二、羽と雲
(アアァ……ぬくぬく ふゎぁふゎぁ)
もふもふというより、ふわふわだ。凄くふわふわな何かに包まれている気がする。
(天国に来てしまったかー。絶対に帰るけど、もう少しこのまま寝てたいなぁ)
目を瞑ったまま、温もりの中心にすり寄ると〝ふわふわ〟もすり寄ってきた。
「え? 今動かなかった? ええと、このふわふわって……」
「もちろん私ですよ。夏乃さん」
男の低くて甘い声が降ってくると同時に、ふわふわの感触が消えた。惜しくて目を開けると、〝ふわふわ〟は肌触りの良い黒地の着物に変わっていて、撫でていた自分の手があるのは、そのちょうど胸の辺り。
(不味い。無意識にセクハラ案件)
なかったことに出来ないか、と着物の上からもわかる広く厚い胸板から、そっと手を離す。
そろそろと顔をあげると、片肘で寝そべった男にピッタリくっつかれて背中に腕を回されていた。
「夏乃さん?」
(嘘。こんなに綺麗な男の人って…………見たことない)
細めながらも凛々しい眉の下には、長い睫毛に縁取られた切れ長の目。高く筋の通った鼻梁は僅かな嫌みもない。
薄いけれど色気のある唇は、今は嬉しそうに弧を描いている。結われた彼の黒髪はきっと自分よりも長いだろう。
そしてその背中にある、髪と同じ、烏の濡れ羽のように黒く美しい羽……羽?!
「イケメン迦陵頻伽ァ~!」
跳ね起きて飛びすさった足は何も踏まない。
──あ、堕ちる!
「危ないですよ、夏乃さん」
一瞬で後ろに回った男がふわりと笑う。抱き止められたまま、秀麗な顏を二度見した。
「え? さっきそこにいましたよね? それにここは何処ですか? あなた、どちら様?」
「ええ、いましたよ。それからここは私達の屋敷で、そこは二人の寝台です。そして私は、」
朱色の柱に天蓋がついた、豪奢な寝台らしき物を指すと、イケメン迦陵頻伽が嬉しそうに────
「あなたの夫の立葵でしょう?」
と、意味不明な発言をかましてきた。その背には、やはり四枚の黒い羽がゆっくり羽ばたいている。
柔らかく上下する自分の体に、男の足が床についているとは思えない視線の高さ。
そっと下を見る……
「ギャァ! 浮いてる! 浮いてる! 羽! 羽!」
「暴れないで夏乃さん」
寝台に戻されると、すぐに後退って、ありったけの枕を盾にした。
(そんな哀しそうな顔をしたって絆されるもんか。だってこいつ、飛んだし、羽ついてるし)
「コスプレじゃなかったんですか?」
「夏乃さん」
「近寄らないでっ」
枕を投げつけ拒絶する。
「飛んだなら羽は本物でしょ! 背中に羽が生えた人間なんていない。だからあなたは人間じゃない! 鳥男!」
「夏乃さん……」
手を伸ばそうとして固まった鳥男に、潤んだ目で見つめられながら、ジリジリとベッドの端へ寄っていく。
(幻覚じゃなかった。寒さで朦朧としてたせいだと思ったのに! いくらイケメンでも鳥男なんて怖すぎる!)
ちょっとだけ心が痛んだけれど、鳥男が目を伏せた隙に寝台を飛び出した。
(絶対に帰ってやるんだから!)
朱色の窓を体当たりで開ける。
これまた朱色の欄干に囲まれた露台の向こうには────── 一面の雲。
雲、雲、雲。それだけ。
「は?! ちょっと何これ、雲海?」
(雲って上空何メートル? たしか最低でも二千メートルはあるよね? 二千メートルって二キロだよね、それって、飛び降りて逃げても即死どころか木っ端微塵じゃないですか?)
一縷の望みをかけて下を覗いても、雲しか見えない。
地上が恐ろしく遠かったあの鳥の巣でさえ雲の下だった……
(雲より高いって、嘘でしょ)
足がすくんで震える。手が手摺りにくっついて離れない。
「何で? ねぇ何で?」
いったい、ここはどこなの? なぜこんなところにいるの? あの鳥男は何?
あの鳥の巣で目が覚めてから、もう、何がなんだかわからない。
(夢なんじゃないかな。ここから飛び降りれば目が覚めるかも)
背中を温かいものが包んだ。大きな手が、手摺りから私の手を離す。
「……夏乃さん。もしかして、私のこと何も覚えていないのですか?」
頭の上から降ってくる声はひどく哀しげだ。
「……そうですか」
頷くと、返ってきた声は掠れていた。
また抱えられて体が浮いたのがわかったけれど、ぼやけた目にはよく見えなくて、あまり怖くない。
またそっと寝台に戻される。
「夏乃さん、お茶は如何ですか? 落ち着かれたら話をさせてください」
ぼんやりしていると、鳥男が顔を覗き込んでそう言ってきたので何となく、黙って頷いておく。
(一応助けてくれたみたいだし、悪い鳥ではないのかな……帰り方を教えてくれるかも)
お茶を入れる後ろ姿にさえ品が感じられる鳥男の背中には、さっきまでそこにあった筈の羽が跡形もない。
(実は秘境だったとかで、元の世界でありますように)
もう違うと気がついてはいたけれど、希望を持っていたかった。