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五丈原に死す

作者: 胡姫

――十年経ったら、おそばに行ってもよいですか。


秋風の渡る原野に、満天の星が降る。

私は夜空を見上げた。あまたの星が輝く中に、今まさに墜ちようとしている星がある。あれは私の星だ。最後の命を燃やそうと瞬く、どこか寂しげな光を放つ星。

隣で燦然と輝いていた高貴な星はもはやない。私が生涯かけて仕えたただ一人の人、劉備玄徳の星は、この広い空のどこにも。

白帝城であの方を見送ってから十年が経つ。

日を追うごとに記憶は鮮明になるのに、あの方は夜毎の夢にも現れては下さらない。

あの方の死はまるで昨日のことのようだ。南征、北伐、十年の間には様々なことがあった。お伝えしたいことはたくさんあるのに、どれも本当にお伝えしたいことではない。

――会いたい。

この空は私一人には広すぎる。

昨夜、初めて、あの方の夢を見た。私を見て微笑み、こちらへおいでと言いたげに手を差し伸べていた。優しい、あたたかな手に、あと少しで触れようとしたところで目が覚めた。

残ったのは胸を締めつける懐かしさと、かすかな桃の香り。

満天の星に手を翳す。指の隙間から星が降る。

「十年は、もう過ぎていたのだな」

触れられなかった指先を見つめ、誰にともなく私は呟いた。


それから私は燈明をいくつも灯して殿の訪れを待つようになった。

以前は夜を徹しても平気なほど頑健であった私の体は、体調を崩してからめっきり衰えた。食が細り、体力が落ちた。無理を重ね過ぎた。そろそろ限界なのだろう。夢と現の境界が分からぬ時もある。

人の音せぬ夜半、私はかすかに懐かしい声を聞いた。

(孔明)

胸が締めつけられる気がした。

十年ぶりに聞く劉備殿の声は記憶の通り、包み込むような慈愛に満ちていた。やわらかな声が慈雨の如く降り注ぐ。この十年、声を聞いたのは初めてだ。近づいてくる。少しずつ。

あの方からのお迎えが。

「ようやくおそばに行けるのですね」

灯の向こうにぼんやりと影が見えた。顔は見えずとも私があの方の気配を見誤るはずがない。吸い寄せられるように私は足を踏み出した。

その時、燈明のひとつが不意にかき消えた。

ごとん、と何かが倒れる音がした。同時に他の灯もいっせいに消えた。

幕舎が漆黒の闇に包まれ、私は夢の帳から引き戻された。

「しまった、失礼を」

聞き覚えのある武人の声がした。

一瞬、関羽が立っているのかと思った。大柄な体格、鋭い眼光、あの方の義弟が逢瀬の邪魔をしに来たのかと。だがそんなはずはない。

「魏延、」

私は細い息を吐いた。

「何をしておる。何用だ」

「丞相」

魏延は悪びれた様子もなく拝礼した。燈明がひとつ、蹴り飛ばされて彼の足元に転がっていた。

「ご報告が。敵の動きに変化がありました」

「……」

「丞相?」

私の不機嫌の理由が彼には永遠に分からないだろう。

魏延に悪気はない。間が悪いだけだ。いつもいつも。だがあの方は魏延を気に入っておられた。波長が合ったのだろうか。私には分からぬことだ。

魏延は興味深そうに幕舎の中を見回した。

「この燈明は一体?祈祷ですか?」

答える気は失せていた。また引き戻されてしまった、そう思った。


数日夢の訪れがなく、私は幕舎を出て秋風に吹かれていた。静かだった。この広い世界に、宇宙と私しかいないようだった。若い頃共に学んだ学友すら、今は一人もそばにいない。

昼間、姜維に泣かれた。逝かないで下さいと涙ながらに袖を掴まれた。彼には私の死の影が見えているのだろう。残していくのは心苦しい。

星を見ればこの国の行く末が分かる。北伐の行方も、季漢の行方も、とうに私には見えていた。では何故、繰り返し北伐をするのか。季漢の民に戦役を強いてまで。国のため、将来のため、理由はいくつもあったが私の心とはどれも少しずつ違った。

本当の想いは誰にも明かせぬ。

あの方ならば、少し困った顔をしながら聞いて下さったかもしれぬ…

いいしれぬ寂寥感が私を襲った。大海に一人投げ出されたような孤独感。温もりを求めて伸ばした手の先には誰もいない。

あの方と出会う前の私はいつも、このような思いを胸の奥に秘めていた。

生みの母を亡くし、父を亡くし、故郷を追われ、親族の庇護を離れ…そして、あの方に出会った。

三顧の礼。今でも鮮明に覚えている。あの方から訪ねて下さった。あの方に会う日を私はずっと待っていた。

今も待っている。

私はいつも待つばかりだ。あの方の訪れで出蘆し、あの方の訪れで世界から退場する。

あの方は世界の始まりと終わり。再びあの方が訪れた時、私の世界は終わるのだ。

「劉備殿」

私は虚空に手を伸ばした。

この広い空から劉備殿の星が消えてしまってからの、十年という月日は、私にはまるで無限に思えた。劉備殿のいない月日を私は懸命に埋めた。殿の忘れ形見を奉じ、共に創った国を支えた。南へ征き、北へ征った。そうすることであの方の息を感じられる気がした。

もういいでしょう。早く、早く、ここへ――

「そんなに急かさないでくれ。連れて行きたくなるではないか」

耳にふわりと、花びらのような声が散った。

「お前にはもっと生きていてほしいのに」

「……殿」

私は息を飲んだ。

劉備殿が立っていた。あの時、草庵に私を迎えに来てくれた時と同じ姿で。


黒目がちの深い瞳が潤んでいた。やわらかく微笑んだお顔は少しだけ悲しげに見えた。かすかに桃の甘い香りがした。

お姿を見せて下さるのは初めてだった。

「何度も行こうとしたが、できなかった。お前を連れて行きたくなりそうで」

「殿。…殿……」

他の言葉が出てこない。私は手を伸ばした。今度は触れられた。艶やかな肌はひんやりと冷たく、しかし膚の内には火のような熱さが感じられた。これこそが劉備玄徳。外見からは想像がつかないほどの激しい熱を秘めた私の主君。

「私の民と息子たちを、よく導いてくれた」

「いいえ。非力な私は、我が君のご期待に応えることができませんでした」

「苦労をかけてすまなかった」

劉備殿は私の手を取り、優しく撫でた。長年の疲労で私の手は荒れ、張りを失った皮膚には潤いがなかった。思わず手を引っ込めた私を、劉備殿の黒い瞳が不思議そうに見つめた。

「どうした」

「…私の方が年上になってしまいました」

今の私に、出会ったころのみずみずしさはない。月日のうちに面変わりしてしまったことだろう。殿には私の一番良い時を見てほしかった。

「あなたはお変わりない。私はこんなに年を取ってしまったのに」

「重荷を背負わせたのは私だ。お前に戦場は似合わぬ。もっと平穏な人生を与えてやりたかった」

「望んだことです」

「お前の手は、綺麗だ」

劉備殿は私の手をもう一度包み込んだ。

「この手はいつも私を導いてくれた。新しい世界をお前はくれた」

「世界をくれたのはあなたです。あなたに会わなければ、私はあの草庵で一生を過ごしていたでしょう」

その言葉を聞き、劉備殿はわずかに顔を曇らせた。

「時々思う。お前を訪ねなければよかったのではないか、その方がお前の幸せだったのではないか。…私のわがままでお前を平穏な世界から連れ出してしまったのではないかと」

「いいえ」

私は強くかぶりを振った。

それは平和な毎日だったかもしれない。だが私は劉備殿と共に命をすり減らしたい。もう一度同じことがあっても、私は劉備殿の手を取る。何度生まれ変わっても必ず。

「あなたのいる世界こそが私の世界です」

今度こそ手を離さないでほしい。

私はもうすぐ死ぬ。

命の火が尽きかけていることは劉備殿の目にも明らかだろう。黒目がちの瞳が痛ましそうに私を見つめ、潤んでいた。

知っていましたか。この北伐は私怨だと。

あなたを奪った曹操を、私は今も許しておけないのです。国力を削ぐと、多くの血を流すと分かっていても魏を攻めずにいられなかった。どのような理由よりこの思いが強かった。

北伐は、祈りのようで呪いのようで。

誰にも、あなたにすら言えないことだけれど。

その時、大きな星がすうっと弧を描いて地平線の彼方に落ちていった。

あれは私の星。劉備玄徳と世界を創りたいと願った、諸葛孔明の。

それが合図のように、夜空に星が降り始めた。いくつもいくつも。流星は空いっぱいに広がり、まるで雨のようにあとからあとから降り注いだ。

星の降る下で、私は劉備殿に笑いかけた。

「さあ。我が君。語り合いましょう」

三顧の礼の時のように。

天下三分の計を語りながら、私は、この計が天下の安寧に逆らう道だと知っていた。それでも私は劉備殿と共に世界を創りたいと願った。星は季漢の行く末を示していたのに、私は劉備殿を天下の安寧に逆らう道に引きずり込んだ。

あの時から、私たちは共犯だった。私たちはともに季漢という夢を見た。

その罪は私と劉備殿の、義兄弟にも幼馴染にも邪魔のできぬ、私たちだけの絆だった。

なんと甘美な絆だろう。

「時間は無限にあります。この先はずっと、……」

――ずっと一緒に。

そして私たちは今度こそ誰にも邪魔をされず、永遠の時を過ごすのだ。

私の喉から出た言葉はこの世の声ではなかった。もう、この世の息は出なかった。

秋風が渡る。その風と共に、私の魂魄は愛しい人のもとへどこまでも高く舞い上がっていった。


満天の星が降り注ぐ。その空に、もはや私の星はない。

この世の外で、私たちは、新しい世界を創るのだ。


           (了)


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