをしてしまったということでしょうか?」
「はい。ちゃんと契りは交わしています」
(使用済み感の相手はコイツかぁ)
「あ、誤解なさらないでくださいね。夏乃さんには同意をいただいてますし、結婚したあとですから」
(酔っ払ってる相手にも致しちゃダメだと思うけど……でも結婚?)
「無理強いなんて、私は雄の風上にもおけぬような不埒な真似はしません」
知らぬ間に既婚者になっていたらしい。
呆気にとられていると、鳥男もとい立葵の鼻息の荒い主張が続いていた。
(でも私だって二十三よ? 明らかに年下の男を、酔った勢いの過ちで縛るような、そんな不誠実な真似はしたくない)
「立葵さん、心配しないでください。一晩相手したからといって、そこまで責任を感じなくてもいいですよ。お互い事故のようなものだもの、きれいさっぱり忘れましょう」
「え?」
立葵がぶるぶる震えだし涙を流し始めた。紫だったはずの目は、いつの間にか金色に変わりキラキラと光っている。
「夏乃さん、嘘だったのですか? 私が番で嬉しい、って、言ってくれたじゃないですか。子どももたくさん欲しいって、喜んでこちらに来てくださったのに」
立葵が泣きながら完全に鳥になって、露台から飛んでいってしまった。
五色のはずが影絵のように真っ黒な一羽。
(鳥は鳥でも、鳳だったんだなぁ)
もう酒はやめよう、そう決意した。
追記
立葵の外見的年齢は19~21です(実年齢は本編で)
夏乃はもちろん黒髪です。